冬の日常
十二月に入り、東京にも本格的な冬がやってきた。
日光へ旅行に出かけてから一か月以上が過ぎ、あのとき山々を染めていた紅葉もすっかり終わっていた。近所の街路樹に葉はわずかしか残っておらず、外へ出るときには厚手の上着が欠かせなくなっている。
佐藤和彦の家でも季節の変化は庭を見ればよくわかった。
造園業の田中たちが手入れをしてくれた庭は、以前とは見違えるほどすっきりと手入れされている。伸び放題だった枝は剪定され、雑草に埋もれていた通路も端まで見渡せる。エリーゼと作った花壇ではネモフィラの小さな芽が育ち、その隣には『エリーゼ』という名前のバラが植わっている。
エリーゼは寒くなってからも毎朝庭へ出ている。土の乾き具合を確かめて必要なときだけ水をやり、落ち葉を拾いながら花壇の様子を見ている。和彦が朝食の席につくころには、たいてい一通りの世話が終わっていた。
一方、その和彦はというとリビングのソファで毛布にくるまっていた。
「……ああ、暖かい。こうなるともう外に出る気がしないな」
エアコンの設定温度は二十三度。暖かい空気が届きにくい足元には小型の電気ヒーターも置かれている。テレビでは情報番組が流れていたが、和彦はときどき顔を上げる程度でほとんどはスマートフォンのゲームに目を向けていた。
時計は午前十一時を少し回ったところだ。
以前なら寝室で眠っていることも珍しくなかったが、エリーゼと暮らし始めてからは午前九時前後に起きる日が増えた。朝食ができていると声をかけられれば、もう少し寝たいと思いながらも起きる気になる。
もっとも早く起きた分だけ何かをするようになったわけではない。食事を済ませればソファへ移り、ゲームをしたり動画を見たりして過ごしている。昼食のあとに眠くなれば昼寝もするので、無職生活そのものは相変わらずだった。
「ご主人様、お茶のおかわりはいかがですか? そろそろ冷めてしまったのではありませんか」
「ああ、お願いしようかな。さっきからゲームばっかりで飲むの忘れてたよ」
「では、温かいものをお持ちしますね。少しお待ちください」
台所から戻ってきたエリーゼはテーブルへ新しいティーカップを置いた。いつもの黒と白のメイド服に厚手のタイツを合わせ、長い銀髪を背中へ流している。家の中が暖かいせいもあって冬になっても服装はそれほど変わっていない。
和彦は体を起こして礼を言い、カップを手に取った。その向かいでエリーゼが空いた菓子皿へ手を伸ばしかけ、不意に動きを止める。
「……あっ」
「ん? どうかした? 何か落とした?」
「いえ、何でもありません。お皿を下げますね」
いつものように微笑んだものの、彼女は皿を持つ前に指を軽く曲げ伸ばししていた。手が冷えたのだろうかと思い、和彦は紅茶を飲みながら尋ねた。
「寒いならもうちょっと暖房上げようか。俺ばっかり毛布使ってるし」
「ありがとうございます。でも、お部屋は十分暖かいですよ。少し指先が冷えただけですから」
エリーゼはそう答えて台所へ戻っていった。和彦もそれ以上は気に留めずゲームを再開したが、しばらくするとまた彼女の手が目に入った。
洗い物を終えたエリーゼは窓際の棚を拭いていた。置物を持ち上げて布巾を動かしていたものの、途中で手を止めて指先へ息を吹きかけている。先ほどと同じように何度か指を動かしてからようやく掃除を続けた。
「エリーゼ、ちょっとこっちへ来てくれる?」
「はい。どうなさいましたか、ご主人様」
「さっきもやってたけど手、どうかした? 冷たいだけならいいんだけど、何だか痛そうに見えるんだよね」
エリーゼは布巾を置き、近づきながら自分の手へ目を落とした。
「少し荒れてしまったようで……。冬にはよくあることですから、気になさらないでください」
「いや、そう言われると余計に気になるよ。ちょっと見せてもらってもいい?」
和彦が手を差し出すとエリーゼはためらいながら右手を重ねた。その指先を見て、和彦は思わず眉を寄せる。
