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35歳無職引きこもりの俺の家に、異世界から銀髪メイドがやってきた  作者: 春華


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6/9

日光2

 旅行当日の朝、和彦が一階へ下りると、エリーゼは朝食の準備を終えたところだった。


「おはようございます、ご主人様。今朝はお早いですね」


「おはよう。今日はちゃんとアラームで起きられたよ」


「ふふっ。私も楽しみで、いつもより早く目が覚めてしまいました」


 食卓にはトーストとスクランブルエッグ、それに温かい紅茶が並んでいた。昼は日光で何か食べようと話していたので、今朝は軽めにしてくれたらしい。和彦は椅子に腰を下ろし、湯気の立つカップを手に取った。


「荷物はもう準備できてる?」


「はい。玄関に置いてあります。ご主人様のお荷物もお持ちしましょうか?」


「いや、自分で持つよ。エリーゼにも荷物があるんだし」


「ですが、ご主人様のお世話をするのは私のお仕事ですから」


「まあ、そうなんだけどさ。今日は旅行なんだから、エリーゼも楽しんでくれればいいよ」


 エリーゼは少し考えてから、わかりましたと微笑んだ。もっとも、旅行先でも何かと世話を焼いてくれるのだろう。和彦もそれ以上は言わず、冷めないうちに朝食を食べ始めた。


 食事を終えて身支度を整えると、二人は旅行かばんを持って玄関へ向かった。靴を履いたエリーゼは扉を出たところで足を止め、庭の花壇へ目を向ける。


「帰ってきたら、お庭もきれいになっているのですね」


「ああ。予定どおりなら明日の夕方には終わってるって。花壇のことも田中さんにお願いしてあるから、心配ないよ」


「はい。帰ってから見るのも楽しみです」


 和彦が戸締まりを確かめて門を出ると、エリーゼもその隣へ並んだ。十月下旬の朝は思っていたより冷たく、歩き始めて間もなく上着のありがたさを感じる。エリーゼも先日買った上着を羽織っていたが、寒さよりこれからの旅行が気になるようで、新幹線にはどれくらい乗るのかと尋ねてきた。


 今日は東京駅から東北新幹線に乗り、宇都宮で日光線へ乗り換える予定だった。日光へ向かう経路を調べた際には東武鉄道を利用する方法も出てきたが、せっかくならエリーゼを新幹線に乗せてやりたいと思い、こちらを選んでいた。


 電車を乗り継いで東京駅に到着したのは、午前九時半を少し過ぎたころだった。


「まあ……ずいぶん大きな駅ですね」


「人も多いだろ。はぐれないように気をつけてな」


「はい。ご主人様のおそばにおります」


 旅行かばんを引く人や仕事へ向かう人たちが行き交い、頭上にはいくつもの案内表示が並んでいる。エリーゼは周囲を見回しながらも、人の流れに遅れないよう和彦について歩いていた。


 新幹線の改札へ向かう途中、弁当を売る店の前で彼女の足が少し緩んだ。和彦も視線の先を追うと、店頭には肉や魚を使ったさまざまな弁当が並んでいた。


「ご主人様、こちらのお料理は持ち帰って食べるものですか?」


「ああ、駅弁っていうんだ。旅行のときに買って、電車の中で食べたりするんだよ」


「電車の中でお食事ができるのですか?」


「新幹線なら大丈夫。昼は日光で食べるつもりだったけど、これ見たら欲しくなってきたな」


 和彦が買っていこうかと尋ねると、エリーゼは嬉しそうに頷いた。朝食を軽めにしておいたのは、結果的によかったかもしれない。


 牛肉弁当や海鮮の弁当などが並ぶ中、エリーゼは見本を一つずつ眺めていた。料理の種類が多いものに目が向くらしく、焼き魚や煮物の入った幕の内弁当を選ぶと、和彦に中身を確かめている。


