日光4
翌朝、和彦はカーテンの隙間から差し込む朝日が顔に当たって目が覚めた。
「……ん、朝か」
枕元のスマートフォンを手に取ると、午前七時を少し回っていた。普段ならまだ眠っている時間だが、昨夜は午後九時過ぎには布団に入っている。こんな時間に目を覚ましたというのに、頭は珍しくすっきりしていた。
せっかく旅行に来ているのだから、もう起きてしまおう。そう思って体を起こしかけたところで、隣の布団に目が留まった。
エリーゼがすぐそばで眠っていた。昨夜も布団は隙間なく並んでいたが、いつの間にか彼女の枕がこちらへ寄り、掛け布団まで少し重なっている。布団から出た片手は和彦の腕のそばにあり、寝返りを打てば触れてしまいそうだった。
枕には長い銀色の髪が広がり、唇からは静かな寝息が漏れている。普段は和彦より早く起きて身支度を整えているので、こんな無防備な寝顔を見るのは初めてだった。
いつもご主人様、ご主人様と言って世話を焼いてくれるけど、こうしていると普通の女の子なんだよな。
そんなことを考えている自分がおかしくなり、和彦は小さく口元を緩めた。起こさないように布団から抜け出そうとしたが、その気配が伝わったのか、エリーゼが身じろぎして薄く目を開けた。
「……ご主人様?」
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
「……もう朝なのですね……」
エリーゼは眠そうに瞬きをしながら体を起こした。肩から滑り落ちそうになった浴衣を直し、和彦の顔を見ると、まだ少し眠気の残る顔で微笑んだ。
「おはようございます、ご主人様。今朝はお早いのですね」
「おはよう。昨日は早く寝たからね。エリーゼはよく眠れた?」
「はい。お布団がとても気持ちよくて、ぐっすり眠れました」
「俺も久しぶりによく寝たよ。昨日は結構歩いたしな」
エリーゼは頷きかけたところで、自分の枕と和彦の枕を見比べた。それから布団の上に置いていた手を引き寄せ、少し困ったように眉を下げる。
「私、ずいぶんご主人様の方へ寄ってしまっていたのですね。お休みの邪魔をしませんでしたか?」
「いや、全然。俺も今起きたところだし、気づかなかったよ」
「それならよかったです。寝ている間のこととはいえ、失礼いたしました」
「そんなに気にしなくていいって。俺だって寝相がいいかどうかなんて、自分じゃわからないし」
和彦が笑うと、エリーゼも安心したように表情を緩めた。布団を軽く整える彼女を横目に、和彦は窓際へ歩いてカーテンを開けた。
朝日に照らされた中禅寺湖が、窓いっぱいに広がった。穏やかな湖面には向かいの山々が映り、湖畔を彩る赤や黄色の木々が青空によく映えている。昨日の夕方にも眺めた景色だが、朝の澄んだ光の中ではずいぶん印象が違っていた。
「エリーゼ、ちょっと見てごらん」
「はい……まあ!」
隣へやってきたエリーゼは、窓の外を見るなり声を弾ませた。ガラスにそっと手を添え、湖の向こうまで見渡している。
「昨日もきれいでしたけれど、朝はまた違いますね。山が水の中にもあるみたいです」
「風がないから、きれいに映ってるな。今日も天気はよさそうだ」
「はい。外を歩くのが楽しみです」
今日は華厳の滝を見に行くつもりだったが、そのあとの予定は決めていなかった。昨日は東照宮を中心に歩き回ったので、今日は湖の周辺でのんびり過ごすのもよさそうだ。和彦はしばらく景色を眺めてから、隣のエリーゼへ顔を向けた。
「そうだ。エリーゼ、自転車って乗ったことある?」
「自転車……ですか?」
「車輪が二つついてて、足でペダルをこいで走る乗り物。街でも見かけたと思うけど」
