日光3
――ご主人様と一緒に旅行ができるなんて、少し前までは考えたこともなかった。
女湯の暖簾をくぐったエリーゼは、そんなことを思いながら廊下を進んでいた。
和彦の家に来てからというもの、毎日が驚きの連続だった。初めて見る道具や食べ物、馬も使わずに走る乗り物、そして今日訪れた美しい神社。どれも故郷では想像もできなかったものばかりだ。
けれど、何より嬉しかったのは、和彦が自分を旅行に誘ってくれたことだった。
メイドとして主人に仕えるのは当然のことであり、主人の外出に同行することも珍しくはない。ただし、それはあくまで仕事としての話だ。主人と同じ宿に泊まり、一緒に観光を楽しむなど、以前の屋敷では考えられなかった。
しかも和彦は、旅行中くらい仕事を忘れて楽しんでほしいと言ってくれた。エリーゼにとっては、その言葉だけでも十分に嬉しかった。
「……ふふっ」
思わず笑みがこぼれたところで、前方に脱衣所の入口が見えてきた。
中へ入ると、広い部屋には籐で編まれた籠が並び、壁際には大きな鏡と洗面台が設けられていた。すでに何人かの女性が着替えており、浴衣を脱いで籠へ収めたり、鏡の前で髪をまとめたりしている。
エリーゼも空いている籠を見つけ、浴衣を脱いで丁寧に畳んだ。下着も一緒に収めると、持ってきたタオルを手に浴場へ向かう。
扉を開けた途端、ふわりと温かな湯気が顔を包んだ。
「まあ……!」
思わず声が漏れた。
浴場は想像していたよりずっと広く、壁一面の大きな窓からは庭の木々が見えていた。床には滑らかな石が敷き詰められ、奥には何人もの人が入れそうな大きな湯船がある。勢いよく注がれるお湯の音が響き、室内には独特の香りが漂っていた。
故郷でも入浴の習慣はあったが、これほど立派な設備を見たことはない。以前勤めていた屋敷には大きな浴槽があったものの、使用人が使えるのは別の浴室だった。お湯を沸かして運ぶ手間もあり、毎日たっぷりの湯に浸かれるわけではなかったのだ。
和彦の家では蛇口をひねるだけで温かいお湯が出ることに驚いたが、ここではそれよりはるかに大量のお湯が惜しげもなく使われている。
エリーゼはしばらく湯船を眺めていたが、入口近くに掲げられた案内に気づいた。
『浴槽に入る前に、かけ湯をしてください』
その下には、桶で体にお湯をかけている人の絵が描かれている。
なるほど。まずは体を流してから入るのですね。
エリーゼは置かれていた桶を手に取り、かけ湯用の小さな浴槽からお湯をすくった。足元から少しずつかけてみると、思っていたより熱く感じられたが、何度か繰り返すうちに体が慣れてきた。
続いて洗い場へ向かい、椅子に腰を下ろして髪と体を洗う。和彦の家にもあるシャワーがずらりと並んでおり、石鹸や髪を洗うための液体まで用意されていた。
ひととおり洗い終えると、エリーゼは髪をまとめ直して湯船へ向かった。
先に入っていた女性たちの邪魔にならないよう端から足を入れ、ゆっくりと腰を下ろしていく。
「……ああ……」
肩までお湯に浸かった瞬間、思わずため息が漏れた。
体の芯まで温かさが染み込んでくるようだった。今日一日歩き回った足も、浴衣に着替えるまで感じていた肌寒さも、すべてお湯の中へ溶けていくような気がする。
エリーゼは湯船の縁に背中を預け、目を細めた。
なんて気持ちがいいのでしょう。ご主人様が温泉を楽しみにしていらした理由が、ようやくわかりました。
「お嬢さん、温泉は初めて?」
不意に声をかけられ、エリーゼは隣へ顔を向けた。
そこには六十代くらいの女性が座っており、にこやかにこちらを見ていた。
「あっ、はい。初めてです」
「やっぱりねえ。ずいぶん嬉しそうな顔をしていたから」
