第六話 末裔
猪ノ原たちはさらに詳細なデータを求めて、街の資料館へ向かった。「いまだに忍者家業してるところもあってさ」桜木は何のこともなさそうにいう。「うちはそういうのは先先代からとうにやめてるけど、資料だけはあるから強盗が入ってさ、あまりに酷いから資料館に大半は預けてあるんだよ」
半ば強引に連れ回されて、訳の分からない世界を見せつけられ、ここまで来るとリョウはむしろ心地よさすら覚えていた。
そこには、眼鏡をかけた歴史オタク然とした桜木家当主と、解説員として働く彼の娘がいた。優香は低めのポニーテールと気の弱そうな眼が印象的な、儚げな女性だ。リョウは、彼女が無駄のない動作で資料を運ぶたびに彼女も何かの拍子にパルクールをしだすのではないかと疑わざるを得ず、少し回復してきた理性で警戒を強めていた。
方々から漁ってきた資料を突き合わせた結果、メンバーは次のような結論に達した。
現在街を侵食している「わけわけ」と呼ばれるその白い生き物は、承認欲求から生まれ、親切心につけ込み搾取する悪意の権化だ。見た目はケセランパセランに近いが、より質量がある。それは自分を慈しんでくれる者につけ込み、共依存を引き起こすことで増殖する。街中で拾った誰かが親切心で引き入れれば指数関数的に増殖し、数時間後には日本全土まで拡散飛散し埋め尽くす恐れがある。猪ノ原が言うには発生源は旭川家の子供部屋だった。
宿主から引き剥がすのが最優先――つまり、今すぐ旭川カレンを説得しなければならない。
リビングを埋め尽くす、跳ねるわたくずの海。旭川翔太はその白い濁流に膝まで浸かりながら、閉ざされた妹の部屋のドアを見つめていた。内側からは、カレンの嗚咽と、物体が膨張し壁を擦るザワザワという不気味な音が絶え間なく響いている。
途方に暮れ、絶望が首筋を撫でたその時、翔太のポケットの中からチャペル・ローンのGood luck, babe! が流れてきた。スマホの画面には「リョウ」の文字。
「……リョウ! ごめん今、それどころじゃないんだ、家の中が大変なことに——」
『翔太、落ち着いて聞け。もふもふした生き物が湧いてるだろ。そいつを消すには今すぐお前の妹を説得するんだ。じゃないと日本全土がそいつに埋もれる。』
リョウの声は、普段にも増して鋭く、口答えさせない凄みがあった。
「説得って言ったって、ドアを開けてくれないんだ! あの子、自分が育てたとか、食べものをあげてたとか言って……」
『そいつは「わけわけ」っていう妖怪だ。愛情を糧にして増殖する。彼女が優しさを注げば注ぐほど、彼女の精神はそいつに食い潰される。……翔太、お前が直接、妹とそいつの繋がりの「核」を壊すしかない』
リョウの言葉は理解の範疇を超えていたが、目の前の増殖する異常を止める唯一の鍵であるらしいことは直感できた。「わかったよ、ありがとう」そう言って通話を切る。翔太は一瞬、リョウからの連絡に心から安堵した自分を脇に押しやり、ドアに額を押し当てた。
「カレン、聞いてくれ……!」
翔太の声は、自分でも驚くほど震えていた。いつも完璧な兄であろうとして、選んできた言葉たちが、この異常な空間では何の役にも立たないことを悟る。
「……ごめんな、カレン。僕が、カレンの寂しさに気づかないふりをしてた。君が、血の繋がっていない僕に対して、どう振る舞えばいいか分からずに苦しんでいたことも……全部、分かってて、触れないのが一番の優しさだって、勝手に決めつけてたんだ」
翔太は、初めて本心をさらけ出した。
ドアの向こうで、カレンの泣き声が止まった。代わりに、静かな拒絶の叫びが響く。
「……そういうとこ……そういうところだよ、お兄ちゃん……!」
カレンの声は、悲しみでぐちゃぐちゃだった。
「お兄ちゃんはいつも優しすぎて、私がどれだけおかしなことを言っても怒らない。……それが、ずっとつらかったんだよ。お兄ちゃんが完璧であればあるほど、本気で妹になれない自分の汚さだけが浮き彫りになるみたいで……!」
翔太は、ドア越しに伝わるその絶望的な孤独に胸を締め付けられた。
彼女が抱えていたのは、誰にも、そして完璧すぎる兄にさえも見せられなかった、醜い自責の念。あの生き物はその「自分だけが知っている闇」に寄り添い、彼女を共依存へと引きずり込んでいたのだ。
「ああ、そうだよな。……僕は、カレンにとって最低の兄貴だった」
「そんなことないよ、、」カレンは思わずドアを開けて駆け寄りたい衝動に駆られた。
その瞬間。
「アッ、アッ……」
リビングを埋め尽くしていた白い個体たちが、一斉に悲鳴のような音を立てた。質量の供給源であった盲目的な保護欲が、兄妹の互いの痛みを伴う告白によって、急速に冷え切っていく。
「いかないで……」
カレンの悲痛な声も虚しく、あんなに魅惑的だった白い幻想は、内側から空気が抜けるように萎み、ただの汚れた綿屑となって床に散らばった。
翔太は、膝まで埋まっていた重みが消え、急に軽くなった自分の足元を、ただ呆然と見つめていた。
「終わったか」猪ノ原が上司に連絡を入れようと後にする。斎藤も続けて、外を見てくるといなくなる。疲れと達成感が押し寄せてくる。
それまでリョウの腕の中で執拗に喉を鳴らしていた茶トラが、ふいにと、重力から解き放たれたような軽やかな動作で床に降り立った。猫はリョウを振り返ることすらなく、開かれたドアから外へと消え、そのまま旭川家の方角へと走り去っていく。
リョウは、両腕の軽さを噛み締めるようにし、まだ毛並みの感触の残る自分の手のひらを見つめた。
ポツリ、と乾いたアスファルトを叩く音がした。六月の湿った土の匂いを含んだ雨が降り始める。
桜木が、資料館の軒先で空を仰いだ。達観したような瞳に、わずかな鋭さが宿る。
「……こないだの強盗の時も、こんな雨だったな」
その言葉に、資料館の奥で眼鏡を拭いていた伯父が、重い口を開いた。
「……先々代が殺された時も、やはりこんな雨の日だったそうだ。燐之助くんは聞かされてないかもしれないけどね。」
桜木が眉をひそめる。伯父は、棚に並ぶ古めかしい巻物を一瞥して続けた。
「ここに並んでいるのは、あくまで表向きの資料と活動記録だ。本当の資料、一族の核心に触れる術式は、ここにはない。それは、先々代が死んでも奪われたくなかった大きな力だよ。」彼は何かを促すような小さく輝く瞳で、燐之助に向かって頷いた。
つづく




