葛藤 (1)
「リティシア」
エリセの姉に会った日の、次の朝。
まだ早い時間帯、階段を降りようとしていたリティシアは、呼びかけの主を振り返った。
「エリセ」
どうしたの、と、彼女は数段ほど上にいるエリセを見上げる。
「昨日……ごめんね」
リティシアは思わず目を瞬かせた。エリセは申し訳なさそうながら、どこかすっきりした顔つきをしているようだ。
「どうして謝るの?」
「暗い話、聞かせちゃって。でも、もう大丈夫だから」
そう微笑むエリセの顔に翳りはない。しかし、本当に大丈夫なのだろうか。
昨日、シリルとは他に話をしたのだろうか。そう問いかけようとリティシアは口を開き――結局、何も言わずにそっとつぐんだ。
ふと、自分がそれを聞いてはならない気がしたのだ。
エリセはそれに一瞬怪訝な顔をしてから、リティシアの近くまで足を進めた。
「リティシア」
先ほどの呼び掛けより、どことなく不安げだ。
「……なぁに?」
「何か困ったことがあったら言って」
微笑んで見せたリティシアに、エリセは控えめながらそう告げた。リティシアは一瞬、何も言えなくなる。
「わたしも、リティシアたちの役に立ちたいんだ」
そんなリティシアの様子を知ってか知らずか、エリセはそう微笑んだ。
昨日みんなにしてもらったように、と言って。
「……、そう。――ありがとう」
リティシアが笑みを返すと、エリセは首を振って階段を降りていく。照れ隠しか、どことなく速足だ。リティシアは階段に留まったまま、それを見送った。
「……何かしら」
しばらくして、彼女はそんな風にひとりごちる。どうにも複雑な気分で落ち着かなかった。
エリセの言葉は素直に嬉しい。彼女はリティシアやシリルたちのことを、仲間と思って信頼しているのだろう。それくらいは先程の言葉を聞けば分かる。
(――ああ、そうだわ)
ふと思い当った事実に、リティシアは思わず自らの服の裾を軽く握る。
「心苦しい……のね」
エリセは打ち明けてくれたのに、リティシア自身がだんまりを通していることが。そしてこれからも突き通そうとしていることが。エリセは信用してくれている。
ならば、自分は?
それに気づくと同時に、リンドールに来てからリティシアが抱いていた疑問や違和感が、じくじくと彼女の思考を支配し始めた。
何度も何度も、「隠したままでいた方がいい」と自分に言い聞かせていたこと。
エリセのように自分に立ち向かえるのかという不安。
――どこの誰だとしても、俺は君を嫌ったりしないから。
あの言葉。
アーシャに嫌われるのではないかと心配したこと。嫌われるのが怖かったわけではないと、その思いを否定したこと。なのに、あの言葉に――安心したこと。
正体を隠すのは事件解決の足枷になるから。最初も今も、その理由には偽りない。
しかし、彼女は改めて気づく。
「嫌われたく、ないのね」
これもまた、事実なのだと。
アーシャは、みんな自分と同じだ、嫌ったりしないと言った。けれど、リティシアはどこかでそれを恐れている。大体の堕天使が魔族を嫌うように、まだ見ぬ人間たちが魔族を疑っているように、仲間たちが魔族を敬遠しはしないか。その部分を信用できていない。だから打ち明けられないのも、また事実なのだ。
もう既に、何日も何週間も、リティシアはアーシャたちと過ごしていた。情が移らない方が無理な話だと、彼女は今になって実感する。
その思考が足を重くして、いつの間にか彼女はその場にひとり、しゃがみ込んでしまっていた。
時間が過ぎて夜中になっても、リティシアは眠れなかった。今朝気づいたばかりの事実が彼女を縛って、休むことを許さなかったのだ。
自室の寝台でただ横になっていたリティシアは、ふと部屋の反対側を見る。エリセが小さく寝息をたてて熟睡しているのを確認し、彼女はそっと起き上がった。
魔力を持っている生き物である以上、1日寝ずとも影響はほとんどない。
「……この際、起きていようかしら」
リティシアはほとんど声になっていない呟きをこぼす。
重たい感情に囚われたまま、することもなく横になっているのは苦痛以外の何物でもないのだ。再びまとわりついてくる思考を、彼女は首を振って振り払う。それから音もなく床に降り立つと、足元が軋まぬよう注意を払って扉に向かった。
夜目は利く。洋灯はいらないだろう。
リティシアはそっと扉を押し開けた。
階段が小さく音を立てる。さすがにこればかりは、音を完全に消すことはできない。影の中を通れれば別だが、あいにくリティシアは闇の魔法は扱えない。
しかし、ここまで来れば人を起こす心配もないだろうか。そう考えた彼女は、結局普段通りに階段を降りることにした。
「リティシア?」
しかし予想に反して、小さな声がかけられる。しかも寝室のある2階ではなく、居間の方から。
「……アーシャ」
柔らかいその声は間違えようもなかった。リティシアは明かりの灯っていない居間に向かう。
「……ここで寝ていたの?」
間もなくソファに腰かけているアーシャを見つけ、首を傾げて見せた。
「まさか。少し夜更かししてただけ」
声を立てて笑うアーシャに、リティシアはひとり納得する。天使も魔族と変わりなく夜目は利くはずだ。明かりがないのは、ただ単にいらなかったのだろう。
「リティシアは、どうしたの? 眠れなかったのかな」
アーシャは彼女を見上げて、心配したように尋ねた。ずばり言い当てられ、リティシアは何も言えず俯く。
「……まあ、そうね」
ようやくそれだけを言って濁そうとすると、温かいものが頭に触れた。彼女はそれにぱっと顔を上げる。
どうやら、アーシャがいつの間にか立ち上がって頭を撫でているようだった。
「アーシャ……? ――あの」
リティシアが珍しくたじろいでいると、アーシャは少し屈んでリティシアに目線を合わせた。そうして、柔らかく微笑んでみせる。
「今日、少し浮かない顔をしていたから……少しでも安心してくれればなって」
それではまるで子供扱いだ。でも実際そうかもしれない。彼とは200も年が離れているのだ。いくら魔力を持つ生き物であっても、その差は小さくはない。
それに――確かに、安心する。
「……リティシア?」
戸惑ったようなアーシャの声。リティシアは声が詰まって返事ができなかった。
「どうしたの。リティシア」
心配そうな、それでいてどこか慌てたような言葉。それとともに、アーシャが優しく目元を拭ってくる。
「……っ」
目の前がぼやける。自分さえ気づかないうちに、リティシアはぼろぼろと涙を零していた。いつも強気なリティシアが泣いているからか、アーシャは言葉を探すようにしている。
それが耐えられなくて、人前で泣いたことへの嫌悪感も伴って、リティシアはただ両手で顔を覆ってしまう。