「ああ、あの乗り物ですね。はい、何度か見ました。皆様、倒れずに上手に乗っていらっしゃるので不思議に思っていたんです」
「この辺で借りられたら、少し乗ってみない? 湖のそばを走るのも気持ちよさそうだし」
「私にも乗れるでしょうか?」
「最初は練習がいるけど、エリーゼなら覚えるのも早そうだな」
「それでしたら、ぜひ挑戦してみたいです」
さっそく乗りたそうな顔をするエリーゼに、和彦はまず朝ご飯を食べてからだよと笑った。
◇
朝食は昨夜と同じ食事処に用意されていた。
席に着くと、焼き鮭に卵焼き、豆腐、それに小鉢がいくつも並んでいる。温かい味噌汁とご飯も運ばれてきて、エリーゼは目の前のお膳を見渡した。
「朝からこんなにたくさんいただけるのですね」
「旅館の朝ご飯って、結構しっかり出るんだよな。あ、納豆もあるぞ」
「本当ですね。私、こちらのお豆が好きなんです」
エリーゼは小さな器を手に取り、添えられた箸で納豆を混ぜ始めた。初めて食べたときは糸を引く様子に驚いていたが、今ではすっかり気に入っている。
和彦も鮭の身をほぐし、ご飯と一緒に口へ運んだ。皮にはほどよく焼き色がつき、塩気のある身が炊きたてのご飯によく合う。昨夜あれほど食べたのに、朝から不思議なくらい箸が進み、気づけばおかわりを頼んでいた。
「ご主人様、今日はよく召し上がりますね」
「なんか腹が減ってるんだよ。いつもは朝飯なんて食べないこともあるのに」
「昨日たくさん歩かれたからでしょうか。今日も歩きますし、しっかり召し上がってくださいね」
「エリーゼも遠慮しないで食べなよ」
「はい。私ももう少しいただこうと思っていたところです」
エリーゼも空になった茶碗を手に取り、近くの従業員に声をかけた。その様子を見ていると、もう少し食べられそうな気もしたが、さすがに満腹になりそうだったので、和彦は残っていた味噌汁を飲むにとどめた。
食事を終えて部屋へ戻ると、二人は着替えと荷造りを済ませた。チェックアウトまではまだ時間があったが、華厳の滝へ行くなら早めに出た方がよさそうだった。スマートフォンで調べたところ、紅葉の時期は時間が遅くなるほど混み合うらしい。
「荷物、持って歩くのは面倒だな」
「私がお持ちしましょうか?」
「いや、二人分持たせるつもりじゃないよ。旅館で預かってもらえるか聞いてみよう」
フロントで尋ねると、チェックアウト後も荷物は預かってくれるという。二人は財布やスマートフォンなど必要なものだけを手元に残し、身軽になって玄関へ向かった。
「お世話になりました。とても楽しかったです」
エリーゼが頭を下げると、見送りに出た従業員も笑顔で応じてくれた。荷物を受け取りにまた来るのだが、彼女にとってはここで一度きちんと挨拶をしておきたいらしい。
外へ出てからも、エリーゼは名残惜しそうに旅館を振り返った。
「本当に素敵なお宿でしたね。温泉も気持ちよかったですし、お料理もおいしくて」
「そうだな。昨日は卓球までやったし、結構いろいろ楽しめたね」
「はい。湯波のお料理は、家でも作ってみたいと思っています」
「帰ったら作り方を調べてみようか」
「よろしいのですか? それでしたら、ぜひお願いいたします」
帰ってからの楽しみもできたらしく、エリーゼは弾むような足取りで和彦の隣を歩き始めた。
◇
華厳の滝へ向かう道には、すでに観光客の姿が増えていた。
土産物店の前には菓子や置物が並び、飲食店からは焼き団子や揚げ物の匂いが漂ってくる。エリーゼは店先に目を向けていたが、先に滝を見に行こうと和彦が声をかけると、楽しみをあとに取っておくように頷いた。
やがて展望台へ出ると、木々の向こうに大きな滝が姿を現した。
