第七話 三大欲求と物怪
「ボボ…」立ちすくむカレンに兄が言う。
「いなくなって辛いのはわかるよ。でもあれは妖怪だったんだ。カレンが自分の食べ物を与えて可愛がりたくなるように洗脳してたんだ。……ずっとお腹すいてたでしょ。」
「でも…」カレンにとって自分の辛い気持ちを聞いてくれたのはボボだった。
それを察したように翔太は、カレンの目をまっすぐに見つめていった。
「忙しくてあまり話し合えてなかったよね。ごめん。つらい時があったら僕にも相談してほしい。兄貴って呼ばれなくてもいいけど、家族は家族だから。まだ嫌かもしれないけど、少しずつでいい。」
リョウはふと気になって、猪ノ原に、怪異を育てた元凶のカレンを本部が捕まえようとしたりしないのか聞いたが、そんな法律はないし必要もないらしい。
「こっちは万年人手不足なんでね」
首の後ろをかきながらきっぱりと答える。
「怪異が害悪と判断すれば駆除、そうでなきゃ様子見。それ以上でも以下でもなし。」
数日後、雨上がりの湿った空気が残る河川敷で、桜木燐之助は大木を見上げていた。
殊の外美しく力強い大きな桜の木が、青々とした枝葉を広げている。大いなる力を守った曽祖父の意思が、地中から力を与えているかのようだ。刈り上げられた襟足に触れる風が少し冷たい。
「……ただの綺麗な桜としてそこにある方がいいよ。曾祖父さん」
独り言のように呟き、彼はその幹にそっと手を置いた。木の幹には彼らだけに分かる意匠が生命力を持って縫い留められ、解放されたがっているのが感じられる。術式を解き放ち、一族の秘伝の忍術を再び陽の光の元へ復活させることもできる。だが、燐之助はあえてそれを選ばなかった。
現代に忍者はいらない。それとも、自分と言うアイデンティティに忍者がいらなかったのか。新たなる業に巻き込まれるのが面倒なだけかもしれない。
「でも、もし本当に必要になったらきっと来るから」
通知が来て、スマホを確認する。
ナオヒト:「りんご久しぶりー、お前今東京?俺も今渋谷ずみだから飯行かね?」
そこへ、軽やかな足音が近づいてきた。
「あれ、桜木くん。奇遇だね、こんなところで」
振り返ると、いつものように命を懸けて整えた触角を揺らし、斉藤チコが歩いてきていた。彼女の「抜け感眉」は今日も完璧で、前髪には湿気など微塵も感じさせない執着が宿っている。
「斉藤さん……。散歩ですか」
「この河川敷、お気に入りなんだよね。……あ卑弥呼ったら」
チコの足元でリードに繋がれたチワワが、桜木を見つけた瞬間、千切れんばかりに尻尾を振って嬉しそうに吠えた。
「……実はね、この子を拾ったのってここなの」
チコは桜の木を見上げながら言った。
「ここ、うちの先々代が戦った場所らしいです。」
チワワは満足したように、長生きしすぎた老犬がまどろむような仕草でその場に座り込んだ。桜木はその様子を黙って見つめる。微かな疑念が胸をよぎる。この犬は、豪雨の中で先先代が殉死したその瞬間を目撃したのではないか。
その時、河川敷の向こう側を、明るい声を上げながら歩いていく少女の姿が見えた。手芸部に入ったばかりのカレンだ。翔太曰く友達と作品を見せ合うらしい、誇らしげに手作りの袋を抱えている。
その背後を、どこからともなく現れたあの茶トラが、音もなく見守っていた。
カレンが曲がり角を曲がり、その姿が消えた瞬間――茶トラもまた、陽炎が揺らめくようにして、ふっと空間に溶けて消えた。
一瞬だけ、古い軍服を着た少年の影が見えた気がして、桜木は目を細めた。だが、次に瞬きをした時には、そこにはただ、六月の陽光に照らされた美しい新緑が広がっているだけだった。
「そろそろシフトの時間だね」
チコの声に、桜木は短く「そうですね」と答え、血族の至宝が眠る大樹に背を向けた。
その後はしばらく晴れの日が続いた。梅雨明けが例年より早かったとメディアがさわいでいる。
「加賀見くん、あの茶虎猫はどうしたんだい」
カウンター席で苺祭りパフェをつついていた猪ノ原が問いかける。
「あれはついさっきまで旭川の妹さんに憑いてましたけど、自立を見届けていなくなったみたいでしたよ」と代わりに燐之助が答える。
「結局何だったんだ、あの猫」加賀見はゴワゴワした毛並みを懐かしく思いながら呟いた。
「あれは多分、近現代に何処ぞの人間から発生したアメフラシの怪だ。人の循環しない情緒的エネルギーを食らって慈愛の雨を降らせるんだよ。」猪ノ原が呟きを拾うようにして答えた。
桜木はクリームを補充しながらふと思った。もしかすると戦時中に負傷兵として誇りを失った少年の霊が、かつての自分と同じような孤独な魂を猫の姿で見守っていたのかもしれないと。
猪ノ原が眼鏡の奥で瞬いて続ける。
「例えば承認欲求。現代の三大欲求ってわかるか?承認欲求と、怠惰欲。そして自由意思への渇望だ。そう言うありふれた強大なエネルギーが彼ら怨霊や妖怪のご馳走なんだ」
承認欲求。リョウは自分の中にそんな感情があったことに今更ながら気づいてハッとした。認めまいとして論理で武装していただけなのかもしれない。
ミルクフォーマーの轟音の中で桜木は思った。我が家を何度も襲ってきた忍者達の秘術への執念。手柄を立てなければ歴史の濁流にもみ消されることへの恐れ。それらは茶虎猫が雨を降らすのに値したんだろうか。
「…わけわけ に関してはおそらくカレンの心に沈澱した承認欲求に惹かれて化け物が入り込み、意図せず共依存して育ててしまったことで指数関数的に増殖したんだろうね。」
「どうだい、加賀見くん。正式に我々の仲間にならないか。」
リョウはこのぱっと見死ぬほど胡散臭い個性的なオヤジを見つめた。
「俺にできることがあるなら。」
その答えに心底満足した様子で、猪原はリョウの背中を強打した。
「よくぞ言ってくれた。日本怪異対策機構金町支部へようこそ。」
完
盛大な茶番にお付き合いくださり誠に有難うございました。続編を書いてみたのでもし良かったら読んでください(*^^*)