「申し訳ありません。そんなに顔に出ていましたか?」
「いいのよ。温泉は気持ちいいものねえ。それにしても、お嬢さん、ずいぶんきれいな人ね」
「えっ?」
「お顔もそうだけど、スタイルもいいわねえ。背も高いし、手足も長くて。モデルさんか何か?」
「も、モデル……ですか?」
聞き慣れない言葉に戸惑っていると、女性は少し離れたところにいる友人らしい人へ声をかけた。
「ちょっと、見てごらんなさいよ。こちらのお嬢さん、すごくスタイルがいいのよ」
「あら、本当。外国の方?」
「は、はい。こちらの国の生まれではありません」
「やっぱりねえ。日本人とは雰囲気が違うもの。お肌もきれいで羨ましいわ」
二人から次々に褒められ、エリーゼはすっかり恐縮してしまった。
「ありがとうございます。でも、そんな……私より美しい方はたくさんいらっしゃいますので」
「あらあら、謙虚なのねえ。若いっていいわね」
女性たちは楽しそうに笑い、それから旅行の話を始めた。どうやら二人は学生時代からの友人で、毎年一緒に温泉旅行へ出かけているらしい。
「お嬢さんは一人で来たの?」
「いいえ。ご主人様と一緒に参りました」
「……ご主人様?」
「はい。ご主人様が旅行に誘ってくださったんです」
その言葉を聞いた途端、女性たちは顔を見合わせた。
「あらまあ!」
「そういうことなのねえ」
「えっ?」
「それじゃあ、彼氏と一緒なのね?」
「か、彼氏……?」
「違うの? 旦那様かしら?」
「い、いえ! そうではなくて!」
エリーゼは慌てて両手を振った。
「私はご主人様のお屋敷で、メイドとして働かせていただいているんです」
「メイドさん?」
「はい。お掃除やお料理など、ご主人様のお世話をするのが私の仕事です」
女性たちは再び顔を見合わせたあと、なぜか先ほどより楽しそうに笑い始めた。
「あらあら、今どき珍しいわねえ」
「でも、旅行に連れてきてくれるなんて、ずいぶん優しいご主人様じゃない」
「はい! とてもお優しい方なんです。私が知らないことも何でも教えてくださいますし、今日も新幹線に乗せてくださって、神社や湖にも連れていってくださいました」
和彦のことを尋ねられたのが嬉しくて、エリーゼは今日の出来事を話し始めた。駅弁を買ってもらったことや、東照宮の美しい彫刻、湖を背景に二人で写真を撮ったことまで説明すると、女性たちは何度も頷いている。
「まあまあ、仲がいいのねえ」
「ご主人様のこと、大好きなのね」
「はい。とても尊敬しています」
エリーゼが迷わず答えると、女性の一人が口元を押さえて笑った。
「うふふ。そういうことにしておきましょうか」
「……?」
何がおかしいのかわからなかったが、二人とも楽しそうなので、エリーゼもつられて微笑んだ。
その後も少し世間話を楽しんでいたが、女性たちが先に湯船を出たので、エリーゼもそろそろ上がることにした。
せっかくなので露天風呂にも入ってみようと思い、浴場の奥にある扉を開ける。
「まあ……こちらも素敵ですね」
外には岩に囲まれた湯船があり、その向こうには紅葉した木々が広がっていた。屋根は一部にしかなく、夕暮れの空を眺めながら入浴できるようになっている。
ひんやりとした空気の中でお湯に浸かると、顔だけが涼しく、体は温かいままだった。先ほどとはまた違った心地よさに、エリーゼはしばらく景色を眺めて過ごした。
ご主人様も、今ごろ同じように温泉を楽しんでいらっしゃるのでしょうか。
男湯がどのようになっているのかはわからないが、きっと立派な浴場なのだろう。今日の石段では随分お疲れのようだったので、ゆっくり休めているといいのだけれど。