爪の周りは赤くなり、指の関節には細かなひび割れができていた。親指の付け根も白く乾燥して皮膚のめくれたところがある。左手も見せてもらうと、そちらには右手より目立つ亀裂があった。
「これ、結構痛いんじゃない? さっき皿を持つのやめたのもこのせい?」
「少し引っ張られる感じがしたものですから。水を使うとしみることもありますけれど、持てないほどではありませんよ」
「持てるかどうかの話じゃなくてさ……。いつからこんなになってたの?」
「手が荒れ始めたのは二週間ほど前でしょうか。最初は少し乾燥しているくらいだったのですが」
「二週間も前? それならもっと早く言ってくれればよかったのに」
声が大きくなったせいかエリーゼは少し肩をすくめた。和彦は慌てて彼女の手を離し、言葉を継いだ。
「ああ、ごめん。怒ってるわけじゃないよ。ただ、ずっと痛かったんだと思うとさ」
「申し訳ありません。故郷でも冬は手が荒れていましたから、このくらいなら平気だと思っていたんです」
「そっか。でも、水を使うたびにしみるのは嫌だろ。洗い物のときにゴム手袋とか使ってる?」
「いいえ。お皿はいつもこのまま洗っています」
「……そうだよな。そもそも買ってなかったもんな」
和彦は自分の手へ目を落とした。少し乾燥してはいるがひび割れは一つもない。
エリーゼは朝から食事を作り、食器を洗い、掃除や洗濯をしている。最近では庭の世話まで毎日の習慣になっていた。その間、自分は暖かい部屋でゲームをしているのだから手が荒れるはずもなかった。
毎日きれいになっている家も食卓に並ぶ料理も、エリーゼがやってくれたことだとはわかっていた。けれど、そのためにどれだけ手を動かしているかまでは考えたことがなかった。
「今日はもう水仕事はやめておこう。洗い物も掃除も、いったん終わりにしようよ」
「ですが、お昼の支度もありますし、まだ二階のお掃除が……」
「昼は出前にすればいいし、二階も一日掃除しなかったくらいじゃ困らないよ。俺一人だったころなんてもっとひどかったんだから」
「それはそうかもしれませんけれど……」
困った顔をしていたエリーゼが口元に手を添えて笑った。和彦もつられて笑い、それから改めて彼女の手を見た。
「とにかく今日は休んでて。痛いまま続けて、もっとひどくなったら困るだろ」
「……わかりました。では、今日だけお言葉に甘えさせていただきますね」
「今日だけじゃなくてもいいんだけど。まあそういうことで」
エリーゼがソファへ腰を下ろしたのを見届けてから、和彦は収納棚を調べに行った。
◇
リビングの棚には絆創膏と体温計があり、洗面所の収納には買い置きの石鹸や洗剤が並んでいた。ところが目当てのハンドクリームはどこにも見当たらない。
母親が冬になると手に塗っていたことは覚えているが、自分で買った記憶はなかった。洗面所の棚を閉めて和彦はリビングへ戻った。
エリーゼは先ほど座った場所で膝の上に手を重ねていた。何もせずにいるのが落ち着かないのか、台所の方を気にしている。
「ちょっと買い物に行ってくるよ。手に塗るクリームと洗い物用の手袋を買ってこようと思って」
「私のために、わざわざお出かけになるのですか? それでしたら私もご一緒いたします」
「近所の店だからすぐ戻るよ。エリーゼはテレビでも見て待ってて。お菓子も残ってるし、好きに食べていいからさ」
「ですが、ご主人様がお買い物をなさっている間に私だけくつろいでいるのは……」
「俺がいつもやってることだよ。今日は交代ってことで頼むよ」
エリーゼは何か言いたそうにしていたが、やがて小さく頷いた。
「では、お待ちしております。外は寒いですから暖かくしてお出かけくださいね」
「うん。上着を取ってくるよ」
二階で厚手の上着を羽織り、財布とスマートフォンを持って玄関を出る。途端に冷たい風が頬へ当たり、和彦は首をすくめた。