「こちらは、少しずつ違うお料理が入っているのですね」


「そうだな。いろいろ食べてみるなら、それがいいかも」


「では、こちらにします。帰ってから作ってみたいものが見つかるかもしれません」


「旅行中くらい料理のことは忘れてもいいんだぞ?」


「ふふっ。でも、おいしいものを作れるようになるのは嬉しいですから」


 和彦は牛肉弁当を選び、二人分のお茶と一緒に会計を済ませた。買い物袋を受け取ると、エリーゼが自然に手を差し出してきたので、弁当だけお願いすることにした。


 改札を通ってホームへ上がると、長い車両が目の前に停まっていた。エリーゼは窓越しに車内を覗き、それからホームの先へ続く車体を見渡している。


「これが新幹線なのですね。先ほどの電車より、ずっと長く見えます」


「先頭の形も違うんだよ。もう少し時間があれば見に行けたんだけどな」


「先ほどの電車より速く走るのですよね?」


「ああ。馬車だったら何日もかかるような距離を、数時間で移動できるんじゃないかな」


 エリーゼは改めて車両を見つめたあと、少し心配そうに和彦へ顔を向けた。


「それほど速く走って、中にいる人は大丈夫なのでしょうか?」


「大丈夫だよ。乗ってみればわかるって」


 和彦は指定された車両へ向かい、エリーゼを先に乗せた。予約しておいた二人掛けの席を見つけて窓側を勧めると、彼女は礼を言って腰を下ろす。荷物を棚へ載せて隣に座るころには、発車を知らせる放送が流れ始めていた。


 列車は静かに動き出し、ホームに立つ人たちが窓の向こうへ流れていった。エリーゼは背筋を伸ばしたまま外を見ていたが、しばらくすると座席へ体を預けた。


「もっと大きく揺れるのかと思っていました」


「乗り心地いいだろ。まだこれから速くなるんだけど、座ってればそんなに気にならないよ」


「はい。椅子も柔らかくて、これなら長い時間でも座っていられそうです」


 エリーゼは窓から目を離すと、前の座席についているテーブルを不思議そうに眺めた。和彦が使い方を教えて自分の分も倒すと、彼女は大事そうに持っていた袋から弁当を取り出した。


「少し早いけど、もう食べようか。宇都宮まではそんなに長くないから」


「はい。私も、中を開けるのを楽しみにしていました」


 包みを外して蓋を取ると、仕切りの中に焼き魚や卵焼き、煮物などがきれいに収まっていた。エリーゼは見本と同じように詰められた料理を眺め、まず卵焼きに箸を伸ばす。


「……こちらの卵は甘いのですね」


「卵焼きだよ。塩味のもあるけど、弁当には甘いのが入ってることも多いな」


「お砂糖を入れているのでしょうか。柔らかくておいしいです」


「たぶんそうだと思う。作り方は調べられるから、帰ったらやってみようか」


「はい。朝ごはんにもよさそうですね」


 和彦も牛肉弁当の蓋を開け、甘辛く煮た肉をご飯と一緒に口へ運んだ。駅弁を食べるのは久しぶりだ。まだ都心の建物が続く車窓を眺めながら食べているだけで、家とはずいぶん気分が違った。


「エリーゼ、こっちの牛肉も食べてみる?」


「よろしいのですか? でしたら、私のお魚も少し召し上がってください」


 和彦が肉を取り分けると、エリーゼも焼き魚をほぐして分けてくれた。彼女は牛肉を味わってから、自分の弁当に入った煮物も食べ、同じような色をしていても味が違うのですねと感心している。


「このお野菜、おだしがよく染みていますね。家でもこういう味にできるでしょうか」


「できるんじゃないか。エリーゼが作ってくれる煮物もうまいし」


「ありがとうございます。でも、こちらのお味も覚えておきたいです」


 料理を食べながら次の献立を考えているらしいエリーゼに、和彦は笑ってお茶を渡した。彼女は礼を言って受け取ると、窓の外を見て小さく声を上げる。いつの間にか車窓には畑や田んぼが広がり、遠くには山並みが見えていた。


