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第一話 虎猫

某有名私立大学の入学式を終えたキャンパスは、無意味な熱気と勧誘の喧騒に包まれていた。加賀見リョウは、差し出される色鮮やかなビラの束を無機質に回避し続けていたが、何かしらのサークルには入らないといけない、と上の空で考えながら敷地を歩いていた。ふと掲示板の端に貼られた、モノクロでフォントの潰れた一枚の紙に目が留まった。


『日本怪異同好会。活動内容:怪異譚の論理的共有。会費なし。場所:喫茶「明晰夢」』


「……適当でいいなら、来れば。名前書くだけだし」


横でパイプ椅子に踏んぞり返り、だるそうに声をかけてきたのが桜木だった。大学指定のジャージを着崩し、黒マスク越しに眠たげな目を向けてくる。その定時退勤だけを目的としたような脱力感に、リョウはかえって安心感を覚え、名前を書き込んだ。




一週間後の夕刻。指定された喫茶「明晰夢」のドアを叩くと、カランという心地よい音が響いた。


店内は古い木材とコーヒーの香りに満ち、一番奥の広いボックス席に、数人の男女が思い思いの飲み物を片手に座っていた。思いの外人数が少ない。ネタで入っている人も一定数いるのだろう。新入生歓迎会などはなく、あくまで年度の初回活動からの参加という形だ。


「ああ、君新入生? まあ、座りなよ。ここは来るもの拒まずだから」


ノートPCを広げた見るからにクセの強そうな眼鏡の男、猪ノ原トオルが、画面から目を離さずに言った。


テーブルには、本日のテーマが記されたメモが置かれている。


『今月の議題:都市伝説における「物理的侵入」のパターン解析』


「じゃあ、まずは僕から一つ」


一人の部員が、楽しそうに語り始めた。


「最近、SNSで話題の『隙間に住む女』の話。これ、心理学的に見れば、集合住宅の構造的な死角に対する不安が具現化したものだと思わない?」


「いや、音響工学の視点から言えば、古い配管の軋み音が女性の囁き声に聞こえるパレイドリア現象だよ」


部員たちは、コーヒーを啜りながら、持ち寄った怪談を次々と披露していく。


「……へえ、面白いね。今の話の『ぞわぞわ』するポイントは、視覚情報の欠如による不安感だ」


「それをあえて論理的に分解すると、こうなるわけだ。……うん、楽しかったね。じゃあ、今日の怪談分析はここまで」


最後は、猪ノ原が「まあ、全部人間の主観だけどね」と皮肉っぽく茶化して終わる。


怪異を否定するわけでも、心酔するわけでもない。徹底して論理の枠に押し込め、あくまでエンターテインメントとして消費する。その冷めたスタンスが、リョウにはひどく理知的で、居心地が良かった。




「猪ノ原さんには、本当にお世話になってるんです」


会合の後、片付けをしていたマスターがリョウに話しかけてきた。


「猪ノ原さんは以前、僕がITの仕事をしてた時の上司なんですよ。僕がメンタルを崩したとき、『君、この仕事向いてないから。さっさと辞めて別のことしなよ』って、はっきり言ってくれて。そのおかげで、今こうして店をやっていられるんです。だから、サークルに場所を貸してるんですよ」


「加賀見くん、もしバイト決めてなかったら、うちで働きません?」


マスターの誘いに、リョウは頷いた。そこには、薬学部の旭川翔太がいた。責任感が強く、常に穏やかな空気を纏った彼は、シフトが終わるたびに売れ残りのケーキを丁寧に箱に詰めていた。緑色のエプロンがよく似合っている。


「妹のカレンが、これを楽しみに待ってるんだ」


旭川は、少し困ったように笑った。優しそうな目元が余計垂れ目になる。


「誕生日のプレゼントも考えてるんだけど、あの子、最近の流行りには興味なくて。『こびとづかん』とか、あのあたりの平成のキモかわ系が好きなんだよね。何がいいかな」


「カレンちゃんなら、パン泥棒とかも好きそうだけどね」


そうアドバイスをしたのは、年上のバイト仲間、斉藤チコだった。彼女はこの店の常連にも気に入られている。常に明るいムードメーカーで、ガクチカのためにどこかの寺で除霊資格なるものを取ったらしい。そんなの怪しいやつだと思われて逆効果だと思うが。


「……趣味、変わってますね。僕は定時で上がりたいんで、プレゼント選び手伝いませんよ」


横で桜木が、いつものだるそうな口調で、しかし正確な手つきで皿を下げていく。




バイトを終え、アパートに戻ったリョウは、自分の部屋の異変に気づいた。


フローリングの真ん中。月明かりに照らされた場所に、一匹の茶トラ猫が座っていた。


「……お前、どこから入ってきたんだよ」


窓は閉まり、鍵もかかっている。


リョウが声をかけると、猫は鳴き声一つ上げず、まるで最初から存在しなかったかのように、家具の隙間へとスッと消えていった。


残されたのは、微かな泥の匂いと、リョウの理解を拒絶するような静寂だけだった。

続く

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