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第二話 まっしろしろすけ

数ヶ月が過ぎ、大学の講義室を埋める空気は、新鮮な知的好奇心から消化試合のような義務感へと変質していた。無機質に並んだ机の列は、かつての教育課程が残した閉塞感の残穢を纏い、リョウの意識を微睡みの淵へと誘う。


彼にとって、唯一の知的充足は月1で開催される『日本怪異同好会』での怪談分析に集約されていた。怪異を現象として解体し、論理のメスを入れるその時間は、平凡な日常を侵食する唯一の遊びだった。


ノートPCを閉じ、学生の群れに混じって門を出て自転車を走らせる。リョウはいつものようにバイトの制服に着替えて喫茶「明晰夢」のカウンターに立つ。店内の空気は、焙煎の匂いと騒々しいコーヒーメーカーの雑音に支配されていた。


「ごめんね、加賀見くん。ちょっと事情があって連れてきちゃったの。マスターがいいよって言ってくれたから」


チコが困り顔で、綺麗にカールさせた触角を触りながら申し訳なさそうに言った。さっきからの騒音に説明がついた。休憩室の奥の方で毛並みのいいチワワが首を逸らし、すっからかんな瞳で虚空に向かって鳴き喚いている。


「……斎藤さんって歴史好きなんですか。卑弥呼なんて、渋い名前ですね」


旭川が屈託のない笑みを浮かべて尋ねる。チコはのけ反って吠え続ける卑弥呼を必死に宥めながら、力なく首を振った。


「そういう訳じゃないけど。……雨の前になると、絶対こうやって空に向かって吠えるんだよね。バカなのかな。」


「歴史上の卑弥呼も、慢性的な片頭痛だったらしいですね」


リョウは淡々とカップを洗いながら続けた。


「低気圧に伴う血管の拡張が、三叉神経を圧迫して痛いのかも知れない」


雨の予兆を含んだ湿った風が吹き抜ける中、リョウの声だけはどこまでも理知的だった。


(……すごいな、加賀見くんは)


旭川は、リョウの横顔を盗み見るようにして手を動かした。


自分はいつだって、周囲の顔色を窺い、妹の体調に怯え、優しい兄という役割を演じることで精一杯だ。だが、リョウは違う。雨が降り出しそうな不穏な空気の中でも、誰に媚びることもなく、剥き出しの論理を、歯に衣着せぬ言葉で突きつける。その潔いまでの冷たさが、旭川には眩しくて、少しだけ苦しい。


(僕もあんな風に、世界を言い切ることができたら)


言葉にできない羨望が、胸の奥で小さな熱を帯びる。それは、彼自身もまだ名付けようのない、仄かな好意の色を孕んでいた。目にかかる前髪が邪魔だというように軽く頭を横に振る。


斎藤は、卑弥呼を撫でる手を止めずに、二人の間に流れる微かな空気の揺らぎを察知した。シャープな輪郭に太い眉、切長のアーモンド型の目。少し外国人風の彫りの深さを持つ加賀見リョウは、刺さる人には刺さるイケメンだと思う。少し毒舌だけど。旭川の視線、その熱量。彼女はそれを「若さゆえの憧憬」として、静かに心に留め置いた。


バイトを終え、古アパートに辿り着いたリョウを待っていたのは、ドアに貼られた一枚の紙だった。


【警告】


本物件ではペットの飼育は一切禁止されています。

猫が出入りするのを住人が多数目撃しています。

至急どこかに預けるか、知人に譲ってください。


「……飼ってないんだけどな、俺」


独り言は、湿った廊下の空気に吸い込まれた。


鍵を開けようとした瞬間、背後の暗闇から音がした。


「コト……ズリッ……」


左後ろ足を引き摺る、あの重い足音。


リョウが振り返っても、そこには誰もいない。ただ、暗い廊下の床に、泥を溶かしたような、不規則な黒い線が自分の部屋のドアに向かって真っ直ぐに伸びていた。


一方、旭川の家では、閉ざされたドアを隔てて二つの孤独が向かい合っていた。


「カレン、ちゃんと食べるんだよ」

翔太がドア越しに優しく声をかける。彼は、妹が急に食欲を失い、自分の持ってくるケーキばかりを欲しがるのが不安でならなかった。成績は中の上、それなりに友人関係も安定している。妹に限って、アイドルに興味を示すはずがない。ダイエットというよりは、何かに「吸い取られている」ような、その不自然な細さが怖かった。


「……うん、食べてるよ。ありがとう、お兄ちゃん」

ドアの向こうで、カレンは膝の上に載せた「それ」を愛おしそうに撫でていた。


兄の優しさは本物だ。けれど、その純粋な愛情を受け取るたびに、血の繋がらない「異母妹」という事実が、透明な壁となって彼女を突き放す。


「美味しいね、ボボ」


カレンは、膝の上でモゾモゾと動く、毛玉のような、それでいて温かい「それ」に、ランドセルから給食のパンを細かくちぎって差し出す。健気に、しかし貪欲に指先を食む生き物の感触だけが、彼女をこの世界に繋ぎ止めている気がしていた。


つづく

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