 食事の合間にも川や町を見つけるたびに尋ねてくるので、和彦も一緒になって外を眺めた。普段ならスマートフォンを見ているうちに通り過ぎてしまう景色だが、今日は目を向けるものがいくらでもある。


 弁当を食べ終えて容器を片づけるころ、車内放送が宇都宮への到着を案内した。


「もう着くのですね。もう少し乗っていたかったです」


「帰りも乗るから、そのときまたゆっくり見よう。忘れ物がないか確かめてな」


「はい。お弁当もおいしかったですし、あっという間でした」


 エリーゼはテーブルを戻し、足元を確かめてから立ち上がった。和彦が棚から旅行かばんを下ろす間も、名残惜しそうに窓へ目を向けていた。


 宇都宮駅で日光線へ乗り換えると、今度は田園風景の中をゆっくりと進んでいった。新幹線では通り過ぎてしまった畑や家々も、こちらならじっくり見ていられる。エリーゼは沿線の庭に咲く花まで見つけては、和彦に教えてくれた。


 日光駅に到着したのは正午を少し回ったころだった。駅舎を出ると東京より冷たい空気が頬に触れ、和彦は上着の前を合わせる。土産物店の並ぶ通りの向こうには、色づき始めた山々が見えていた。


「やっぱり東京より寒いな。上着を持ってきて正解だったろ?」


「はい。でも、空気が澄んでいて気持ちがいいですね」


 エリーゼは周囲を見渡し、街路の木々にも紅葉を見つけていた。和彦はスマートフォンでバス停の位置を確かめると、駅前の案内図を指さした。


「まずは東照宮へ行こうか。ここからバスに乗るんだけど、建物がすごく立派なんだよ」


「楽しみです。テレビで見た建物も、とてもきれいでしたね」


「実物はもっとすごいと思うよ。俺も子供のころに来たきりだから、あんまり覚えてないんだけど」


「ご主人様も、久しぶりなのですね」


「ああ。だから今日は一緒に楽しもう」


 エリーゼは嬉しそうに頷き、和彦と並んでバスの列へ向かった。


 東照宮の近くでバスを降り、参道へ入ると、背の高い杉の木が二人の頭上を覆っていた。木漏れ日の落ちる道を歩きながら、エリーゼは何度も幹の上へ視線を向けている。


「ずいぶん大きな木ですね。見上げていると、後ろに倒れてしまいそうです」


「足元も見てくれよ。人にぶつかるから」


「すみません。つい気になってしまって」


 照れたように笑うエリーゼと並んで歩き、拝観券を購入して境内へ進んだ。色鮮やかな建物が見えてくると、彼女は思わず足を止めた。


「……なんて美しいのでしょう」


 柱や梁には細かな彫刻が施され、屋根の下には金色の装飾が輝いている。エリーゼは少し進んでは立ち止まり、今度は別の場所を見上げていた。


「ご主人様、あちらにも動物の彫刻があります」


「本当だ。よく見つけたな」


「こちらにもありますよ。あっ、あの柱の上にも!」


「そんなに上ばっかり見てると、転ぶぞ」


「ふふっ。気をつけます」


 そう答えながらも、エリーゼの視線はすぐに建物へ戻ってしまう。和彦は苦笑しつつ、その隣で同じように彫刻を眺めた。子供のころにも見たはずなのだが、こんなに細かな飾りがあったことは覚えていない。


「私がいた国にも立派な神殿はありましたけれど、これほど細かな飾りのある建物は初めて見ました」


「エリーゼの国の神殿って、どんな感じだったの?」


「白い石で造られたものが多かったですね。大きな柱が並んでいて、神様の彫像が飾られていました」


「へえ。なんだかギリシャの神殿みたいだな」


「ギリシャ、ですか?」


「ああ、こっちの世界にある国なんだけどさ。今度写真を見せるよ」


「はい。ぜひお願いします」


 エリーゼは楽しそうに微笑むと、再び建物へ目を向けた。和彦も彼女につられて見上げたが、どこを見ればいいのかわからないほど彫刻が多い。


「そういえば、エリーゼはこういう場所に来たことあるの?」


「いいえ。お屋敷の近くに小さな神殿はありましたけれど、王都の大きな神殿には行ったことがありません。ですから、昨日からずっと楽しみにしていたんです」


 そう言って微笑むエリーゼを見て、和彦は連れてきてよかったと思った。もっとも、彼自身も旅行など何年ぶりかわからない。両親が亡くなってからは、遠出する理由も特になかったのだ。