そんなことを考えているうちに、少し長く入りすぎたらしい。頬が熱くなってきたので湯船から上がり、浴場をあとにした。
脱衣所で体を拭いて浴衣に着替え、洗面台に置かれたドライヤーを手に取った。和彦の家にあるものとは形が違ったが、スイッチの表示を見れば使い方はわかる。髪を乾かして櫛で整え、最後に帯が緩んでいないか確かめた。
これなら、ご主人様にもおかしな格好をお見せせずに済みそうです。
エリーゼは満足して脱衣所を出ると、待ち合わせ場所のマッサージチェアへ向かった。
まだ和彦の姿は見当たらない。
男性の方は入浴が長いのかもしれないし、単に自分が先に出てきただけかもしれない。せっかくなので、先ほど教えてもらった椅子を試してみることにした。
大きなマッサージチェアに腰を下ろすと、背もたれが体を包み込むように支えてくれた。足を置く場所まで設けられており、普通の椅子とは随分形が違う。
肘掛けのところには操作用の画面があり、いくつもの文字が並んでいた。
「ええと……全身、おまかせ……」
エリーゼは表示を読んでから、試しに全身コースを選んでみた。
すると椅子がゆっくりと倒れ始め、背中の辺りで何かが動き出した。
「きゃっ!」
突然肩を押され、思わず声を上げてしまった。
驚いて身を起こそうとしたが、今度は腰の辺りがぐっと押され、続いて背中を何かが上下に動いていく。
「……あっ、なるほど。こういうことなのですね」
和彦が説明してくれたとおり、確かに誰かが肩や背中を揉んでくれているようだった。
しばらくすると足元の部分も動き始め、ふくらはぎが左右から包み込まれる。少し強く押されるたびに体がびくりとしたが、慣れてくるとそれも心地よい。
温泉で十分に温まった体を柔らかな椅子に預け、肩から腰までゆっくり揉みほぐされていると、次第にまぶたが重くなってきた。
これは……本当に気持ちがいいですね。
ご主人様にも、ぜひ使っていただかなくては。
そう考えながら目を閉じたところまでは覚えていたが、次の瞬間には意識が遠のいていた。
◇
「……エリーゼ?」
どこかで和彦の声が聞こえた。
「おーい、エリーゼ。大丈夫?」
「……ん……」
肩を軽く叩かれ、エリーゼはゆっくり目を開けた。
目の前には浴衣姿の和彦が立っており、少し心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「……ご主人様?」
「おはよう。ずいぶん気持ちよさそうに寝てたな」
「……えっ?」
エリーゼは周囲を見回し、自分がマッサージチェアに座っていることを思い出した。
「あっ! も、申し訳ありません!」
慌てて体を起こすと、和彦が笑いながら手を振った。
「いや、謝らなくていいって。俺もさっき上がったところだし」
「私、ご主人様をお待ちしている間に眠ってしまったのですね……」
「そうみたいだな。声かけても起きないから、よっぽど気持ちよかったんだろ」
「はい……あまりにも心地よくて、つい……」
恥ずかしそうに俯くエリーゼを見て、和彦はますますおかしそうに笑った。
「まあ、今日一日歩き回ったしな。疲れてたんだろ」
「ですが、ご主人様をお待たせしてしまいました」
「大丈夫だよ。それより、温泉はどうだった?」
その問いかけに、エリーゼはぱっと顔を上げた。
「とても素晴らしかったです! あんなに大きなお風呂は初めてでしたし、外のお風呂からは紅葉も見えました。お湯も本当に気持ちよくて、いつまでも入っていたくなりました!」
「ははっ、そりゃよかった。俺も露天風呂に入ったけど、景色がよかったな」
「はい! それから、お風呂でご一緒した方々が、とても親切にしてくださったんです」