「うわ、寒っ……。家の中と全然違うな」
ポケットへ手を入れながら庭を見ると、花壇の周りにはほとんど落ち葉がなかった。風が吹くたびに庭木から葉が落ちているのに通路まできれいになっている。
エリーゼは朝のもっと寒い時間に、ここを掃除していたのだ。
今朝も食卓で庭の様子を話してくれていたが、自分はパンを食べながら相槌を打っただけだった。和彦はしばらく花壇を眺めてから門を出た。
◇
ドラッグストアのハンドクリーム売り場で、和彦は早くも足を止めていた。
「……こんなに種類あるのか。違いが全然分からん」
チューブに入ったものもあれば丸い容器のものもあり、値段にもずいぶん差がある。香りや使い心地を説明する文字を読んでも、自分には何がいいのか見当がつかない。
何本か手に取っては棚へ戻し、結局近くにいた店員へ声をかけることにした。
「すみません。手が荒れて指先が割れてるときに使えるものを探してるんですけど、相談してもいいですか?」
「はい。こちらへどうぞ。お使いになるのはお客様ですか?」
「あ、いえ。一緒に住んでる人です。水仕事が多くて、最近は洗い物のときにしみるみたいなんです」
売り場の担当者へ案内され、赤みやひび割れの様子を伝える。和彦は話しながら自分がエリーゼの手をほんの少ししか見ていなかったことに気づいた。どの指が一番痛いのかも、昨夜は眠れていたのかも聞いていない。
担当者は商品の表示を見せながら説明し、症状が強い場合には皮膚科で相談するよう勧めた。和彦は頷いて選んでもらったクリームをかごへ入れた。
「あと、水仕事用の手袋も欲しいんです。今まで素手で全部やってたみたいなので」
「それでしたらこちらにございます。サイズもいくつかありますので、ご確認ください」
売り場で大きさを比べて内側が柔らかなものを選ぶ。近くには冬用の作業手袋もあったので、庭仕事に使えそうなものも一緒に買うことにした。
その先の棚では温泉の写真が載った入浴剤の箱が目に留まった。
日光から帰ったあともエリーゼは何度か露天風呂の話をしていた。家のお風呂も気に入っているようだったが、紅葉を眺めながら湯に浸かった時間は特別だったらしい。
「これもあったら喜ぶかな」
箱を手に取って少し考え、かごへ入れた。
買い物を終えて外へ出ると先ほどより風が強くなっていた。和彦は上着の襟を引き寄せながら、エリーゼが庭へ出るときの格好を思い浮かべた。
上着は羽織っていたが首元は寒そうだった。今買った作業手袋があれば指先は守れるだろうが、それだけでは足りない気がする。
駅前の衣料品店まではここから少し歩けば着く。和彦は帰り道を曲がり、そちらへ向かった。
店の入口近くには防寒用品がまとめて並んでいた。マフラーの棚の前に立つと、今度は色と柄で迷うことになった。
エリーゼが普段着ているのは黒と白のメイド服だ。以前買った紺色のワンピースにも合わせるなら、あまり派手な柄は避けた方がいいのだろうか。そう考えながら何枚か触り、淡い水色のものを手に取った。
「これなら似合いそうだな」
柔らかく、頬に触れても気持ちがよさそうだった。鏡の前で広げてみたものの自分に当てても参考にならない。和彦は少し苦笑してマフラーを腕へかけた。
隣の棚には耳当てもあった。白いふわふわしたものを手に取り、エリーゼがつけた姿を想像する。銀髪と色が近いのが気になって薄いピンクとも比べたが、しばらく迷った末に白を選んだ。
会計のときに贈り物かと聞かれ、和彦は少し照れながら頷いた。
「そうですね。あまり大げさじゃなくていいんですけど、袋に入れてもらえますか」
「かしこまりました。お値札を外してお包みしますね」
店員が用意してくれるのを待ちながら、和彦はもう一度マフラーへ目を向けた。
女性が身につけるものをこれほど考えて選んだのは初めてかもしれない。母親の誕生日に贈り物をしたことはあったが、そのときは父親についていき、勧められた品に頷いていた気がする。
