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第四話 銀世界

翌朝、街は純白に輝いていた。ベランダから溢れ出したもふもふたちは、一晩のうちに路地裏や駅のホーム、街路樹の隙間を埋め尽くしていた。直近で続く異常な長雨に加え、ローカルニュースでは「空から魚が降ってきた海外の事例」や「不可解な降下物」と対応させてセンセーショナルに報じられている。


画面の中の専門家は、困惑を隠せない顔で的外れな助言を繰り返していた。

「……えー、この付着生物については、素手で触れないことを推奨します。未知のダニや寄生虫が潜んでいる可能性も否定できませんので、自治体の清掃を待つように……」


「何これ、意味わかんないんだけど」

斉藤チコはスマホを握りしめ、猪ノ原にラインを入れた。

『ニュース見ました? 街中、毛玉だらけですよ』


数分後、猪ノ原から着信があった。受話器越しの彼の声は、昨日の「嵐」を予感させる時とは打って変わり、酷く疲れ果てた、現場の責任者のそれだった。

「どうやら『アメフラシ』だけじゃないみたいだな。……斎藤、桜木に今連絡取れるか?」


「桜木くんに? 休みじゃないですか、今日」


「わかってる。日曜に連絡を入れる上司にはなりたくないんだが、背に腹は代えられない。今、上層部はイタリアのカルト団体の対処で手一杯なんだよ。あっちの『奇跡』の隠蔽工作にリソースを割かれてる。……こっちは、俺らで防ぐしかない」

猪ノ原の背後から、激しいタイピング音と、誰かの怒鳴り声が聞こえた。


「真田さんとか神泉組の人達呼んで来れないんですか。」

「たつたつはダメだ。あいつは…妖精専門だから。」

「猪ノ原さんが苦手なだけですよね?」

「いいからあいつの実家に頼るぞ。桜木家の蔵に資料を見せてもらいにいく。……加賀見くんにも伝えておけ。これ以上、論理の箱に閉じこもってちゃ、街ごと泥に沈むぞってな。」

電話が切れる。

「はぁ…一仕事しますか」


外の喧騒をよそに、加賀見リョウは深い眠りの中にいた。

連日の講義とバイト、そして「正体不明の侵入者」に対する思考の空転が、彼の脳を摩耗させていたのだ。

だが、その平穏は唐突に破られた。


「……ッ、ぐっ……!」

胸元に、ボウリングの球を置かれたような、逃げ場のない「重み」を感じてリョウは跳ね起きた。

カーテンの隙間から差し込む陽の光を浴びてそこにいたのは、あの茶トラだった。

「お前……いい加減にしろよ。不法侵入だぞ」

リョウは荒い息をつきながら、自分を圧迫していた毛玉を退かそうとした。


しかし、指先に触れたその体温は、以前よりも異常なほど熱い。そして、猫の視線はリョウではなく、ぴっちりと閉められたはずの窓の隙間、その外側を凝視していた。

「……?」


リョウが視線を追うと、窓ガラスの向こう、ベランダの柵にもふもふとした塊がいくつか、粘りつくように張り付いていた。何だこれは。よく見ると窓のサッシの僅かな隙間から、意思を持っているかのように中へ入り込もうとうごめいている。気味が悪い。

「わ…わけわけしよう……わけわけ…」


その瞬間、茶トラが動いた。

「……フシューッ!!」

喉の奥から、地鳴りのような威嚇音が響く。


茶トラは左後ろ足を引き摺りながら、窓際へと詰め寄った。その一歩ごとに、フローリングには湿った泥の跡が刻まれる。猫は、気味の悪いまっしろしろすけが侵入しようとする隙間を、自らの体で塞ぐようにして座り込んだ。

それは、居場所を奪われたなにかが、最後に残されたこの四畳半という聖域を死守しようとする、執念の防衛本能だった。


「……そうか。お前、外に居場所がなくなったんだな」

リョウは、ベッドの上に座り込んだまま、初めて茶トラと真正面から向き合った。

今まで光学的なエラーや脳の機能不全という言葉で片付けようとしていたものが、今、目の前で熱を持ち、必死に意味不明な現実と戦っている。


その時、スマホが震えた。猪ノ原からの名刺に記された番号ではなく、同好会のグループチャットだ。

斎藤: 「加賀見くん、生きてる? 街が大変なことになってる。猪ノ原さんが、桜木くんの実家に行くから君にもきてほしいって。30分後にカフェ集合で。」


リョウは、窓際で柔らかい津波を睨みつける茶トラの背中を見つめた。

論理の世界が、足元から沈んでいく感覚。

だが、同時に、この孤独で毛むくじゃらな侵入者を守らなければならないという、理屈を超えた衝動が、リョウの胸の奥で静かに、しかし確かに脈打ち始めていた。

「……わかったよ。お前をここに置いたままには、できないな」

リョウは着古したダブダブの部屋着を脱ぎ捨て、持っている中で一番まともなTシャツとジーンズに履き替えた。


その頃、旭川家では翔太が途方に暮れていた。

家を出ようにも、リビングから廊下までが例の「もふもふ」に埋め尽くされている。追い出そうと手を伸ばした瞬間、カレンが必死な形相でその白い生物を抱きかかえた。

「やめて!!…私が……私が育てたの。ボボっていうの…私が食べもの、あげてたの……! いじめないであげて、お願い……!」


震える声でそう訴え、カレンはボボと共に部屋へ閉じこもってしまった。翔太は呆然とふわふわの海の中に立ち尽くした。


あんなに必死なカレンを初めて見たことが衝撃なのか、あの生き物が自分の妹のせいで増殖したことが衝撃なのか、はたまたこのどう見ても馬鹿げた夢としか思えないシチュエーションが実際に起きているらしいことが衝撃なのか。


彼にはもうよくわからなかった。


つづく

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