「うわあ……!」
エリーゼは手すりの手前で足を止め、目の前の光景を見つめた。高い岩壁の上から白い水が一気に落ち、下の方では細かな飛沫となって広がっている。離れた場所に立っているのに、水の響きが絶え間なく届いていた。
「これが華厳の滝だよ。高さは百メートル近くあるんだって」
「こんなに高いところから……。下にいる人が、とても小さく見えますね」
エリーゼの故郷にも滝はあったが、これほどの高さから水が流れ落ちるところは見たことがなかった。周囲の岩肌を彩る木々も美しく、どこを見ればいいのか迷うように視線を動かしている。
「ご主人様、あのお水はどこから流れてくるのでしょうか?」
「旅館の窓から見えた中禅寺湖だよ。あそこから流れ出た水が、この滝になってるんだ」
「まあ! あんなに穏やかだった湖のお水が、ここではこんなに激しく流れているのですね」
「すぐ近くなのに、ずいぶん違うよな」
エリーゼはもう一度滝の上の方を見上げた。あの向こうに先ほどまで眺めていた湖があると思うと、ますます不思議に感じるらしい。
和彦はスマートフォンを取り出し、滝を背景に彼女の写真を撮った。最初は背筋を伸ばしてかしこまっていたエリーゼも、少し肩の力を抜いていいよと言われると笑顔になり、撮った画面をのぞき込んでは感心していた。
「ご主人様、今度はご一緒に撮りませんか?」
「いいよ。誰かに頼んでみようか」
近くにいた観光客に声をかけると、快く引き受けてくれた。エリーゼは和彦のすぐ隣に立ち、向けられたスマートフォンへ微笑んだ。
「素敵なお写真ですね。昨日のものと一緒に、大切にしたいです」
「帰ったらアルバムでも作ろうか。写真を紙に印刷して、まとめておけるんだよ」
「こちらの画面で見るだけではなく、紙にもできるのですか?」
「うん。そうすればエリーゼも好きなときに見られるし」
「それは嬉しいです。ぜひ、お願いいたします」
その後は料金を払ってエレベーターに乗り、下の観瀑台へ向かった。岩盤の中を下りていく間、エリーゼは階数を示す表示と和彦の顔を交互に見ていたが、通路を抜けて再び滝が見えた途端、そちらへ夢中になった。
「ご主人様、こちらからですと、もっと大きく見えます!」
「ああ。音もすごいな」
見上げた先から落ちてくる水は、上で眺めたときよりもずっと近く感じられた。滝壺の辺りには白い飛沫が立ち込め、ひんやりとした空気が頬を撫でていく。エリーゼは手すりに手を添えたまま、しばらく動こうとしなかった。
和彦も隣に立ち、久しぶりに見る滝をゆっくり眺めた。以前来たときのことは曖昧になっているのに、今日の景色はあとになってもよく覚えていそうな気がした。
◇
地上へ戻って土産物店を見て回るうちに、時刻は午前十一時を過ぎていた。
湖の方へ歩いていると、エリーゼが一軒の店先で足を止めた。炭火を囲むように魚の串が何本も立てられ、こんがり焼けた皮から香ばしい匂いが漂っている。
「ご主人様、あちらのお魚も売っているのでしょうか?」
「うん。鮎の塩焼きだって。食べてみる?」
「よろしいのですか?」
「もちろん。俺もちょっと食べたいし」
和彦は二本注文し、店先で焼き上がりを待った。エリーゼは炭火のそばへ近づきすぎないようにしながら、串に刺された魚を眺めている。
「鮎というのは、川のお魚なのですね」
「そう。こうやって塩を振って焼くとうまいんだよ」
「故郷でも川魚はいただいていましたけれど、こんなふうに並べて焼いているところは初めて見ました」
「見てると食べたくなるよな。匂いもいいし」
