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紅玉の姫君  作者: 神奈保 時雨
第五章
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逃げるということ

 アーシャが庭に出てから扉を閉めると、双子が互いを見てはにかむように笑いだした。


「やっぱりねー」

「アリスもそう思った?」

「思ったよ。仲良しだもん」

「幸せになってほしいよね」

 シリルとエリセは、今双子が考えているような関係にあるのか、リティシアにはまだわからない。双子が思い違いをしてはしゃいでいるだけかもしれない。

 しかし、もしそうなら幸せになってほしいと思うのは、リティシアも同じだ。


「でも、エリセがボクたちと逆だとは思わなかったな」

「逆?」

 クリスの言葉に、リティシアは首を傾げる。

「うん。ボクたちは」

「魔力がない家族の中で、唯一魔力を持っていたから」

 何でもないことのように、双子は笑って言う。 しかし、リティシアはそれに衝撃を受けた。

 聞かなくても分かる。魔力を持つ者と持たない者とでは、寿命が違う。つまり、双子の家族はもう――

「身寄りのなくなったワタシたちのことは、シリルが拾って育ててくれたんだよ」

「だから、シリルが幸せだとボクらも嬉しい」

 双子はにこにこと微笑んだかと思うと、庭の中へと遊びに駆けていってしまった。


「……みんな、それぞれ色々抱えているのね」

 遊び回る双子を見ながら、リティシアは傍らに立つアーシャに話し掛ける。

「そうだね」

 柔らかい声で、アーシャはただそう返した。

 さっきのシリルとエリセの会話は、リティシアの心にも深く突き刺さっていた。何度決心をしても揺らいでしまう自分の気持ち。自分のすべきことを、自分で決めるということ。

 そうしたことから、リティシアは逃げているのかもしれなかった。

「抱えていること。言わなきゃなって思ってる?」

 リティシアは知らない間に浮かない顔をしていたのだろうか。アーシャの見透かしたような言葉に、思わずリティシアは彼を注視した。


「……リティシアは真っ直ぐだから。逃げるのは、嫌いかもしれないけどさ」

 穏やかな微笑みに、リティシアは先ほどのエリセのように顔を俯ける。

 逃げるのが嫌いなのは、確かだ。しかし、実際に今は逃げている。

「いいんじゃないかな、たまには。少しの間逃げたって」

 思わぬ言葉に、リティシアは再び顔を上げてアーシャを見た。眼を瞬かせると、目の前の天使は優しく微笑む。

「俺も逃げてるから。逃げるな、なんて、リティシアに言えないし」

「アーシャも……?」

「そうだよ」

 驚いて聞き返したリティシアに、アーシャはゆっくりと頷いた。

「俺、嫌いなんだ。自分が生まれ育った天界が」

 だから逃げてきた――と続けたアーシャに、リティシアは何も返事をできなかった。

「天使の血が身体に流れているという自覚を持て。純白の翼の誇りを忘れるな。子供の頃から毎日毎日、洗脳みたいに聞かされて」

 アーシャの目は、遊び回る双子をただ追っている。

「規律や罰則で縛りつけられて。翼を持ってるのに、籠に閉じ込められた鳥みたいに過ごすしかなかったんだ。空を飛べても、何の意味もないくらいの閉塞感がいつもあって……」

 奔放で明るいアーシャには、それが我慢できなかったのだろうか。

 理性的で誇り高い天使というのは、もしかしたら一部の天使に作り上げられた性質なのかもしれない。それに反発している者もいるのだろう。

 考えてみれば当たり前だ。天使とて、天使という種に属す前に一人のヒトなのだ。個人差くらい、あるものだろう。


「飛ぶのは……好きなの?」

 アーシャの言葉からは、そういう印象を受けた。

「うん、好きだよ。天使に生まれて良かったって思う点は、空を飛べることくらいかな」

 アーシャは明るく笑う。

 彼がこの前見せた滅茶苦茶な飛び方。確かにあれは、飛び慣れていないと不可能かもしれない。

「でも、天界では飛んでも結局どこにも行けない。籠からは出られない。人間界だったら、なんなら歩いたってどこへでも好きに行けるけど」

 飛んでもどこにも行けない。そんな感覚は、リティシアは様々な意味で知ることはないのだろう。

 王女という身分の割には、リティシアは比較的自由に育てられてきたから。父は心配性だが、リティシアのすることを無闇に禁止したりはしない。今回、人間界に出ると言ったときだって、父は結局折れてくれた。

 アーシャはずっと、そんな悲しい目に合わされてきたのだろうか。

 アーシャだけでなく、エミルも、他の天使たちも。


「人間界だと、みんな自由にしてるんだ。自分のことに自分で責任を持たなきゃならない代わりにさ」

 そんな人間界が大好きなのだと、彼は笑う。

「だから……天界が、そんな人間や――それに魔族を蔑むようなところも、やっぱり好きになれない」

 アーシャは人間も魔族も区別したりはしない。

 洗脳のような扱いを受けた、という割に、アーシャは比較的自由な考えを持っていた。だからといって、彼が今話したことを疑うわけではない。堕天してもなお、天使の誇りを捨てられない堕天使たちを見れば、洗脳という言葉にも納得がいく。