「へえ、何か話したの?」
「はい。私のことをモデルさんかと尋ねられたり、ご主人様と一緒に来たとお話ししたら、恋人同士なのかと聞かれたりしました」
「……えっ?」
「もちろん、私はご主人様にお仕えしているメイドだと説明しました。そうしたら、お二人とも楽しそうに笑っていらっしゃって」
「……ああ、なるほど」
和彦は何となく事情を察したが、エリーゼは不思議そうに首を傾げている。
「どうかなさいましたか?」
「いや、何でもないよ。それより、喉渇いてない?」
「あっ、はい。温泉に入ってから、まだ何も飲んでいません」
「じゃあ、風呂上がりのお楽しみを教えてあげよう」
和彦は近くの自動販売機を指さした。
そこには小さな瓶に入った飲み物が並んでおり、白い牛乳のほかに茶色や桃色のものも見える。
「これは牛乳ですか?」
「そう。普通の牛乳もあるけど、いちご牛乳とコーヒー牛乳もあるんだ。どっちがいい?」
「いちごと、コーヒー……ですか?」
「甘いのが好きなら、いちご牛乳がいいかもな」
「では、そちらをいただいてもよろしいでしょうか?」
「もちろん。俺はコーヒー牛乳にしようかな」
和彦は自動販売機で二本購入し、桃色の瓶をエリーゼへ渡した。彼女はラベルを眺め、瓶の中身がほんのり桃色をしていることに感心している。
「ずいぶん可愛らしい色ですね」
「いちごの風味がついてるんだよ。ほら、こうやって飲むといいんだ」
和彦は瓶の蓋を開けると、片手を腰に当てて胸を張った。
「風呂上がりの牛乳は、腰に手を当てて飲むのがマナーなんだ」
「まあ、そうなのですか?」
「ああ。昔からの日本の伝統ってやつだな」
「伝統……!」
エリーゼは真剣な顔で頷き、和彦の動きをじっと観察した。
そして自分も瓶の蓋を開けると、左手を腰へ当て、背筋をぴんと伸ばす。
「このような感じでしょうか?」
「そうそう。それで瓶をぐいっと傾けて……」
「はい!」
エリーゼは言われたとおり瓶を持ち上げ、いちご牛乳を一口飲んだ。
「……まあ! 甘くておいしいです!」
「だろ? 風呂上がりだと余計にうまく感じるんだよな」
「はい。いちごの香りもしますね」
エリーゼはもう一口飲み、それから何かを思い出したように背筋を伸ばし直した。
「ご主人様、こちらの国では、皆様このようにして飲まれるのですか?」
「いや、全員ってわけじゃないけどさ。まあ、温泉に来たら一度はやっておかないとな」
「そうなのですね。覚えておきます」
あまりにも真剣に頷かれたので、和彦は少しだけ罪悪感を覚えた。
「……まあ、別に普通に飲んでもいいんだけどね」
「えっ?」
「いや、こっちの話」
和彦も腰に手を当て、コーヒー牛乳を飲み始めた。エリーゼはその姿を確認すると、安心したように笑って再び瓶を傾ける。
結局、二人は並んで腰に手を当てたまま牛乳を飲み干した。
◇
部屋へ戻って少し休んでいるうちに、夕食の時間になった。
和彦とエリーゼは浴衣姿のまま食事処へ向かった。案内された席は窓際の二人掛けで、卓上にはすでにいくつもの小鉢が並べられている。
「まあ……なんてきれいなのでしょう」
エリーゼは席に着く前から料理に目を奪われていた。
小さな器には彩りよく料理が盛りつけられ、紅葉の形をした飾りまで添えられている。中央には蓋のついた椀があり、その隣には白く柔らかそうな料理が置かれていた。
「本日のご夕食は、日光名物の湯波を中心にした会席料理でございます」
料理を運んできた従業員が、丁寧に説明を始めた。
「こちらは湯波のお刺身でございます。お醤油を少しつけてお召し上がりください。隣は湯波の煮物、それから季節のお野菜を使った前菜でございます」