やがて店員が焼けた鮎を火から外し、熱いので気をつけるように言いながら渡してくれた。二人は近くのベンチに座り、エリーゼは串を持つ手を確かめてから、背中の辺りへそっとかぶりついた。
「……おいしいです。皮はぱりっとしているのに、中は柔らかいのですね」
「焼きたてはうまいな。骨には気をつけてね」
「はい。ご主人様もお気をつけください」
エリーゼは身を少しずつほぐし、骨を取り分けながら丁寧に食べ進めた。和彦も熱い身を口へ運び、ほどよい塩気を味わう。
「鮎って、香魚とも呼ばれるんだって。スイカみたいな香りがするって言われてるらしいよ」
「スイカですか?」
エリーゼは意外そうに魚を見つめ、もう一口食べてから首を傾げた。
「……私には、よくわかりませんでした」
「俺も食べててスイカだなって思ったことはないな」
「ふふっ。では、おいしくいただければよいですね」
「そうだね。それが一番だ」
食べ終えたエリーゼの串には、ほとんど身が残っていなかった。ごちそうさまでしたと手を合わせ、店へ串を返してからも、焼き台をもう一度眺めている。
「お魚を焼くなら、家のグリルでもできますよね?」
「できると思うよ。さすがに炭火と同じにはならないだろうけど」
「今度試してみます。焼きたてを召し上がっていただけるようにいたしますね」
「じゃあ、俺も冷めないうちに食卓に着かないとな」
エリーゼは笑って頷き、それから湖へ続く道に目を向けた。
「ところで、ご主人様。自転車は、このあとでしょうか?」
「ああ、そうだった。借りられるところを探してみようか」
◇
湖畔のレンタサイクルの店には、何台もの自転車が並んでいた。
和彦が受付で利用時間などを確認する間、エリーゼは自転車の横へしゃがみ、ペダルや車輪を眺めていた。ペダルを少し動かすと車輪まで回ることに気づき、もう一度ゆっくり回してみている。
「これを足で動かすのですね」
「そうそう。ただ、乗る前に止まり方から覚えようか。ここのレバーを握るとブレーキがかかるんだ」
店員に初めて乗ることを伝えると、足の届きやすい自転車を選び、サドルの高さも調整してくれた。近くには車の入らない広い場所があり、まずはそこで練習することになった。
エリーゼは自転車を押して歩きながら、ブレーキを握る強さを確かめた。止まる感覚がわかったところでサドルにまたがったが、両足を地面につけたまま不思議そうに和彦を見る。
「ご主人様、足を離したら倒れてしまいませんか?」
「止まってると倒れるけど、動いてるとバランスが取れるんだよ。最初はペダルを使わないで、足で地面を蹴ってみて」
「こうでしょうか?」
「うん。下ばっかり見ないで、行きたい方を見るといいよ」
エリーゼはおそるおそる地面を蹴り、自転車を前へ進めた。初めは車体が傾くたびに足をついていたが、何度か繰り返すうちに、両足を浮かせて進める距離が伸びていった。
「少しわかってきました。動いていると、先ほどより倒れにくいですね」
「いい感じじゃないか。止まるときは、さっきのブレーキをゆっくりね」
エリーゼは言われたとおりに速度を落とし、最後に両足を地面につけた。和彦はその様子を見て、次はペダルを使ってみようと自転車の後ろへ回った。
「俺が支えてるから、前を見てゆっくりこいでみて」
「はい。お願いいたします」
ペダルを踏み込むと、先ほどよりも勢いよく自転車が進んだ。エリーゼは一瞬肩をこわばらせたが、和彦の声に頷き、そのまま足を動かし続けた。
数メートルほど一緒に進み、車体が安定したところで和彦はそっと手を離した。そのまま走り続けたエリーゼは、後ろの気配が遠くなったことに気づいて振り返った。
「ご主人様、私、一人で――」
「前! 前見て!」
「きゃっ!」