「せっかくだし、写真でも撮ろうか。エリーゼ、そっちに立ってみて」


「はい。こちらでよろしいでしょうか?」


「ああ。そのまま……もう少し笑ってくれるといいかな」


 エリーゼは少し困った顔をしたあと、和彦の方を見て微笑んだ。何枚か撮って画面を見せると、背後の装飾まで細かく写っていることに感心している。


「帰ったら印刷しようか。旅行の記念になるしな」


「ありがとうございます。お部屋に飾ってもよろしいですか?」


「もちろん。気に入った写真を選ぼう」


「でしたら、ご主人様のお写真も撮りたいです」


「えっ、俺の?」


「はい。私のお写真ばかりでは、ご主人様が一緒にいらしたことがわかりませんから」


 言われてみればそのとおりだった。和彦はスマートフォンを渡し、エリーゼに簡単な撮影方法を教える。彼女は画面を確かめながら慎重に構えたが、なかなか撮影ボタンを押そうとしない。


「どうした?」


「ご主人様、もう少し右へ……あっ、行き過ぎです。少し左へお願いします」


「注文が細かいなあ」


「せっかくですから、きれいに撮りたいんです」


 何度か立ち位置を直したあと、ようやく撮影が終わった。画面を見せてもらうと、和彦の後ろには建物がきれいに収まっている。


「おっ、うまく撮れてるじゃないか」


「本当ですか? よかったです」


「ありがとう。これも印刷しよう」


 エリーゼは嬉しそうに頷き、スマートフォンを和彦へ返した。


 その後も二人は境内を見て回った。三匹の猿が並ぶ彫刻の前では、エリーゼがそれぞれの仕草を面白がり、和彦も一緒になって眺めていた。


「こちらのお猿さんは、みんな違うところを隠しているのですね」


「ああ。目と口と耳だな」


「ふふっ。真ん中のお猿さん、何か言いたそうなお顔をしています」


「口を押さえてるのにな」


「きっと、お隣のお猿さんに何か伝えたいのでしょうね」


 そんなことを話しながら写真を撮り、次の建物へ向かう。途中でエリーゼが小さな彫刻を見つけるたびに足を止めるので、和彦も急がずについていった。


 眠り猫を見たあとに奥宮へ向かう石段を上り始めると、今度は和彦の方が足を遅らせた。初めのうちはエリーゼと話していたが、段数が増えるにつれて返事が短くなり、とうとう途中で立ち止まる。


「はあ……思ってたよりきついな」


「少しお休みになりましょうか?」


「うん。ちょっとだけ……エリーゼ、平気なの?」


「はい。このくらいでしたら」


 息も乱さず答えるエリーゼに、和彦は手すりに手をついたまま苦笑した。普段から家の中を動き回っている彼女と、一日の大半を座って過ごしていた自分では、ずいぶん差があるらしい。


