疑いと帰還
「あなたが、ジークのことを知っていた理由が分かりました」
しばらく歩いたころ、タニアがぽつりと呟いた。
「ジークが人間界を訪れていたとは」
「……はい。わたしも、まさか他の天使が人間界に降りてくるなんて思いませんでした」
彼女の少し後ろを歩きながら、エリセは彼の姿を思い返す。アーシャを連れ戻そうとしたジーク。法に従わないアーシャに怒り、リティシアを毛嫌いし、結果自分までもが法で裁かれる立場になってしまった。
「……タニアさん、改めて聞いてもいいですか」
二人はすでに、天使の居住地からは出ていた。エリセが最初に出てきた辺りに近づいているのだろうか。視界には再び霧がかかり、足元は岩肌が見え隠れしている。
「何でしょう」
人間が歩いても安全な経路を考えながら進んでいるのだろう、タニアは度々立ち止まりながらも声を返してくれた。
「……ジークのことも、異常だと思いますか?」
天使の法を尊びながらも、他の天使とはどこか違うジーク。彼のことをどう思っているのか、エリセは改めて尋ねていた。
「――感情がある天使を異常だと言うのなら、異常でしょう」
しばらくの沈黙ののちに、穏やかな声が返ってくる。
「しかし、ジークはアーシャとは違い――天使で在ろうとしています。彼はきっと人間界へ逃れても、心の安寧を得ることはできないでしょう」
タニアはふと立ち止まり、エリセを振り返る。彼女の凪いだ目と視線が交わった。
「……時折、ジークのような天使がいるのです。生来豊かな感情を持ちながらも、天使としての在り方に迎合しきることができず、それでも天界の価値観を至上として天使で在ろうとする。そんな天使が」
タニアの眼差しを受け止めたまま、エリセは落ち着かない素振りで手の中の瓶を撫でた。
それではまるで生き地獄だ、と彼女は思う。自らが生きる世界に打ち解けることができず、かといって他の世界にも居場所を見出せない。
「それでも、天界の生活にそのまま馴染めればまだ穏やかに暮らせましょう。……しかし、そうした天使の一部はときに過激な思想を持ちます。天使は争いを望まぬものですが、過激な者はそうとは限らない」
タニアの言葉に、アーシャの負った傷が思い出される。エリセは静かに薬瓶を握りしめた。
「……その『過激な思想』を持つ天使というのに、ジークが当てはまるってことですか?」
「そう、とは断定しきれませんが」
考えを巡らせるように目を彷徨わせつつも、タニアは再び歩を進め始めた。エリセもそれに従い、足を動かす。
「アーシャを連れ戻すために人間界へ出向いた……ということだけを見れば、まだ理解はできます。規律には違反しないために、アーシャの出奔は見逃されているのです。しかし今日の天使は他種族との交流を極力避けている。彼の行動をよく思わない者はたくさんいますから」
確か、ジーク自身もそんなことを言っていた。足元に気がとられて目線を俯けながらも、「その上」と続いたタニアの言葉にエリセは耳を傾ける。
「実際に出向いてみたら、人間界は魔物の出没に見舞われていた。その上そこに魔族の王女がいた。魔物と王女に因果関係がなかったとしても、連れ戻したいと思うのは納得できます。そもそも、魔族との接触は規則に反しますから。魔族と接触できるのは、堕天使を魔界に連れて行く役目を負ったものだけです。……とはいえ、それが『怒る』という結果に繋がるのかは理解できかねますが――」
「あの、タニアさん、話の途中に申し訳ないんですけど」
タニアの言葉に、エリセは何か「ひっかかり」といっていいようなものを覚えた。結果として思わず話を遮ってしまったが、タニアは嫌な顔ひとつしなかった。
「疑問点がおありですか」
「ええと、疑問というか」
顔だけをエリセに向けながらも、タニアは器用に歩いていく。歩きながら彼女の顔を見るのは、エリセには難しいのだが。
「……その、ジークは……多分、魔物が出没していると知っていてアーシャを連れ戻しに来たんだと思います。『魔物が出ているそうだな』って、わたしたちが何も言わないうちにそう言っていたので」
エリセが言い終わるか言い終わらないかというとき、タニアはいきなり歩みを止めた。彼女をろくに見ていなかったエリセは、彼女の背中にぶつかってしまう。
「あ、すみません。……タニアさん?」
「……天使の誰も、そのことについては把握していません。少なくとも、今日の朝の集会までは誰も知りませんでした。知っていれば議題に上がります。何せ人間界に天使が降りているのですから、そのようなことが起これば放ってはおきません」
淡々としていながらも、どこか切羽詰まったような口調。エリセは体勢を立て直し、タニアの背中を見つめた。
「夕方の集会に私は参加していませんから、そこは分かりませんが。あなたはその集会が始まる前には天界に現れた。つまり、その前にジークに会っている。ならば、天使の中でジークだけが――魔物の出没を知っていたことになります」
身体ごとエリセを振り返ったタニアは、僅かに顔を歪ませていた。それは驚愕から来るものだろうか。それとも他の感情からなのか。
「……あ、でも、もしかしたらわたしたちと会う前に、他の人間に聞いたかも……」
無意識に言葉を絞り出しながらも、エリセの冷静な部分はそれを否定する。
ジークが自ら人間と口を聞くことはないのでは、と。勿論断定はできない。魔族と関わりがなければ口くらい聞くかもしれない。それが断定できるほど、エリセは彼を知らない。
黙り込んでしまったエリセを見かねたのだろうか。少しして、タニアが再び口を開いた。
「……ジークのことはこちらで調べておきます。あなたはもうお帰りなさい。……陣が見えてきました」
「え、でも」
「確かに気になることもおありでしょうし、あなたには関係ないとも言えません。しかし、その前にすることがあるのでは」
エリセの手の中にある瓶を指してから、タニアは再びエリセを促した。
「……わかりました」
どちらにしろ、ここにいてもジークのことが分かるわけではないのだ。エリセは地面に浮かび上がった魔法陣の方へと歩を進め、その直前で立ち止まった。魔法陣はまだ魔力が通っているのだろう、淡い光を放っていた。
「タニアさん……色々ありがとうございました」
「お礼はいりません」
手短な返答に、それでもエリセは頭を下げた。顔を上げ、タニアに背を向ける。魔法陣の中心に向け、足を踏み出す。
すぐに身体が光に包まれ――目の前が光に染まった。




