第五話 職業見学
「……で、なんで俺まで連れて行かれるんすか?」
喫茶「明晰夢」の裏手に停められた、少し年季の入ったワゴン車の助手席で、リョウは白い毛玉が車内に侵入しないように蹴り出しながら、運転席の桜木燐之助に問いかけた。
「さあ。トオルさんが『まずは見学が必要だ』とか何とか言ってたからじゃないの。……てか加賀見、シートベルト締めて。警察に捕まるのとかマジで時間の無駄だし」
桜木は、いつも通り極限まで熱量を削ぎ落としたトーンで応じる。リョウとは大学もバイトも同じ、お互いに深入りしないことで成立している、絶妙に心地よい距離感だ。
「見学って。俺、今日の午後は再履修のレポートまとめる予定だったんだけどな」
「諦めなよ。今日は研修生として座ってるだけでいいから。……僕も実家に戻るのなんて、法事か資料の虫干しぐらいで勘弁してほしいんだけどね。早く戻れるといいな」
「研修生って…ただのサークル活動じゃないの?」
「あれは怪異に興味のある学生がバカをやらない様に監視してるだけ。俺らは下っ端の対策班みたいなものかな」
ワゴン車がゆっくりと動き出す。
後部座席では猪ノ原が、始終猛烈な勢いでノートPCのキーを叩き、どこかの上層部とチャットで火花を散らしているようだった。
「……これ、どこに向かってんの。桜木、お前の実家って、そんなに山側の方だったっけ」
「山っていうか、境界線。……加賀見、お前の足元のそれ、大人しくさせておいてよ。うちの庭、結界とか面倒なのはないけど、古いもんが詰まってるから。変なもんに当てられて毛が抜けても知らないよ」
リョウが履いているコンバースの間から、茶トラが窓の外をじっと見つめていた。
薄暗い曇り空。時折窓を打ち付けるのは雨ではない。白いウニのような謎の物体がかすかな声をあげて滑り落ちていく。
市街地を抜けるにつれ、景色から都会の雰囲気が剥げ落ち、黒ずんだ板塀や、手入れの行き届かない防風林が目立ち始める。
「……説明とか、なし?」
「なし。見ればわかるでしょ。……というか、説明したところで加賀見のその価値観じゃ、処理落ちして再起動不可になると思うよ」
桜木が、色の薄い瞳でリョウを一瞥した。
その目は、店で「皿、下げといて」と言う時と同じくらい平熱だったが、ハンドル捌きは正確で無駄がなく緊迫していた。
やがて車は、うっそうと茂る竹林の合間に滑るように入っていった。
「……着きました。」「あいよ」「ありがと、お疲れ様」
桜木がエンジンを切ると、辺りは耳が痛くなるほどの静寂に包まれた。ここまで来ると流石にあの白いやつはいない。
「…お前、猫、絶対離すなよ」
トヨタの旧型シエンタから降りると目の前には時代劇さながらの武家屋敷が広がっていた。
「……実家って」
リョウは、目前にそびえ立つ重厚な長屋門を見上げ、呆然と呟いた。一体こいつはどこの末裔なんだ。竹林のさざめきだけが響く静寂の中で、その巨大な蔵を抱えた武家屋敷は、現代都市の記憶から完全に切り離されているように見えた。
「伊賀忍者だよ」
桜木が、リョウの内心を見透かしたように、感情の起伏がない声でさらりと言った。
「……そういうのって、あくまで江戸でスパイ活動とか火消しを専門にしてた、現実主義な集団じゃなかったのか。」
リョウは、自分のこれまでの歴史的知識を必死に手繰り寄せ、オカルトチックな騒ぎと忍者屋敷を関連づけようと試みる。
猪ノ原が、巨大な黒塗りの門を派手にノックしてごめんくださあーいと叫ぶ。
「まあ、基本はそうだけど。……あー、門の鍵、外からだと開けづらいんで、ちょっと待っててください」
桜木はだるそうにそう言い残すと、スタスタと門へ向かって歩き出した。
次の瞬間だった。
重いジャケットを羽織った桜木の体が、重力から解き放たれたようにふわりと浮いた。足場のない垂直の壁を、パルクール並みの鋭い身のこなしで蹴り上げ、一息に門の屋根を飛び越える。音一つ立てずに内側へ着地したのか、直後、内側からガチャガチャと何やらカラクリを無効化する音に続いて、閂の外れる「ガコン」という重厚な音が響いた。