「湯波って、豆乳を温めたときに表面にできる膜をすくい取ったものなんだって」
和彦が補足すると、エリーゼは興味深そうに白い湯波を見つめた。
「お豆から、このようなお料理ができるのですか?」
「そうらしい。俺も詳しくは知らないけど、日光じゃ有名なんだよ」
「まあ……不思議ですね」
従業員が一礼して離れると、二人は早速料理に箸を伸ばした。
エリーゼが最初に選んだのは、湯波の刺身だった。小さく折り重なった白い湯波を箸で持ち上げ、醤油を少しつけて口へ運ぶ。
「……あら」
「どう?」
「とても柔らかいのですね。お豆のお味がしますけれど、お豆腐とも違って……」
「うん、食感が面白いよな」
「はい。口の中でほどけるような感じがします」
続いて煮物を食べると、こちらはだしの味がよく染みており、刺身とはまったく違った印象だった。
「同じ材料なのに、こんなに変わるのですね」
「煮るか、そのまま食べるかでも違うんだろうな」
「ご主人様、これも家で作れるでしょうか?」
「また料理のこと考えてるのか?」
「ふふっ。だって、とてもおいしいんですもの」
エリーゼは少し照れたように笑い、もう一口煮物を味わった。
やがて次の料理が運ばれてきた。湯波を使った茶碗蒸しに、川魚の塩焼き、季節の野菜の天ぷら。どれも少しずつではあったが、品数が多く、食べ進めるうちに十分な量になっていった。
「こちらのお魚は、川で獲れるものなのですか?」
「そうみたいだな。たぶんヤマメかイワナじゃないかな」
「香ばしくておいしいですね。骨もきれいに取れるのでしょうか?」
「こうやって背骨のところを……あ、そうそう。うまいじゃないか」
「ありがとうございます。ご主人様のお手本がよかったので」
「いや、そんな大したことしてないって」
和彦は照れ笑いしながら、自分の魚にも箸を伸ばした。
料理が運ばれてくるたびにエリーゼが目を輝かせるので、和彦も自然と食事を楽しんでいた。普段は食べることにそれほど時間をかけないが、今夜は次の料理が来るのを待ちながら、今日見たものについてゆっくり話している。
「そういえば、東照宮で撮った写真、あとで見ようか」
「はい。特に三匹のお猿さんのお写真が楽しみです」
「ああ、見ざる言わざる聞かざるな」
「そのようなお名前なのですか?」
「名前っていうか、意味があるんだよ。悪いことは見ない、言わない、聞かないっていう教えだったかな」
「まあ、あの可愛らしいお猿さんに、そのような意味があったのですね」
「俺も詳しくは覚えてないけどな。帰ったら調べてみよう」
「はい。ぜひ教えてください」
話しているうちに、最後の食事が運ばれてきた。
炊き込みご飯と赤だしの味噌汁、それに香の物が添えられている。ご飯にはきのこや人参が入っており、蓋を開けると優しい香りが立ち上った。
「ご主人様、こちらのご飯もおいしそうですね」
「そうだな。でも、結構お腹いっぱいになってきたな」
「私はまだ大丈夫です」
「エリーゼ、よく食べるよなあ」
「ふふっ。今日はたくさん歩きましたから」
「それはそうなんだけどさ」
和彦は笑いながら茶碗を手に取った。
最後に出された甘味まで食べ終えるころには、和彦はすっかり満腹になっていた。エリーゼも満足そうにお茶を飲み、食事処を出る際には従業員へ丁寧に礼を述べている。
「ごちそうさまでした。どのお料理も本当においしかったです」
「ありがとうございます。またぜひお越しくださいませ」
エリーゼは嬉しそうに頭を下げ、和彦の隣へ戻ってきた。
「いやあ、食べたなあ。ちょっと苦しいくらいだよ」
「ふふっ。私もお腹がいっぱいです」
