16話 ソロンという男
夕暮れの浜辺。
水面にキラキラ輝く1筋のオレンジ色の道。
ざざぁ
ざざぁ
寄せては返す優しい波の音が聞こえる。
この子と一緒にたくさん思い出を作ろう。
彼女は、私がこの子を守るわ、と得意げに笑っていた。
+ + +
ギリシャの市場は朝から活気がいい。新鮮なトマトやピーマン、ホウレンソウなどの野菜が並んでいる。
白い街並み、オレンジの屋根、正教会の青いドーム、そしてエーゲ海の青さと緑の山々のコントラストが美しい。道端にはユリやケシなどの花が咲いていて、町に彩りを与える。
暖かな日差しがとても気持ちがよい。ねこ達も気持ちがよいようだ。道端で屋根の上でごろごろしている。狭い通りを子どもたちと犬がじゃれあいながら走り回り、今日ものんびりとした時間が流れていく。
茶色い紙袋を抱えた男が通りを歩いている。
明るいワインレッドの髪に同色の瞳。左横の髪の毛を耳にかけ、肩に着く程度の髪は後ろで括られている。襟のついた白いシャツにループタイ、ズボンというある程度ラフな格好で、麦わら帽子を首の後ろにかけている。見た目で言うと30代後半から40代といったところか。颯爽と歩きながら、すれ違う町の人に挨拶を交わした。歩く度にループタイが揺れる。男の持つ紙袋の中には、市場で買ったと思われる新鮮な野菜が詰め込まれている。カブにトマトにニンジンに。
気付けば3匹の猫が後をつけてくる。男はチラリと見てふっと笑い、先ほど買ったクラッカーをやった。猫はにゃおんにゃおんと喜びの鳴き声をあげており、
その気が狂ったのかと思ってしまいそうなまでの激しい鳴き声に男は苦笑した。3匹の猫をじゅんぐりに撫でて、よいしょと立ち上がり、男は細い路地を抜け人気の少ない所へ出た。空が急に広くなり、青い空が広がる。
「今日も、いい天気だ。」
手をかざし眩しい空を見上げ、ひとり言をつぶやいて穏やかに目を細める。その刹那見上げた先がぐにゃりと歪んだ。男は自分の周りだけ異空間にあるような錯覚にとらわれる。
「ん…?」
眉間にしわを寄せ、見間違いかなと思い目をこすってみる。だが空間はぐにゃりと歪んだまま。ついでもっと大きく歪み、歪んだところが渦を巻くようにまるくなり、その中心から空間の塊がどろりと落ちてきた。
驚愕の眼で男は凝視する。
こんな現象あり得ない信じられない。だが、それが今目の前で起こっているのだ。その空間の塊は地面に触れる瞬間ににさっと解け、同時に空間の歪みは無くなり、いつものギリシャの町の雰囲気に戻った。空間が落ちてきた場所に何かを見とめ、男は再び目を剥いた。
「…!」
誰かが倒れている。
茶色いローブを身に纏い、頭にかかったフードの隙間から、ふわふわとした金髪が見える。まだ子どもであろう。男は慌てて駆け寄り、膝をついてその人の背に手を触れた。少し浅いが、呼吸がある。
「…よかった、死んでない…」
気を失っているだけのようで、男はほっと安心した。誰なのか全くわからなくても、目の前で死人を見るのはごめんだ。死ぬ瞬間はもっと嫌だ。それにしても、こんなところで倒れていては騒ぎになってしまうし、放っておくわけにはいかない。倒れないように紙袋を地面に置き、少年を抱き起こす。フードがはらりと頭から落ち、男ははっと息をのんだ。
「耳が…」
まるで狼のような白い毛の生えた耳なのだ。人間ではない。幼さを残す顔はとても可愛らしい。睫毛は長く、たっぷりとしており、ともすれば女の子にも見えなくはない。その綺麗な顔立ちは、白い耳と共に人間ではない事を裏付けするかのようだ。そっと閉じられた瞼の下には、何色の瞳が隠されているのだろう。
そこまでつらつらと考えていた男は愕然と目を見開いた。
+ + +
暗闇の中2人の背が見える。
――ヴィアさん…セルザス…?