似合うと思って買ったものの本人が気に入るかはわからない。渡すときには少し緊張しそうだった。
◇
「ただいま。ちょっと遅くなっちゃったな」
「お帰りなさいませ、ご主人様。お寒かったでしょう。すぐにお茶をお淹れしますね」
玄関まで来てくれたエリーゼへ和彦は買い物袋を持ち上げてみせた。
「お茶はあとでいいよ。いろいろ買ってきたから、先にこっちを見てもらおうかな」
「いろいろ、ですか? 随分たくさんございますね」
リビングへ戻り、二人でソファに腰を下ろす。和彦はまずクリームを取り出して箱の説明をエリーゼにも見せた。
「手に塗って乾燥を防ぐものだよ。すぐにひび割れがなくなるわけじゃないけど、しばらく使ってみよう」
「ありがとうございます。私のために探してきてくださったのですね」
「店の人に聞いたんだけどね。どれがいいのか全然わからなくて、棚の前で困っちゃったよ」
和彦が苦笑するとエリーゼも箱を眺めながら微笑んだ。使い方を確かめて蓋を開け、彼女の手へ少量を出す。
エリーゼは指先をいたわるようにゆっくりとクリームを伸ばしていった。乾燥した肌になじむ感触が珍しいのか、手の甲をそっとなでている。
「思っていたよりするすると伸びるのですね。べたべたしたままになるのかと思いました」
「それだと何も触れなくなっちゃうもんな。痛むところがひどくなったり、よくならなかったりしたら病院でも相談しよう」
「はい。そのときはきちんとお伝えしますね」
続いてゴム手袋を渡し、サイズを確かめてもらった。指先には少し余裕があったが、手を開いたり握ったりしても抜けそうにはならない。
「これなら使えそうです。最初は少し気をつけないと、お皿を落としてしまうかもしれませんけれど」
「慣れるまではゆっくりでいいよ。あと、庭ではこっちを使って。今までの手袋より暖かいと思う」
作業手袋も並べると、エリーゼは二つを見比べてから和彦へ顔を向けた。
「お家の中のことだけでなく、お庭のことまで考えてくださったのですね。こんなに揃えていただいて……何とお礼を申し上げればいいのか」
「そこまで言わなくてもいいって。買いに行くのが遅かったくらいなんだから」
感謝されるほど落ち着かなくなり、和彦は残りの袋を引き寄せた。
「それと、これは外に出るとき用。気に入るかどうかちょっと自信ないんだけど」
渡された袋を開いたエリーゼは水色の生地が見えると手を止めた。両手でそっと取り出し、膝の上に広げる。
「まあ……きれいな色。こちらも私にくださるのですか?」
「うん。朝、庭に出るとき寒そうだったから。もう少し落ち着いた色の方がいいかとも思ったんだけど、それが似合いそうでさ」
「とても好きな色です。それに、こんなに柔らかいなんて……」
エリーゼは端を指でなぞり、少し持ち上げて頬へ触れさせた。和彦はその様子を見てようやく肩の力が抜けた。
「よかった。あと、耳当てもあるんだ。こっちは白にしてみた」
「耳当てというと耳を覆うものですか? 故郷では使ったことがありません」
「そうそう。耳が冷たいと結構つらいからね。ちょっとつけてみてくれる?」
エリーゼは説明を聞きながら両耳へ当てた。少し位置がずれていたので和彦が後ろへ回って直す。挟まっていた髪をそっと外すと、彼女がくすぐったそうに肩を動かした。
「ごめん、引っ張っちゃった?」
「いいえ、大丈夫です。すぐ近くにいらっしゃるので少し落ち着かなくて」
「ああ……うん。もう終わったよ」
和彦は慌てて手を離した。エリーゼは耳当てに触れ、こちらを見上げている。
「本当に暖かいです。外へ出ても耳に風が当たらなくなるのですね」
「うん。マフラーも巻いたらもっと暖かいと思うよ」
「では、こちらも試してみます。……あら、少し長くなってしまいました」
首へかけたまま両端を持つエリーゼに頼まれ、和彦は片側を軽く一周させた。苦しくないか確かめながら形を整えると、黒いメイド服の胸元に淡い水色が重なる。