「帰ったら、もう少し歩くようにしないとな」


「では、私もご一緒してよろしいですか?」


「そりゃ、エリーゼが一緒の方が続くと思う」


「ふふっ。お買い物の帰りに、少し遠回りしてみましょうか」


「そうだな。でも、毎日こんな階段を上るのは勘弁してくれよ」


「大丈夫ですよ。ご主人様のお体に合わせますから」


「それ、なんだか年寄り扱いされてるみたいだな」


「そ、そんなつもりではありません!」


 慌てて否定するエリーゼがおかしくて、和彦は声を出して笑った。少し休んだおかげで息も整い、残りの石段を上り始める。


 奥宮を見学して戻ってくるころには、和彦の足もだいぶ重くなっていた。エリーゼは相変わらず元気そうだったが、下りの石段では和彦の歩調に合わせてゆっくり歩いてくれた。


「ご主人様、明日は筋肉痛になってしまうかもしれませんね」


「いや、明日来るならまだいいよ。明後日になってから痛くなったら嫌だな」


「どうして明後日なのですか?」


「年を取ると筋肉痛が遅れて来るって聞いたことがあってさ」


「まあ、そうなのですね」


「いや、そんなに納得されると困るんだけど」


 エリーゼが不思議そうに首を傾げたので、和彦は苦笑しながら歩き続けた。


 東照宮を出たころには、午後三時近くになっていた。


「結構ゆっくり見たな。そろそろ宿の方へ向かおうか」


「はい。連れてきてくださって、ありがとうございました。あんなに美しい建物を見られるなんて」


「この先の景色も楽しめると思うよ。中禅寺湖まで山を上っていくから、途中の紅葉もよく見えるんじゃないかな」


 バス停へ向かうと、中禅寺湖方面を目指す人たちが列を作っていた。やってきたバスにはすでに乗客が多かったが、降りる人と入れ替わりに乗り込むと、二人並んで座ることができた。


 市街地を離れるにつれて窓の外に木々が増え、やがて道は山の斜面を上り始めた。カーブを曲がるたびに見える景色が変わり、エリーゼは窓へ顔を向けたまま和彦の袖をそっと引く。


「ご主人様、あちらをご覧ください。山の上まで色が変わっています」


「ああ、すごいな。近くで見るのとはまた違うな」


「黄色いところも、赤いところもあるのですね。あんなに遠くまで続いているなんて……」


 木々の間から山肌が開けると、車内のあちこちでも声が上がった。エリーゼも景色が隠れるまで目で追い、次のカーブでまた窓の向こうを探している。


 和彦も一緒に眺めていたが、曲がりくねった道を進むうちに、ふと子供のころを思い出した。


「そういえば、俺、昔ここで車酔いしたんだよな」


「車酔い、ですか?」


「ああ。親に連れてきてもらったんだけど、途中から気持ち悪くなっちゃってさ。母親に背中をさすってもらったのを覚えてる」


「それは大変でしたね。今は大丈夫ですか?」


「今のところ平気。あのころは背が低くて、外もあんまり見えなかったんだよな」


 当時のことは断片的にしか覚えていないが、車を降りたときの冷たい空気と、母親が渡してくれた飲み物のことは妙にはっきりしていた。景色を楽しむ余裕などなかったので、こうして紅葉を見ながら通るのは初めてのようなものだ。


「ご主人様は、ご両親とよく旅行に行かれていたのですか?」


「そうだな。小さいころは結構いろんなところに連れていってもらったよ。でも、大きくなってからはあんまり行かなかったな」


「そうだったのですね」


「だから、こうやって旅行するのも本当に久しぶりなんだ」


 エリーゼは少し考えるように窓の外へ目を向け、それから和彦へ微笑んだ。


「では、これからは私もご一緒させてくださいね」


「……ああ。そうだな」


 何気なく言われた言葉だったが、和彦は少し嬉しくなった。今までは旅行に出かけようと思うことさえなかったのに、エリーゼと一緒なら、ほかの場所にも行ってみたいと思える。


「次はどこに行こうかな。海なんかもいいかもしれないな」


「海ですか? 私、海は見たことがありません」


「えっ、そうなの?」


「はい。お屋敷は海から遠いところにありましたので」


「じゃあ、今度は海を見に行こうか。砂浜を歩いたり、船に乗ったりするのもいいな」


「まあ、船にも乗れるのですか?」


「ああ。いろいろあるよ。楽しみにしてて」


「はい!」


 エリーゼは嬉しそうに頷くと、再び窓の外へ目を向けた。和彦も背もたれに体を預け、紅葉に染まった山々を眺めながら、次の旅行はどこにしようかと考えていた。


 いろは坂を上り終え、建物の間に水面が見えたとき、エリーゼが声を弾ませた。


「あっ、ご主人様。湖です!」


「ああ。やっと着いたな」


「テレビで見たところですね。向こう岸まで、ずいぶん遠く見えます」


 バスが進むにつれて湖が大きく開け、周囲の山々も見渡せるようになった。エリーゼは湖岸の木々や水面を指さし、和彦も身を寄せて窓の外を見る。テレビを見ながら旅行を決めたときには、こんなふうに二人で眺めることになるとは、まだ実感が湧いていなかった。