「このまま部屋に戻ったら寝ちゃいそうだな」
「それでしたら、少し館内を歩いてみませんか?」
「そうだな。あ、そういえば……」
和彦は廊下の案内板を見つけ、ある文字を指さした。
「卓球場があるみたいだぞ」
「卓球、ですか?」
「ああ。小さな球を打ち合う遊びなんだけど、やってみる?」
「はい! ぜひ教えてください」
◇
卓球場は食事処から少し離れた場所にあり、中には二台の卓球台が置かれていた。
一台はほかの宿泊客が使用していたが、もう一台は空いている。和彦は受付でラケットとボールを借り、エリーゼを台の反対側へ案内した。
「これが卓球台。真ん中のネットを挟んで、小さな球を打ち合うんだよ」
「なるほど。こちらのラケットで打ち返せばよろしいのですね」
「そうそう。じゃあ、まずは軽くやってみようか」
和彦がゆっくりと球を打つと、エリーゼは慌ててラケットを振った。しかし、球はラケットの端に当たって大きく跳ね上がり、そのまま床へ落ちてしまった。
「あら……難しいですね」
「最初はそんなもんだよ。もう一回やってみよう」
何度か繰り返すうちに、エリーゼは少しずつ球を返せるようになってきた。和彦が打ち方を教えると飲み込みも早く、十分ほど練習したころには何度も打ち合いが続くようになっていた。
「おっ、うまいじゃないか。もうコツをつかんだの?」
「はい! とても楽しいです!」
「じゃあ、ちょっと試合してみるか」
「ふふっ。負けませんよ、ご主人様」
ところが、いざ試合を始めてみると、和彦はすぐに後悔することになった。
エリーゼは左右に打ち分けられた球にも素早く反応し、少し強めに打っても難なく返してくる。和彦の方は次第に息が上がり、球を追いかけるだけで精一杯になっていた。
「ちょっ、エリーゼ! うまくなりすぎじゃないか!?」
「ふふっ。ご主人様、こちらですよ!」
「うわっ!」
エリーゼの打った球が和彦の横を抜け、床に転がった。
「やった! 勝ちました!」
「はあ……参ったな。まさか負けるとは思わなかったよ」
和彦はラケットを台に置き、額の汗を拭った。対するエリーゼは少し頬を赤くしている程度で、まだまだ元気そうだった。
「ご主人様、もう一度いかがですか?」
「いや、今日は勘弁してくれ。これ以上やったら、明日動けなくなりそうだ」
「ふふっ。では、また今度ですね」
「ああ。次はもう少し練習してから挑戦するよ」
二人はラケットを返却し、卓球場をあとにした。
廊下へ出ると、先ほどまで気にならなかった涼しい空気が心地よかった。和彦は浴衣の襟元を軽く引っ張り、額の汗を手で拭う。
「いやあ、思ったより汗かいたな」
「本当ですね。私も少し暑くなってしまいました」
「温泉入ったあとに運動すると、結構汗かくもんだな」
そのとき、エリーゼが廊下の案内板へ目を向けた。
『貸切家族風呂』
矢印と一緒に書かれた文字を読んで、彼女は首を傾げる。
「ご主人様、こちらの家族風呂というのは、どのようなお風呂なのでしょうか?」
「ああ、貸切で使えるお風呂だよ。予約しておけば、ほかの人を気にせず入れるんだ」
「まあ、そうなのですね」
「家族とか夫婦で使ったりするんだよ。宿によっては追加料金が必要だったりするけど」
説明を聞いたエリーゼは少し考え、それから和彦へ顔を向けた。
「それでしたら、ご主人様。私たちも家族風呂に入りませんか?」
「……えっ?」
和彦は思わず足を止めた。
「せっかくですし、ご主人様もお疲れのご様子ですから。お背中を流して差し上げることもできますし」
「い、いやいや、ちょっと待って!」
「はい?」
「家族風呂って、その……二人で一緒に入るんだぞ?」