慌てて向き直った拍子にハンドルが揺れたものの、エリーゼはブレーキを握り、両足をついて踏みとどまった。和彦が駆け寄ると、彼女は驚いた顔のまま自転車を押さえていた。
「大丈夫?」
「はい……。申し訳ありません。嬉しくて、つい振り返ってしまいました」
「転ばなくてよかったよ。でも、ちゃんと一人で走れてたね」
「はい。もう一度やってみてもよろしいですか?」
「もちろん。今度は止まってから振り返ってね」
エリーゼは素直に頷き、再びペダルへ足を乗せた。それからしばらく練習を続けると、こぎ始めも滑らかになり、緩やかなカーブを曲がって戻ってこられるようになった。
「ご主人様、いかがでしょうか?」
「もう普通に乗れてるな。覚えるの早いね」
「とても楽しいです。足を動かすと、どんどん進んでいくんですね」
和彦はスマートフォンを取り出し、もう一度走ってくる彼女を写真に収めた。エリーゼは和彦の前で止まると、撮ってくれたのですかと顔をほころばせた。
その後、二人はヘルメットをかぶり、店で教わった道へ向かった。湖を一周するのではなく、無理なく走れる範囲を往復し、途中で景色を楽しむことにした。
湖の見える道へ出ると、エリーゼは顔を上げた。歩いていたときとは違う速さで景色が移り変わり、冷たい風が頬に当たる。
「ご主人様、風が気持ちいいですね!」
「そうだろ。歩くより少し寒いくらいだな」
「はい。でも、自分の足でこんなに速く進めるなんて、不思議です」
「まだ慣れたばっかりなんだから、あんまり飛ばさないでね」
「わかりました。ゆっくり走ります」
エリーゼは前へ向き直り、和彦の少し先を進んだ。昨日の卓球でも感じたが、彼女は体を動かすことが得意らしい。乗り方がわかると余計な力も抜け、落ち着いた様子でペダルをこいでいた。
道が狭くなったところや人の多い場所では自転車を降り、二人で押して歩いた。途中で気になる景色を見つけると足を止め、写真を撮ったり、湖を眺めたりしながら少しずつ先へ進んでいく。
やがて見晴らしのよい場所にベンチを見つけ、二人は自転車を止めて休むことにした。
「少し疲れた?」
「いえ、まだ大丈夫です。ご主人様はいかがですか?」
「俺はちょっと休みたい。普段こんなに自転車乗らないし」
「では、ゆっくりいたしましょう。こちらからの景色も、とてもきれいです」
ベンチに並んで座ると、湖を渡る遊覧船が見えた。白い船は水面にゆるやかな跡を残し、紅葉した山々を背に進んでいる。
「あちらのお船には、人が乗っているのですね」
「遊覧船だよ。湖の上から景色を眺められるんだ」
「素敵ですね。お船からですと、また違って見えるのでしょうね」
「そうだろうな。今度来たら、あれに乗るのもよさそうだね」
エリーゼは遠ざかる船をしばらく眺めてから、隣の和彦へ顔を向けた。
「ご主人様、旅行に誘ってくださって、ありがとうございます」
「ん? 急にどうしたの?」
「昨日から楽しいことばかりで……。温泉も、お料理も、今日の自転車も、帰ったら何から思い出せばよいのかわからなくなりそうです」
「写真見ながら、順番に思い出せばいいよ。結構撮ってるからね」
「はい。でも、一番嬉しいのは、ご主人様と一緒に来られたことなんです」
和彦は返事をしかけて、少し言葉に詰まった。エリーゼは照れた様子もなく、まっすぐこちらを見ていた。
「知らない場所でも、ご主人様がいろいろ教えてくださいますし、きれいなものを見たら一緒にお話しできますから。一人でしたら、きっとこんなに楽しくはなかったと思います」
「……そっか。まあ、俺も一人じゃ来なかっただろうな」
「そうなのですか?」