 バスを降りると、山の冷たい風が吹きつけた。和彦は思わず首をすくめ、上着の襟元を押さえる。


「うわ、寒いな。日光駅よりずっと寒い」


「本当ですね。風が吹くと、頬まで冷たくなります」


「宿に行く前に少しだけ見ていこうか。あんまり冷えないうちに」


 湖畔へ出ると、水面には細かな波が立ち、風のたびに岸へ寄せていた。山の斜面には傾きかけた日が当たり、木々の色がバスの中から見たときより鮮やかに見える。エリーゼはかばんを持ったまま立ち止まり、しばらくその景色に見入っていた。


「……本当にきれいですね」


「そうだな。来てよかったよ」


「はい。こんなに美しい景色を見られるなんて、夢にも思いませんでした」


 和彦は湖を背景に彼女の写真を撮り、それから近くにいた観光客へ声をかけた。快く引き受けてもらえたので、エリーゼの隣へ並んで立つ。撮影が終わってスマートフォンを受け取ると、二人で礼を言って画面を覗き込んだ。


「ちゃんと撮れてるな。湖もよく見える」


「はい。二人で写っているお写真も、飾りたいです」


「……俺、もう少し笑えばよかったかな」


 画面の中の自分は、エリーゼに比べるとずいぶんぎこちなかった。普段から写真を撮られることに慣れていないせいか、口元に力が入っている。


「そんなことありませんよ。とても優しいお顔をされています」


「そ、そうか?」


「はい。私はこのお写真が好きです」


 そう言われると、撮り直そうかという言葉は出てこなかった。和彦はもう一度写真を見てからスマートフォンをしまい、かばんを持ち直した。


「じゃあ、これも印刷しよう。そろそろ宿に行くか」


「はい。温泉も楽しみです」


 二人は湖畔の道を歩き始めた。土産物店の前では帰りのバスを待つ人たちが荷物を整理し、旅館へ向かうらしい人たちがその横を通り過ぎていく。和彦も宿の場所を確かめながら歩いていると、ほどなく予約した旅館の看板が見えてきた。


 落ち着いた色合いの建物は周囲の木々になじみ、玄関脇の小さな庭には赤く色づいたモミジが植えられていた。エリーゼは立ち止まって建物を見上げ、それから和彦へ顔を向ける。


「こちらに泊まるのですか?」


「ああ。写真で見たより立派だな」


「はい。玄関のお庭も、とてもきれいです」


 門から玄関へ続く道にも落ち葉はほとんどなく、庭木も形よく整えられていた。帰ったら自宅の庭もこんなふうになっているだろうかと思いながら、和彦はエリーゼと一緒に玄関をくぐった。


「いらっしゃいませ。ようこそお越しくださいました」


 出迎えてくれた従業員に案内され、フロントでチェックインの手続きを済ませた。宿泊者の名前などを記入している間、エリーゼは隣で館内を眺めていたが、夕食の説明が始まると真剣な顔で耳を傾けている。


「ご夕食は午後六時半から、お食事処でご用意しております。お部屋までご案内いたしますので、こちらへどうぞ」


 従業員が荷物へ手を伸ばすと、エリーゼは慌てて一歩前へ出た。


「あっ、お荷物でしたら私が……」


「どうぞお任せください」


 にこやかに答えられ、エリーゼは差し出しかけた手を引っ込めた。困ったように和彦を見上げるので、彼も笑って頷く。


「お願いしておこう。エリーゼも今日は泊まりに来たんだから」


「そ、そうでしたね。ありがとうございます。よろしくお願いいたします」


 エリーゼは従業員へ丁寧に頭を下げてから、和彦について歩き始めた。自分の荷物まで運んでもらうのが落ち着かないらしく、廊下を進む間も旅行かばんへちらちらと目を向けていた。


