表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/7

第三話 嵐

「今月の季節メニュー、苺のアイス・ピスタチオタルトとバスクチーズケーキ、どっちがいいかな」


喫茶「明晰夢」の羽賀マスターがカウンター越しに、同好会のメンバーへ向けて問いかけた。連日の雨で客足が減っているので、何かとびきり美味しいものを企画したいらしい。個人経営のカフェらしい、緩やかで親密な時間が流れる。

元IT企業の上司だったという猪ノ原には、スイーツの適正を判断するセンスがあるようには見えない。しかし、マスターの彼に対する信頼は絶大だ。


「苺だな。バスクはもう飽和してる。コンビニでも買えるだろ」

猪ノ原はノートPCの画面に視線を固定したまま、即答した。リョウが思わず「そういうの食べるんですね」と口にすると、彼はタイピングの手を止め、無精髭を触りながらニヤリと笑った。


「甘いの、好きなんだよ」


意外な一言に、リョウは以前、桜木が漏らしていた言葉を思い出す。

『あの人、最初はヤバいアート系の人かと思ったけど意外と人情に厚くて。……なんか有名な漫画家の遠い親戚らしいよ』

真偽のほどは不明だが、猪ノ原という男の得体の知れなさが余計に不気味である。


その日の議題は『学校の怪談における空間的歪曲』について。

メンバーは自家製プリンに舌鼓を打ちながら、知的な談義に花を咲かせた。永遠に続く階段は、大人になりたくない子供達の怨念の集積。トイレの花子さんは建築上の北に置かれやすいじめっとしたトイレという性質と血液を誤解した低学年の噂が発端となった恐怖の集積。理科室は、、人体模型が怖かったんだろう。

「——まあ、結局は全部、人間の主観が生み出した戯言だけどね」

猪ノ原がいつものように会を茶化して締めくくったとき、リョウの表情に一瞬だけ走った曇りを、彼は見逃さなかった。


「……加賀見くん。何か悩み事でもあるのか。それとも、何か変なものでも見たかい」


降りしきる雨が激しく窓を叩いている。


カウンターにいた桜木が、グレーがかった眠たげな目で「また始まった」とでも言いたげに、ため息をついてこちらを見やったのがわかった。

猪ノ原の問いに、リョウは一瞬躊躇ためらい、重い口を開いた。

「いや……。実は、飼ってもいない猫が部屋に入ってきていて。実体が怪しくて。アパートの管理人に、ペットを飼うなと警告文まで貼られたんです」


事情を話す間、猪ノ原は彫りの深い顔でリョウを真っ直ぐに見据えていた。


「君には二つの選択肢がある。今まで通りの世界に留まり、アパートの件は証拠がないと論理的に主張して押し通すか。あるいは……どんなに奇妙でも、その目で『真実』を見るかだ」

個性的な黒縁眼鏡の奥の瞳が、無言で告げている。

当然、君は後者を選ぶよね?


その瞬間、視界の端で世界がわずかにグニャリと歪んだ。鼓動が早くなる。

この世に、自分の知らないオカルトじみた何かが本当に存在するのか。


いや、認めたくない。そんなのは、僕が愛する論理的な世界に対する冒涜だ。

「……おかしい。こんなのは、絶対におかしい」


リョウは、プリンの皿に残った原色の桜桃を見つめたまま、自分自身に言い聞かせるように呟いた。しかし、耳の奥ではすでに、あの「ズリッ……」という重い足音が再生され始めていた。


その緊迫した空気感を切り裂いたのは、あまりにも場違いなメロディだった。

猪ノ原のスマートフォンが、『You are my SOUL! ⭐︎SOUL!⭐︎…』と陽気に歌い出す。


「……あ、ちょっと失礼」

慌てて端末を取り出しながら、彼は手際よく一枚の名刺をリョウの前に滑らせた。去り際、鋭い眼光がリョウを射抜く。

「覚悟ができたら連絡して」


そう言い残すと、彼は耳に当てた受話器に向かって、先ほどまでの「同好会の主催者」とは別人の、酷く事務的で冷徹な声を出し始めた。


「……はい、もしもし。ええ、その件はこちらでも把握しておりまして、今ちょうど対処し始めております。……ええ。完全な害悪と判断できる要素が現状では不足しておりまして、今は可能な範囲での情報収集を。……気象に関しては専門外ですが、善処します」

専門用語と曖昧な報告が混ざり合う、軽妙なビジネス・トーク。


猪ノ原はリョウに向かって一度だけ力強く頷くと、「ごめん、人に会う用事ができたからまた今度ね。連絡、待ってるから」と言い残し、まるで中堅企業のサラリーマンがいそいそと次のアポへ向かうような足取りで去っていった。


(一体、この人は本当は何の仕事をしているんだろうか)

取り残されたリョウが視線を上げると、カウンター越しに桜木と目が合った。

いつもの、だるそうな「バイト仲間」の瞳の奥に、一瞬だけ、いつもと違う仲間意識が見えた気がした。



一方、旭川の家では、カレンの聖域が静かに崩壊を始めていた。


「……あ」カレンが息を呑む。


膝の上で大人しくしていたはずの「ボボ」の一体が、ドアの隙間から這い出し、リビングの床をなにげなしに転がっていた。

心臓が跳ねる。慌てて抱き上げ、隠し部屋へと戻ったカレンを待ち構えていたのは、想像を絶する光景だった。


そこには、繁殖し、増殖し、部屋の隅々を埋め尽くさんとする無数の「もふもふ」たちが、音もなくうごめいていた。

(どうしよう……ママが来ちゃう)

この異様な光景を見られるわけにはいかない。

カレンは震える手で窓を開け、溢れ出すもふもふたちをベランダへと押し出した。


「お願い、ここで待っててね……」

彼女が祈るように囁き、窓を閉めた直後。

主人の視線を失ったもふもふたちは、その柔らかな輪郭を歪に組み替え始めた。

あるものはマリモのように丸まり、あるものは風を孕んで形を変える。

いくつかの個体は、ベランダの手すりを越え、夜の住宅街へと転がり落ちた。


輝かしく、そして魅惑的な外の世界——そこには、彼らを養いうる「自己犠牲的な和の美徳と心」とが、飽和するほどに満ち満ちていた。


つづく

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