「家でゲームしてる方が楽だし、人の多いところって疲れるからさ。旅行なんて、そのうち行けばいいかって思ってる間に、ずっと行かないままだったし」
「ふふっ。ご主人様らしいですね」
「でも、来てよかったよ。エリーゼがそんなに楽しんでくれると、連れてきた甲斐もあるし」
口にしてから少し気恥ずかしくなり、和彦は湖へ目を向けた。隣ではエリーゼが膝の上で手を重ね、穏やかに微笑んでいる。
「それでしたら、またご一緒していただけますか?」
「もちろん。今度は別のところにも行ってみようか」
「はい。楽しみにしております」
すぐに次の行き先を考えたくなったが、まだ今回の旅行も終わっていない。和彦は背もたれに体を預け、しばらくエリーゼと並んで湖を眺めた。
十分に休んでから立ち上がると、エリーゼも自転車のところへ戻った。借りたばかりのときとは違い、ハンドルを握る手つきにも迷いがない。
「ご主人様、帰りは私が先を走ってもよろしいでしょうか?」
「いいよ。分かれ道があったら止まって待っててね」
「はい。ご主人様も、どうぞゆっくりいらしてください」
「そんなに置いていかれるつもりはないんだけどな」
エリーゼは楽しそうに笑い、和彦が準備を終えるのを待ってからペダルを踏み込んだ。
◇
写真を撮ったり休憩したりしながら戻り、自転車を返したころには午後二時を少し回っていた。
鮎の塩焼きを食べたきりだったので、二人ともすっかりお腹が空いていた。和彦は湖畔の飲食店を見て歩き、湯波そばの看板を出している店へ入ることにした。
「ご主人様、昨日いただいた湯波ですね」
「うん。もう一回くらい食べておこうかなと思って。温かいそばなら、体も温まるし」
「私もいただきたいです。自転車に乗っている間は平気でしたけれど、止まると少し冷えますね」
席に着いて湯波そばを二つ注文すると、エリーゼは湯飲みを両手で包んだ。和彦も温かい茶を飲み、ひと息つく。自分で思っていた以上に体を動かしたらしく、座ると足にほどよい疲れを感じた。
運ばれてきたそばには、ふっくらとした湯波と葱が添えられていた。湯気とともにだしの香りが立ち、エリーゼは箸を手に取って目を細める。
「いただきます……まあ、こちらもおいしいですね」
「昨日の煮物とはまた違うね」
「はい。おつゆがよくしみています。家でも、こんなふうにできたらよいのですけれど」
「まずは食べてから考えようよ。冷めちゃうし」
「そうですね。せっかく温かいうちに持ってきていただいたのですから」
エリーゼはそばを少しずつ口へ運び、今度は湯波と一緒に味わっていた。ひと口食べるたびに満足そうな顔になるので、和彦もつい口元が緩む。
「ご主人様、何かおかしかったですか?」
「いや。うまそうに食べるなと思って」
「だって、本当においしいんですもの。ご主人様も、先ほどから楽しそうなお顔をされていますよ」
「そう?」
「はい。自転車に乗っていらしたときもです」
「……まあ、楽しかったからね」
和彦は少し照れくさくなり、そばをすすった。エリーゼはそれ以上何も言わなかったが、向かいから笑顔を向けられているのはわかった。
◇
食事を終えると、二人は土産物店を何軒か見て回った。
木彫りの置物や色鮮やかな菓子を眺めるうちに、エリーゼは絵葉書の並ぶ棚の前で足を止めた。東照宮や華厳の滝、中禅寺湖の風景が描かれたものを、一枚ずつ手に取って見比べている。
「ご主人様、こちらを買ってもよろしいでしょうか?」
「もちろん。どれにする?」
「こちらの神社と、滝と……湖のものも欲しいのですが」
「三枚とも買えばいいよ。部屋に飾るの?」
「はい。そうすれば、いつでも旅行のことを思い出せますから」
「じゃあ、写真も何枚か一緒に飾ろうか」