「ご主人様がお入りになっている間、私がお世話をしてはいけないのでしょうか?」
「お世話?」
「はい。以前のお屋敷でも、ご主人のお背中をお流しすることがありましたから。服が濡れないように気をつければ大丈夫です」
その返事に、和彦はようやく彼女の言いたいことを理解した。エリーゼは服を着たまま入浴を手伝うつもりだったらしい。一緒に湯船へ浸かるところまで想像してしまった自分が恥ずかしくなり、和彦は目を逸らした。
「……ああ、そういうことか」
「はい。ご自分では、お背中まで手が届きにくいでしょう?」
「それはそうだけど……やっぱり、ちょっと恥ずかしいかな」
「私がお手伝いするのも、ですか?」
「うん。そういうのに慣れてないんだよ」
エリーゼは意外そうに瞬きをした。和彦は浴衣姿の彼女へちらりと目を向け、すぐに視線を案内板へ戻す。服を着ていてくれるとしても、その前で自分だけ裸になるというのは落ち着かなかった。
「ええと……そうだな。もう少し、仲良くなってからにしようか」
「仲良く、ですか?」
「うん。まだ一緒に暮らし始めたばかりだしさ。そういうのは、もうちょっとお互いのことを知ってからでもいいんじゃないかな」
エリーゼはしばらく和彦を見つめていたが、やがて納得したように微笑んだ。
「そうですね。ご主人様のおっしゃるとおりかもしれません」
「そ、そう?」
「はい。私も、もっとご主人様のことを知りたいと思っていますから」
「……そっか」
「では、いつかお背中を流させていただけますか?」
「……ま、まあ、そのうちな」
「ふふっ。楽しみにしております」
何のてらいもなく微笑むエリーゼに、和彦は返事をする代わりに頭をかいた。
そんな和彦の様子を見ながら、エリーゼは少し不思議に思っていた。
ご主人様は、どうしてあんなに恥ずかしそうになさるのでしょう?
故郷では主人の入浴を手伝うことも使用人の仕事の一つだった。もちろん誰もが担当するわけではないが、特別に親しい間柄でなければならないという話は聞いたことがない。
けれど、和彦がそう望んでいるのなら、今は無理に誘わない方がいいのだろう。
それに、もっと仲良くなってからという言葉は、エリーゼにとって嬉しいものでもあった。
ご主人様も、私ともっと仲良くなりたいと思ってくださっているのですね。
そう考えると、自然に頬が緩んだ。
「ところで、ご主人様。これからどうなさいますか?」
「そうだな。結構汗かいたし、もう一回温泉に入ってから寝ようか」
「はい。私もそうしたいです」
「今度は軽く流すくらいにしよう。あんまり長湯すると、のぼせちゃうからな」
「ふふっ。気をつけます」
二人は再び浴場へ向かった。
◇
二度目の温泉から上がったころには、午後九時を少し回っていた。
今度はエリーゼも長湯をせず、体の汗を流してから湯船に少し浸かっただけだった。それでも十分に温まり、部屋へ戻る途中には眠気を感じ始めていた。
「ふあぁ……」
和彦が隣で大きなあくびをした。
「ご主人様、お眠いのですか?」
「ああ、さすがに今日は疲れたな。東照宮で歩いて、最後に卓球までやったし」
「ふふっ。とても楽しかったですね」
「そうだな。でも、明日は華厳の滝も見に行くんだから、今日は早めに寝よう」
「はい。私も楽しみです」
部屋へ戻ると、中央の座卓が隅へ移され、二組の布団が並べて敷かれていた。白い掛け布団がふっくらと膨らみ、枕もきれいに整えられている。
「まあ……お布団を用意してくださったのですね」
「ああ。そういえば、夕飯の間に敷いてくれるって言ってたな」
和彦は何気なく布団へ目を向けたが、次の瞬間、少しだけ動きを止めた。
