残響
夜のフィオラは静かだった。
雨音だけが、
古い屋根を叩いている。
暖炉の火は小さく揺れ、
部屋の中には穏やかな熱が残っていた。
エリシアは眠っている。
毛布を抱き寄せるようにして、
小さく寝息を立てていた。
その姿を、
ペルリニエは少し離れた場所から見つめていた。
⸻
昼間の光景が、
頭から離れない。
赤錆へ変わっていく鉄看板。
怯えた人々。
空気を震わせた紫色の魔術。
そして。
“怖い”と、
誰かが呟いた声。
「……っ」
ペルリニエは俯く。
細い指先に、
淡く紫晶の紋様が浮かんでいた。
抑えきれていない。
まただ。
また、
誰かを巻き込む。
⸻
窓の外を見る。
止まない雨。
カルタスト大陸を覆い続ける、
呪いみたいな雨。
「……やっぱり」
静かな声が落ちる。
「ここにいてはいけない」
⸻
ペルリニエは立ち上がる。
音を立てないように、
静かに。
机の上へ、
小さな袋を置いた。
中には金貨。
それから。
市場で買った焼き菓子が一つ。
少し迷ったあと、
ペルリニエは小さく笑った。
「……甘い物を食べると幸せになる、だったかな」
エリシアの声が、
耳に残っていた。
⸻
扉が開く。
冷たい夜風。
湿った空気。
雨。
ペルリニエはフードを深く被り、
静かにフィオラの街へ消えていった。
一度も振り返らないまま、
エリシアの家を後にした。
⸻
翌朝。
「……ペル?」
エリシアは眠たげに目を擦る。
返事はない。
「ペルー?」
部屋は静まり返っていた。
嫌な予感がする。
エリシアは慌てて立ち上がった。
空っぽのソファ。
開いた窓。
冷たい空気。
「……え」
机の上に、
金貨と焼き菓子が置かれている。
そこでようやく、
理解した。
いなくなった。
「……うそ」
雨音だけが、
やけに大きく聞こえた。
⸻
一方その頃。
ヴェルグレイヴ騎士団は、
フィオラへ到着していた。
雨の中、
黒い軍馬が石畳を踏み鳴らす。
先頭を歩く男。
黒灰色の外套。
腰には長剣。
アルヴィスは静かに街を見渡した。
小さな街だ。
だが。
空気が妙だった。
「隊長」
部下が近付く。
「例の高位魔術反応、
この辺りで確認されています」
「……そうか」
アルヴィスは短く返す。
胸騒ぎが止まらない。
まるで。
遠い過去が、
すぐ後ろまで迫ってきているみたいに。
⸻
騎士団は街の聞き込みを始めた。
「最近変わったことは?」
アルヴィスが八百屋の店主へ尋ねる。
店主は腕を組みながら唸った。
「変わったことねぇ……」
少し考え込み、
やがて口を開く。
「そういや妙な旅人が来てたな」
アルヴィスの視線が動く。
「旅人?」
「あぁ。白ぇ髪した綺麗な兄ちゃんでな」
その瞬間。
アルヴィスの表情が、
僅かに強張った。
⸻
「あと変なこともあった」
「……なんだ」
「紫色の光だよ」
雨音が強くなる。
店主は眉を顰めた。
「古い看板が急に錆びちまってさ」
アルヴィスは黙る。
紫。
赤錆。
その組み合わせを起こせる存在を、
彼は一人しか知らない。
⸻
脳裏に、
昔の記憶が過った。
森。
木漏れ日。
笑い声。
『また来たのか、アル』
『お前こそ』
白銀の少年が、
少しだけ笑っていた。
⸻
雨音で、
現実へ引き戻される。
アルヴィスは静かに目を伏せた。
そして小さく呟く。
「……ペルリニエ」
その名前は、
まるで長い間閉じ込めていた記憶を
呼び起こすみたいだった。
⸻
その頃。
フィオラを離れた街道を、
一人の影が歩いていた。
白銀の髪。
黒い外套。
雨に濡れながら、
ペルリニエはただ前だけを見る。
戻らなければならない。
ルーメリアへ。
自分がいるべき場所へ。
たとえそこが、
檻だったとしても。