「どうぞ。……ああ、足元、泥の跡つけないでくださいね。掃除が面倒なんで」
開かれた門の向こうで、桜木はまたいつもの全てを諦観したような顔で立っていた。
リョウは、自分の中にあった「日常」という防壁が、今の跳躍一つで粉々に砕け散るのを感じた。改めてまじまじと彼を見る。色素の薄い瞳に、刈り上げをスッキリ見せたオールバック気味の薄茶色の髪。整った顔立ちだが、いつも黒い立体マスクをつけ、常に「面倒くさい」というオーラが全身から漏れている。目の前の男が、昨日まで一緒にコーヒーを運び、だるそうに皿を下げていた友人と同じ個体であるという事実に、猛烈な眩暈を覚える。
「……っ」
全ての不信感と、自分という存在のあまりの平凡さに気後れし、リョウはかろうじて保った理性の残骸を繋ぎ合わせて歩き出した。皮肉にも茶トラのゴワゴワとした毛並みの手触りだけが、このイカれた世界における唯一の心の拠り所だった。
「失礼しまーす」斎藤がキョロキョロしながら、日本庭園にそぐわない夏らしいサンダルで足を踏み入れる。
後方から、猪ノ原が「……やっぱりこの磁場、数値が乱れてるな」と、よくわからない厳ついデバイスを弄りながら続いてくる。
桜木の背中を追い、リョウは歴史の教科書には決して載ることのない、閉じられた知恵の深淵へと足を踏み入れた。
白く塗り直された漆喰が、六月の午後の光を無機質に反射している。桜木が巨大な鉄の鍵を差し込み、軋み音一つ立てずに重厚な扉を開くと、そこにはリョウが想像していたような埃を被った骨董品や呪物の社はなかった。
整然と並ぶ桐の箱、湿度管理された空気。そこにあるのは、過去を保存するためではなく、現在も使われる生きたアーカイブだった。
蔵の母屋側から「あら、大勢ね、久しぶりだわ、みなさん上がってお茶でも飲んでいきますか、それとも急ぎかしら」と、ユニクロに身を包んだ桜木の母親が顔を出した。奥ではおばあちゃんがテレビを見ながらくつろいでいる。父親は普通のサラリーマンで、おじいちゃんは「今日は大事な試合だから」と野球観戦の遠征に出かけているという。数キロ先はてんやわんやだというのに呑気なものだ。
「適当に見てていいよ。……あ、加賀見、その猫、箱の上に載せないでね。爪研がれたらマジで親父に殺されるから」
桜木はだるそうに言いながら、スタスタと「天候・災厄」と記された一画へ向かう。リョウは、腕の中の茶トラを抱き直しながら、棚に並ぶ古文書や図録の背表紙を目で追った。
そこには、おどろおどろしい呪術の書などではなく、ある種統計学的な記録が並んでいた。
天災の歴史と因果: 過去数百年間にこの地域で起きた豪雨、洪水、そしてそれに伴う怪異の発生時期が、驚くべき精度でマッピングされている。単なる迷信ではなく、特定の気圧配置と怨念が交差した点に発生するエネルギー体の処理方法が個体ごとに研究され記されている。
「……これ、歴史書っていうより、災害対策マニュアルじゃないか」
リョウは、一冊の書物——そこには『気象操作に伴う局所的認知歪曲の補正手順』と書かれていた——を指先でなぞった。彼の知る論理的な学問の世界が、この蔵の中では「忍術」という言葉に置き換えられ、より実利的な牙を剥いている。
「まあ、昔の人は現象に名前をつけるのが好きだったからね」
猪ノ原が背後から覗き込み、手元のデバイスと古文書の記述を照らし合わせる。
「見てみろ。今のこの『夏なのに街が雪に沈む』現象。過去にも明暦の大火の直前に似たような記録がある。……問題は、発生源だ」
猪ノ原の指が、書類をトントン叩いた。
「承認欲求を吸い上げ、物理的な質量に変えて肥大する怪異がある。対処法はこれか……忍術ってのは、結局のところ、干渉可能な範囲で人間の根本的な認知と感情を扱う技術なんだよ」
つづく