二組の布団は、ぴったりとくっつけて敷かれていた。
部屋の広さには十分余裕があるので、離して敷くこともできたはずなのだが、旅館の従業員は二人が隣同士で眠るものと思ったらしい。
「……結構近いな」
「そうですね。これなら、お休みになる前にもお話ができますね」
「そ、そうだな」
エリーゼは特に気にした様子もなく、自分の布団へ近づいた。
「ご主人様、こちらをお使いになりますか?」
「いや、どっちでもいいよ。エリーゼが好きな方を使って」
「では、私は窓に近い方を使わせていただきますね」
「ああ、わかった」
エリーゼは枕元に荷物を置き、浴衣の裾を整えて布団へ腰を下ろした。和彦も隣の布団へ座り、スマートフォンを手に取って明日の天気を確かめる。
「おっ、明日も晴れそうだな」
「本当ですか? よかったです」
「朝ごはん食べたら、華厳の滝に行こう。そのあと湖の周りを少し歩いてもいいかもな」
「はい。楽しみです」
エリーゼは嬉しそうに答え、布団の柔らかさを確かめるように手をついた。
「ご主人様、こちらのお布団も、とても気持ちがよさそうですね」
「旅館の布団だからな。家のとはまた違うだろ」
「はい。こんなにふかふかのお布団で休めるなんて、贅沢ですね」
「今日はいっぱい歩いたし、よく眠れると思うよ」
和彦はスマートフォンを充電器につなぎ、部屋の照明を少し暗くした。
「じゃあ、そろそろ寝ようか」
「はい。おやすみなさいませ、ご主人様」
「おやすみ、エリーゼ」
二人はそれぞれ布団に入り、掛け布団を肩まで引き上げた。
窓の外には夜の中禅寺湖が広がっているはずだが、カーテンを閉めた室内は静かだった。遠くで廊下を歩く足音が聞こえたものの、やがてそれも途絶えた。
エリーゼは枕に頭を預け、今日一日の出来事を思い返していた。
初めて乗った新幹線。美しい彫刻が並ぶ神社。紅葉に染まった山々と、広い湖。そして、体の芯まで温まる温泉。
どれも素晴らしかったが、一番嬉しかったのは、そのすべてを和彦と一緒に楽しめたことだった。
明日も、きっと素敵な一日になるのでしょうね。
そう思いながら隣へ目を向けると、和彦はすでに目を閉じていた。
「……ご主人様?」
小さく呼びかけてみたが、返事はない。
しばらくすると、規則正しい寝息が聞こえてきた。
エリーゼは思わず微笑んだ。
今日は本当にお疲れだったのですね。
東照宮の石段でも随分苦しそうだったし、卓球では汗をかきながら一生懸命に球を追いかけていた。普段の和彦からは想像できないほど活動的な一日だったのだから、無理もない。
エリーゼはそっと寝返りを打ち、和彦の方へ体を向けた。
二組の布団は隙間なく並んでいるので、手を伸ばせばすぐ届きそうな距離だった。
こうして同じ部屋で休むことにも、今では不思議と緊張を感じない。初めて和彦の家に来たときには、何もかもがわからず不安だったのに、今はその隣で安心して眠ろうとしている。
「……おやすみなさい、ご主人様」
聞こえないほど小さな声で呟き、エリーゼも目を閉じた。
ところが、しばらくして和彦が寝返りを打った拍子に、二人の掛け布団が少し重なった。
エリーゼは一瞬だけ目を開けたものの、特に気にすることなく、再びまぶたを閉じる。
むしろ、近くに人の気配があることが心地よかった。
温泉で温まった体と、ふかふかの布団。朝から歩き回った疲れも手伝って、眠気はあっという間に深くなっていった。
和彦が寝返りを打ったことにも、エリーゼの手がいつの間にか布団の境目を越えていたことにも、二人は気づかなかった。
こうして日光旅行の初日は、二人とも布団に入るなり眠り込んでしまうという、実に平和な形で幕を閉じた。