 案内された部屋へ入り、靴を脱いで上がると、窓の向こうに中禅寺湖が広がっていた。


「まあ……!」


 エリーゼは畳の上を進み、窓際で足を止めた。和彦も隣に立つと、先ほど歩いてきた湖畔より高い位置から水面を見渡せた。向こうの山にはまだ日が当たり、湖岸に並ぶ木々の間には建物の屋根が見えている。


「すごいな。ここからだと、こんなに見えるのか」


「はい。お部屋にいながら眺められるのですね」


 従業員は荷物を置き、浴衣や浴場の場所について説明してくれた。夕食の間に布団を敷くと聞き、和彦は窓から部屋の中へ視線を戻す。今は座卓が置かれているこの辺りで、今夜はエリーゼと眠ることになるのだ。


 予約するときにもわかっていたことなのに、実際に部屋へ入ると妙に意識してしまった。隣のエリーゼは浴場までの行き方を聞いており、こちらは少しも気にしていないらしい。


 従業員が一礼して退出すると、和彦は座布団へ腰を下ろした。朝から乗り物を乗り継ぎ、東照宮でも歩き回ったので、座った途端に足の疲れを感じた。


「ふう……無事に着いたな」


「はい。ご主人様、今日は本当にありがとうございました」


「いや、まだ終わってないって。これから温泉も夕飯もあるんだから」


「ふふっ、そうでしたね。どこも楽しかったので、つい」


 エリーゼも向かいに座り、卓上の茶器へ目を向けた。さっそくお茶を入れようとするので、和彦は自分で急須を手に取る。


「たまには俺がやるよ。ずっと座ってたら、そのまま動けなくなりそうだし」


「それほどお疲れなのですか?」


「いや、そこまでじゃないけど。足には結構きてるな」


「石段もたくさん上りましたものね」


 エリーゼは湯飲みを二つ並べ、和彦が注ぎやすいよう手元へ寄せた。結局手伝ってもらっている気がしたが、二人分のお茶を入れるくらいは何とかできた。


 湯飲みを手に窓際の椅子へ移ると、エリーゼも隣へ腰を下ろした。湖の上には先ほどより長く山の影が伸び、日の当たる場所だけが明るく光っている。和彦はお茶を一口飲み、ようやくゆっくり息をついた。


「朝からいろいろ見たな。疲れてない?」


「はい。新幹線も神社も、初めて見るものばかりで……帰ってからも、何度も思い出してしまいそうです」


「写真も結構撮ったしな。あとで一緒に見ようか」


「はい。ご主人様は、どちらが一番楽しかったですか?」


「そうだな……駅弁食べたのもよかったし、ここまで来る途中の紅葉もすごかったな」


 どれか一つを選ぼうとすると、意外に迷った。東照宮でエリーゼが足を止めるたびに一緒に見上げていたことや、湖で写真を撮ってもらったことまで思い浮かび、和彦は湯飲みを持ったまま笑った。


「一番って言われると難しいな。エリーゼは?」


「私も選べません。まだお話ししたいことがたくさんあります」


「じゃあ、夕飯食べながら続きを聞こうかな」


「はい。ぜひ聞いてください」


 しばらく並んで湖を眺めていると、外を歩いていたときの冷えも和らいできた。和彦は空になった湯飲みを置き、部屋の時計へ目を向ける。夕食まではまだ時間があるので、先に風呂へ入ればゆっくりできそうだった。