フェルは何故か不安になり、その背中におそるおそる声をかけた。フェルの声が聞えたのか、2人はチラリとフェルを無感情な目で一瞥し、前へ向きなおり闇へと歩いていく。
―待ってよ!
今度は聞えないのかフェルの声に応える様子はない。フェルは走って追いかけるが、相手は歩いているというのに一向に追いつく気配はない。
段々暗闇に姿が飲まれていく。
どうして…?
僕を…僕を一人にしないで…!
独りは…嫌…!
+ + +
「……。」
目を覚ますと、知らない天井が目に入った。
ゆっくり瞬きをし、寝ぼけ眼でぼんやり見つめる。
「え…」
段々意識がはっきりしてくる。
知らない天井。
フェルは目を剥いた。
がばっと布団を跳ね除けながら、勢いよく上半身を起こした。額に置いてあった濡れタオルがぽとりと手元に落ちる。フェルはきょろきょろと辺りを見回した。どうやらベッドの上にいるらしい。フローリングの床に机が一つ。白いカーペットが一部分だけ敷かれている。
ここはどこだ。
頭が混乱している。
「あれ…僕…どうしたんだっけ…」
そうだ、死神界にいて…。
頭にチリッと鋭い痛みが走り、顔をゆがめて片手で頭を押さえ僅かに俯く。
そしてある変化に気付き、小さく混乱したような声をあげた。
「えっ…?!羽根が…」
羽根が無い。
あの白と黒の羽根が背中に無いのだ。えっ?と呟きながらペタペタと背中を触り何度も確認する。それから顔の横もぺたぺた触る。耳はちゃんといつのも耳だ。
フェルはわけが分らず手で額を覆った。
そういえば、あの後兵が襲ってきて…
それで…そうだ。ヴィアが…
そこまで思いだしたフェルの思考は知らない声によって中断させられた。
「目が覚めたか」
少し低めの落ち着いた男の声が聞こえ、はっとしてフェルは振り向く。
明るいワインレッドの髪と目の男が、部屋の入り口で銀色のバケツを持って立っていた。
フェルはこれ以上にないほど目を見開き、硬直する。彼は一体誰だ。男が歩み寄ってきたのを見てびくりと肩を震わし、ローブをかぶりベッドの隅の方へちょこちょこと寄って行った。緑と紫それぞれに黄色が混ざった瞳が、不安そうに男を凝視する。男のワインレッドの瞳が申し訳なさそうに細められる。それを見て少年は逆に申し訳なくなり、すこしだけ近寄ることにした。
するりとローブが脱げる。
バケツの中には半分くらいまで水が入っていた。
男はよいしょとしゃがんで、布団の上に落ちているタオルを取って洗い、
十分に絞って畳み直している。
「少し、熱っぽかったからな。タオルを用意したんだが…」
畳み直したタオルをバケツの淵にかけ、手を金髪の少年の額の方に伸ばした。
「…!」
吃驚して固く目を瞑ったが、暖かさを感じて目をうっすら開けた。
少年と自分の額に手を当て、うん、もう大丈夫みたいだなと頷き、優しく微笑んでいる。
フェルはその表情をくちをぽかーんと開けて見ていた。
額から手を離し、男が訊ねた。
「お前…名前は?」
「…フェル。…フェル・ルア・ルシファンス…です…」
一瞬躊躇しながらも名前を教えた。
「フェル、か……俺はソロン、人間だ」
「…人間」
話に聞いていた通りだ。
よく見ると耳が尖っていないし、羽も生えていない。しかしそれ以外は天使や神となんら変わりはないように見える。ということは、此処は人間界だとでもいうのか。
「ああ。フェルは…どっからどう見ても人間では…ないよな?