エリーゼは頷き、選んだ絵葉書を大切そうに重ねた。和彦も家で食べる菓子をいくつか選び、買い物を済ませてから旅館へ荷物を受け取りに戻った。
改めて従業員に礼を言い、帰りのバスに乗り込むと、エリーゼは窓際の席に座った。膝の上に土産の袋を置き、出発するまでの間も外の景色を眺めている。
「もう帰ってしまうのですね」
「一泊二日なんて、あっという間だな」
「はい。けれど、たくさんのことがありました。昨日の朝に家を出たばかりとは思えません」
「そうだね。帰ったら写真を整理しないと。東照宮だけでも結構撮ったし」
「私、自転車に乗っているところも楽しみです」
「あれ、よく撮れてたよ。すごく嬉しそうな顔してた」
「まあ……乗れたのが嬉しくて、どんな顔をしていたのか覚えていません」
「じゃあ、帰ってからのお楽しみだな」
エリーゼは少し照れたように笑い、袋の中の絵葉書が折れていないか確かめてから、再び窓へ顔を向けた。
バスが動き出すと、湖畔の店や旅館が後ろへ流れていった。やがていろは坂へ差しかかり、大きく曲がるたびに、紅葉した斜面や遠くの山々が窓の向こうへ現れる。エリーゼは初めのうちこそ景色を指して話していたが、しばらくすると少しずつ口数が減っていった。
和彦が隣を見ると、彼女は外を眺めながら何度も瞬きをしていた。膝の上の袋を抱え直し、眠気を追い払おうとするように背筋を伸ばしている。
「眠いなら、少し寝てもいいよ」
「いえ、大丈夫です。せっかくの景色ですから、もう少し見ていたくて……」
「駅に着いたら起こすから。無理しなくていいって」
エリーゼは小さく頷いたものの、まだ窓の外を見ていた。ところが数分もしないうちに頭がこくりと下がり、一度は慌てて姿勢を戻したが、今度は和彦の方へゆっくり傾いてきた。
肩にそっと重みがかかり、銀色の髪が和彦の腕に触れた。
「……エリーゼ?」
小声で呼びかけても返事はなく、代わりに静かな寝息が聞こえてきた。和彦は少し戸惑ったが、起こすのもかわいそうで、そのまま肩を貸しておくことにした。
昨日からよく歩き、今日は初めての自転車まで乗ったのだから、疲れるのも当然だろう。先ほどまであれほど名残惜しそうに外を眺めていたのに、今は安心しきった顔で眠っている。
和彦は彼女の頭を揺らさないように座り直し、背もたれへ体を預けた。窓の外には色づいた山々が続き、道が曲がるたびに、差し込む日差しの向きが変わった。
エリーゼが家に現れた日には、まさか一緒に旅行することになるとは思わなかった。素性もわからない相手を泊めていいのか迷い、異世界から来たと聞かされて困惑したのも、まだそれほど前のことではない。
それが今では、家へ帰ったら一緒に写真を見ようと考えている。部屋に飾る分を選んで、アルバムも用意して、買ってきた菓子を食べながら旅行の話をするのもよさそうだ。
こんなことなら、もう一泊してもよかったかな。
ふとそう思い、和彦は肩で眠るエリーゼへ目を向けた。とはいえ、彼女はもう次の旅行を楽しみにしている。今回行けなかった場所も、また来たときに回ればいいだろう。
帰ったら庭の手入れも終わっているはずだ。二人で植えた花壇がどうなっているか、エリーゼはきっと真っ先に見に行きたがる。
そんな帰宅後のことを考えているうちに、和彦もだんだん眠くなってきた。駅まではまだ時間がある。少しくらいなら寝ても大丈夫だろうと、肩に伝わる温もりを感じながら目を閉じた。
バスが大きなカーブをゆっくり曲がり、二人の体がわずかに揺れた。エリーゼを起こさないように気をつけていた和彦も、やがてその揺れに身を任せ、彼女と並んで眠りに落ちていった。




