錆びない時間
朝になっても、雨は降り続いていた。
フィオラの石畳は昨夜の雨を吸い込み、
薄い霧を纏っている。
窓辺に立ちながら、
ペルリニエは静かに外を見ていた。
細い雨。
灰色の空。
遠くで鳴る鐘の音。
カルタスト大陸では、
ありふれた朝の景色。
でも。
「……綺麗だな」
ぽつりと、
そんな言葉が零れた。
⸻
「ペルー! 朝ごはんできたよー!」
後ろから聞こえる明るい声。
ペルリニエはゆっくり振り返る。
エリシアがパンの籠を抱え、
こちらへ手を振っていた。
「冷めちゃうよ!」
「……今行くよ」
その言葉に、
エリシアは少し嬉しそうに笑う。
不思議な人だ。
こんなにも無防備に、
誰かへ笑いかけられる人間を、
ペルリニエはほとんど知らない。
⸻
小さな食卓。
湯気の立つスープ。
焼きたての黒麦パン。
窓を打つ雨音。
静かな時間だった。
「ねぇペル」
「どうしたの?」
「昨日より顔色良くなってる」
「……そうかな」
「うん、昨日苦しそうな顔してたから」
さらりと言われ、
ペルリニエは少しだけ目を細める。
「君、不思議な子だね」
「え?」
「普通、初対面にそんなこと言わないよ」
エリシアはきょとんとしたあと、
小さく吹き出した。
「でも本当だったし」
ペルリニエは少し黙る。
それから。
小さく笑った。
本当に僅かだったけれど。
確かに笑った。
⸻
昼過ぎ。
エリシアは買い物へ行くため、
ペルリニエを連れて街へ出ていた。
フィオラの街並みは、
古びている。
雨に濡れた煉瓦。
錆びた街灯。
軋む看板。
けれど人々は皆、
穏やかに暮らしていた。
「エリシアちゃん、その人誰だい?」
八百屋の店主が笑いながら聞く。
「あー……えっと……」
エリシアは困ったようにペルリニエを見る。
ペルリニエは静かに頭を下げた。
「しがない旅人です」
店主は朗らかに笑う。
「フィオラへようこそ!」
その瞬間。
ペルリニエの瞳が、
少しだけ揺れた。
――ようこそ。
そんな言葉を向けられたのは、
いつぶりだっただろう。
⸻
市場を歩きながら、
エリシアは隣を見る。
ペルリニエは、
どこか周囲を警戒していた。
まるで。
“普通の日常”に慣れていないみたいに。
「ねぇペル」
「どうしたの?」
「好きな食べ物ある?」
ペルリニエは少し考える。
「……よく分からない」
「え?」
「食事は栄養補給するためだけの事だよ」
エリシアは思わず足を止めた。
「えぇ……」
「変かな」
「変だよ!?」
ペルリニエは困ったように目を伏せる。
エリシアは少し考えてから、
屋台の焼き菓子を一つ買った。
「はい」
「……?」
「甘いもの食べると幸せになるんだよ!」
半ば無理やり押し付けられ、
ペルリニエは焼き菓子を見る。
そして一口。
「……」
「どう?」
沈黙。
数秒後。
「……甘いね」
「そりゃそう」
エリシアは吹き出した。
つられるように、
ペルリニエも少し笑う。
その笑顔を見た瞬間。
エリシアは、
胸がぎゅっとした。
この人は。
どうしてこんなに、
寂しそうに笑うんだろう。
⸻
一方その頃。
ヴェルグレイヴ軍本部。
重苦しい空気の中、
アルヴィスは報告書を睨んでいた。
「紫晶系魔力反応……」
その文字が、
嫌に目につく。
窓の外では雨。
止まない雨。
「隊長」
部下が声をかける。
「フィオラへの派遣命令です」
「……そうか」
アルヴィスは静かに立ち上がった。
胸騒ぎがする。
ずっと。
昔から知っているような、
嫌な予感。
雨音が、
妙に耳に残った。
⸻
夕暮れ。
エリシアの家へ帰る途中。
突然、
子供の悲鳴が響いた。
「っ!?」
エリシアが振り返る。
古い鉄看板が、
崩れ落ちていた。
⠀ずっと続いている雨のせいで老朽化していたのだろう。
その下には、
小さな男の子がいた。
「危ない!!」
エリシアが駆け出す。
でも間に合わない。
その瞬間。
紫色の光が走った。
空気が震える。
落下していた鉄看板が、
空中で止まる。
男の子は無傷だった。
周囲が静まり返る。
ペルリニエは、
咄嗟に右手を下ろした。
まずい。
使うつもりじゃなかった。
でも。
「す、すごい……!」
子供が目を輝かせる。
その瞬間。
ギギギ……と、
嫌な音が響いた。
看板が、
急速に赤錆へ侵食されていく。
周囲の街灯。
鉄柵。
濡れた金属。
全てが一瞬で腐食していく。
空気が凍った。
エリシアが息を呑む。
ペルリニエの顔色が、
目に見えて青ざめていく。
「……ぁ」
小さく震える声。
雨が強くなる。
まるで。
空そのものが、
彼に呼応しているみたいに。
ペルリニエは俯いたまま、
壊れそうな声で呟いた。
「……ごめん」
その言葉だけが、
雨音の中へ静かに沈んでいった。