「そろそろ温泉に行こうか。歩いた分、気持ちよさそうだし」


「はい。私も楽しみにしておりました」


 エリーゼは立ち上がると、部屋の隅に用意されていた浴衣へ目を向けた。


「ご主人様、こちらに着替えてから伺うのでしょうか?」


「ああ。浴衣っていうんだ。館内はそれで歩いていいって言ってたな」


「帯で留めるのですね。どのように着ればよろしいのでしょう?」


「ええと、まずはこうやって羽織って……」


 和彦は自分の浴衣を広げ、服の上から羽織って見せた。左右の重ね方と帯の結び方を説明すると、エリーゼも同じように試してみる。


「なるほど。思っていたより簡単なのですね」


「まあ、慣れればね。じゃあ、着替えようか」


「はい。お手伝いいたしますね」


「いやいや、自分で着られるから!」


 当然のように近づいてきたエリーゼを慌てて止めると、彼女は不思議そうに首を傾げた。


「ですが、ご主人様のお着替えをお手伝いするのも、メイドの仕事ですから」


「それはわかってるけど、さすがに恥ずかしいって。お互い後ろを向いて着替えよう」


「ふふっ、わかりました」


 二人は部屋の反対側を向き、それぞれ着替え始めた。背後から衣擦れの音が聞こえてくるので、和彦はなるべく気にしないようにしながら浴衣に袖を通す。


「ご主人様、こちらの帯は、どのくらいきつく締めればよろしいのでしょう?」


「普通に結んで、落ちなければ大丈夫だよ。苦しくならない程度で」


「わかりました。ありがとうございます」


 和彦が帯を結び終えるころ、背後からも着替えが終わったという声が聞こえてきた。


「ご主人様、もう振り向いてもよろしいですか?」


「ああ、俺も終わったよ」


 振り返ると、浴衣姿のエリーゼが立っていた。先ほどまで着ていた洋服とはずいぶん印象が違い、和彦は思わず彼女を見つめてしまう。


「……うん、似合ってるよ」


「本当ですか? ありがとうございます」


 嬉しそうに微笑んだエリーゼは、自分の袖を少し持ち上げて眺めてから、和彦にも目を向けた。


「ご主人様も、とてもよくお似合いです」


「そうかな。俺は普通だと思うけど」


「いいえ。いつもとは雰囲気が違って、素敵ですよ」


「……そ、そうか。ありがとう」


 面と向かって褒められることに慣れていない和彦は、照れ隠しにタオルを手に取った。


「じゃあ、行こうか。男湯と女湯で分かれてるから、上がったら入口の前で待ち合わせよう」


「はい。どちらでお待ちすればよろしいでしょうか?」


「さっき案内してもらったとき、浴場の前にマッサージチェアがあっただろ? あそこでどうかな」


「マッサージチェア、ですか?」


「ああ。座ると機械が肩とか背中を揉んでくれるんだよ」


「まあ、そのような椅子があるのですか?」


「そう。今日みたいに歩き回った日にはちょうどいいかもな」


「ふふっ。それでしたら、ご主人様にぴったりですね」


「まったくだよ。じゃあ、先に上がった方がそこで待ってるってことで」


「はい。わかりました」


 二人はタオルを持って部屋を出ると、並んで廊下を歩き始めた。エリーゼは浴衣の裾が気になるようで、時折足元へ目を向けていたが、歩きにくいかと尋ねると大丈夫ですと笑って答えた。


 浴場へ続く廊下には温泉の案内が掲げられ、奥からは湯上がりらしい宿泊客が歩いてきた。やがて男湯と女湯の暖簾が見えてくると、その手前には先ほど話していたマッサージチェアが数台並んでいる。


「ああ、これだよ。ここで待ってよう」


「思っていたより大きな椅子なのですね」


「結構気持ちいいんだよ。あとで試してみる?」


「はい。ぜひ座ってみたいです」


 エリーゼは興味深そうに椅子を眺めていたが、和彦が浴場の方へ歩き始めると、その隣へ戻ってきた。


「じゃあ、ここで別々だな。ゆっくり入っておいで」


「はい。ご主人様も、どうぞごゆっくりなさってください」


 エリーゼは笑顔で頷き、女湯の暖簾をくぐっていった。和彦も男湯へ向かいながら、先ほどの浴衣姿を思い出す。


 普段のメイド服も似合っているが、浴衣もなかなかいいものだ。そんなことを考えている自分に気づき、和彦は小さく苦笑した。

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