それにいきなり空間から落ちてきたんだ。それはもうびっくりしたな」
「…あ…」
「無理に話そうとせんでもいいぞ。
だが、行くところが無いのなら、此処にいるといい」
慌てて手を振り、穏やかに笑った。
因みに此処はギリシャという所だということも話してくれた。
「もうそろそろ日が沈む。もう少ししたら夕飯ができるからここで待ってな。」
フェルはぎくしゃくとした動作で頷き、立ち上がるソロンを見上げた。
バケツを手に持ち部屋を出て行こうとする。
「そういえば…そのピアス、綺麗だな」
「お母さんの形見なんです」
「…そうか」
最後にピアスのことを言い残して部屋を出て行った。母の形見のピアスを綺麗だと言ってくれた事が、フェルは何だか嬉しかった。深呼吸をして立ち上がり、窓の方へ歩み寄る。この部屋の位置が高いのか、窓の外からはギリシャの町を見ることができた。
夕日が当たり、白い壁がピンクに染まっている。
フェルはその町の美しさに息を呑んだ。
もう少し向こうを見ると、一面がキラキラと輝いているのが目に入った。
「水…?何だろう、あれ…凄く綺麗…」
天界には決して存在しない海だ。
水なら天界にもある。審判の塔の庭にある噴水だ。あの聖水は決して無くなることはない。フェルのよく知る水は噴水の大きさ程度に入ったものくらいなので、これほどまでに大規模なものは見たことが無い。
今まで眠っていた、未知なるものへの好奇心が疼き出す。後でソロンさんに聞いてみようと心の中で決め込むフェルである。
そしてふっと寂しげな表情をする。
「お母さんにも見せてあげられたらいいのになぁ…」
そう口にしてもっと悲しげな顔に変化した。
言葉は不思議だ。
思っているだけの時と、口に出して言ったときとでは感じ方がまるで違う。
窓に手をついて外を、どこか遠くを見つめる。
こんな事をしている場合ではないのに。
早く、早くお母さんを助けに行きたい。
焦燥感が胸をじわじわと占めていく。
顔も名前も覚えてないけど、でも大好きな…。
でもどうやって死神界に戻ったらいいのかわからない。堪えるような目をして身を翻し、ふかふかのベッドの上に寝転ぶ。
お母さんが死んだ時みたいに、また、独りぼっちだ。
そのまま壁の方を向いて膝を抱えてうずくまった。
「セルザス…ヴィアさん…」
そういえば死神界の方はどうなっただろう。
光景が脳裏に鮮明に蘇る。
最後に見たのは、天界の兵たちがセルザスに襲いかからんと迫りくる光景。
こちらを見るセルザス。そしてただならぬ様子のヴィア。ヴィアに勝手に此処へ飛ばされてしまったが、それはきっと自分を守るためだったのだろうと、フェルは心の中で考えた。
そう言えば”セルザスは危険だ”と言っていたが、あれは一体どういう意味なのだろうか。戦いだすと周りが見えなくなるから危ないとかそういうものだろうか。
――セルザスはとっても強いから…兵になんか負けないよね…?
牢から抜け出すときにセルザスがお守りだと言って腕に付けてくれた、水色の珠が一つ付いたブレスレッドを硬く握った。
ふと夢を思い出した。先ほどはいきなり知らない所で目覚めたから吃驚してしまい夢の事など頭からすっ飛んでいた。
思いだして更に顔に影が落ちる。
2人が、セルザスとヴィアが背を向けて立ち去っていく夢。
そういえば、前も母の夢で同じようなことがあった気がする。
ただの夢だ。そう思いたいのに、なぜか思いきれない。
「2人とも…無事でいて…」
祈るように目を閉じ、そのままフェルは眠ってしまった。