 アーシャやエミルのような例外が、たまにいるだけなのだろう。


「アーシャは……、」

 問うことを躊躇ったリティシアに、アーシャは促すように首を傾げてみせる。リティシアはそれに励まされ、改めて口を開いた。

「アーシャはどうして……『洗脳』、されなかったの?」

「ああ……それはね」

 アーシャはいつもの柔らかい微笑みを浮かべる。

「母親が、ね。俺と似たような性格をしてたんだ」

「お母さんが……」

 アーシャと似た性格の女の人。魅力的かもしれない、と思う。 明るくて、優しい女の人。

「うん。俺がまだ小さい頃は、母親と一緒に過ごす時間が多くてさ。よく言われたんだ」

 アーシャは青空を見上げ、腕を広げてみせる。日に透けて輪郭を儚げにした彼は、今にも空に飛び立ちそうに見えた。

「お前は自由な小鳥。縛られる必要なんかない。自分をしっかり持って、自分が正しいと思う道を行きなさい……って」

 俺の真名を呼んでさ――と言いながら、アーシャはリティシアへ目線を投げ掛けた。


「お母さんは……」

 どうしているのか、と聞こうとして、やめた。そんな母親を放って、アーシャが人間界に降りてくるわけはない。答えはおのずとわかる。

「死んじゃった。もう、何百年も前に」

 思った通りの言葉に、リティシアは顔を俯ける。

「あ、気にしないで、リティシア。もう、懐かしい気持ちの方が大分強いから」

 悲しくないわけではないけれど、と彼は笑う。

「身体がそんなに強くない人だったからさ」

 腕を下ろし、彼はまた微笑んだ。

「それこそ毎日言われたよ。母さんが死んでも、それは今より少し自由になっただけのことだからね、って」

「……素敵なお母さんね」

 お世辞ではない。リティシアも、一度会ってみたかったように思う。アーシャが優しく、自由に育ったのも分かる気がした。


「うん。大好きだったな……。でも、そういう考えは天界には合わなくてさ」

 母親の自由で優しい考え。天界の厳しくがんじがらめな規則。その間で板挟みになったアーシャは、母親の考えを取ったのだ。

 だから、孤高な種族であろうとはしなかった。自分の思うとおり、他の種族と仲良くなろうとした。


「その代わり、問題児扱いはされたけどね」

 アーシャは台詞とは裏腹に、楽しげに笑う。

「規則を無視したり掻い潜ったり、何度も軽い罰則を受けたり……多分、俺が天界からいなくなってほっとした人も多いんじゃないかな」

「何よ、それ」

 決して軽くはない話だというのに、アーシャはやはり楽しげに話す。それにつられ、リティシアも思わず笑った。


「……俺はそうして嫌なことから逃げて。生まれた世界からも逃げて。いつの間にか長い時間が経っちゃった。でもさ」

 アーシャは改めて、身体ごとリティシアの方を向く。リティシアはそれにアーシャの金色の瞳を見た。

「……逃げてる間に手に入れられるものも、あるよ」

 彼はその色素の薄い目を優しげに細めて微笑む。

「逃げている、間に……?」

「うん。俺はこうして人間界に降りてきて。シリルと仲良くなって、双子にもなついてもらって。リティシアやエリセとも仲良くなってさ」

 彼は柔らかい笑みを浮かべたまま、再び遊び回る双子に目を向ける。

「得たものは、色々あるよ。天界に閉じ籠もってるままじゃ手に入らなかったもの」

 彼の金髪が、そよ風に揺られて自由に舞っている。

「だから……逃げることって、きっと全部が無駄じゃないと思うんだ。正当化してるわけじゃなくて、ね」

 逃げることは無駄ではない――

「……そういうものかしら」

 リティシアにはまだ、その言葉の意味が完全には理解できない。しかし、頭ごなしに否定すべき言葉ではない気がした。

「そうだよ。いつも真っ直ぐだったら、疲れちゃうから」

 アーシャは自分を気遣って言ってくれているのだし、その考えが彼の優しさや柔軟性から出たものならば。頭に留めておくべきだろう、と彼女は素直にそう思っていた。

「たまには寄り道、してごらん」

 いいものが見つかるかもしれない――と、アーシャは笑う。

「……そうね」

 リティシアはアーシャに微笑み返す。

「ありがとう」

「お礼を言われることはしてないよ」

 アーシャはまた優しく柔らかい笑みを浮かべた。


 シリルが言うこともアーシャが言うことも、一理ある。

 そしてそれらは矛盾するものではない。寄り道をして、気が済んだならば。そのときには―――リティシア自身がすべきことを改めてできるだろうか。


『アーシャ、リティシアーっ』

 双子が綺麗に声を揃え、リティシアたちの方へと駆け寄ってくる。

「はい!これあげるっ」

「ワタシたちが頑張って作ったんだよっ」

 二人が渡してきたのは、花を編んで作った輪だった。

「あら、ありがとう」

 リティシアは屈んでそれを受けとり、懐かしさと微笑ましさにくすりと笑う。

「いっぱいできたね」

 アーシャも楽しげに笑っていた。

「……いっぱい……すぎる気もするわね」

 双子が頭だの首だのに大量の輪をつけているのを見て、リティシアの笑みに苦笑が混じった。

「暇なんだもんー。まだ中に入っちゃ駄目かな?」

 アリスがつまらなさそうにむくれてみせる。

「うーん……」

 アーシャは困ったように耳を澄ませる。リティシアも同時に耳を澄ませたが、家の中からは何の音も聞こえてこない。

「……分からないなー……」

 アーシャもお手上げだと言うように眉を下げて笑う。

「じゃあ、もうちょっと遊ぼうっと。シリルが探しにくるまで!」

 アリスの言葉を皮切りに、双子は再び思い思いに走っていく。

 リティシアはそれを見送りながら、先程のアーシャの言葉に思いをはせた。

 今は寄り道をしていても、いつかは揺るがぬ決意をできる日が来るのだろうか。


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