エリーゼは窓ガラスに映った姿をのぞき込み、顔を少し横へ向けた。耳当てを確かめ、今度はマフラーの端を整えてから和彦を振り返る。
「いかがでしょうか。自分ではよく分からないのですが」
「似合ってるよ。明るい色にしてよかったな。耳当ても思ってたとおりだった」
「ふふっ。そんなふうに言っていただくと、外せなくなってしまいます」
「さすがに家の中じゃ暑いだろ。外へ出るときに使ってよ」
「はい。大切に使わせていただきます。ご主人様が私に似合うものを考えてくださったのが、とても嬉しいです」
まっすぐに礼を言われ、和彦は袋を片づけるふりをして視線を落とした。
「まあ、せっかく買うなら似合う方がいいからさ。寒いのを我慢してたら庭の世話も楽しくなくなるだろ」
「では、明日の朝が楽しみですね。これなら少し寒くても平気そうです」
「だからって長く外にいなくてもいいからね。試しに出ていこうとかしないでよ」
エリーゼは窓の方へ向けていた目を戻し、いたずらを見つかったように笑った。
◇
昼食は二人で出前のメニューを選ぶことになった。
何が食べたいか尋ねるとエリーゼはいつものように和彦の好みに合わせようとした。それでは決まらないので、今日は自分が食べたいものを選んでほしいと頼む。
しばらく画面を眺めた末、彼女が指さしたのはオムライスだった。
「こちらをいただいてみたいです。卵の中にご飯が入っているのですよね? 写真を見るととてもおいしそうで」
「いいね。中のご飯にも味がついてるんだよ。俺も久しぶりだし、同じのにしようかな」
注文を終え、和彦はテレビのリモコンを手に取った。隣のエリーゼは何度か台所へ目を向けていたが、ゴム手袋の置かれたテーブルを見ると膝へ手を戻した。
「やっぱり何もしないでいると落ち着かない?」
「少しだけ。いつもなら昼食の支度をしている時間ですから、何か悪いことをしているような気がするんです」
「じゃあ、映画でも見ようか。前に話した魔法とか異世界が出てくるやつ。俺も一緒に見る人がいた方が楽しいし」
「まあ、それでしたら喜んで。見終わったあとにお話も伺ってよろしいですか? また、わからないものがたくさん出てきそうです」
「答えられることならね。魔法の仕組みを聞かれても俺にはわからないけど」
配信サービスで作品を探し、二人で一本を選んだ。城と空飛ぶ生き物が描かれた画像を見ただけで、エリーゼはすでに興味を引かれたようだった。
映画が始まると彼女はすぐに画面へ見入った。和彦も何度か見た作品だったが、隣から驚いた声が聞こえるとつられて同じ場面へ目を向けてしまう。
途中でオムライスが届き、いったん再生を止めて昼食にした。和彦が容器から皿へ移す間、エリーゼはスプーンを用意しかけたが、こちらを見ると棚の前で足を止めた。
「スプーンもご主人様にお願いしてよろしいでしょうか」
「うん、それくらい任せて。飲み物も今日は俺が持ってくるよ」
そう答えるとエリーゼはおとなしく食卓へ戻った。
オムライスを一口食べた彼女は、中のご飯を確かめるようにもう一度スプーンですくった。感想を尋ねると飲み込んでから嬉しそうに頷く。
「おいしいです。卵だけでいただくより、ご飯と一緒の方がいろいろな味がしますね。選ぶときには迷いましたけれど、こちらにしてよかったです」
「それならまた頼もうよ。ほかにも気になるのがあったら今度食べてみればいいし」
「はい。でも、今日はご主人様と同じものをいただけたのも嬉しいです」
「……うん。俺もこれにしてよかったよ」
和彦はそれ以上うまく返せず、オムライスを口へ運んだ。
◇
食後に映画の続きを楽しみ、見終わるころには午後三時を過ぎていた。
エリーゼは最後の場面がよほど印象に残ったらしく、画面が暗くなってからも城の話をしている。
「あれほど大きな建物が浮かび上がるなんて驚いてしまいました。私の国の魔法使いが見ても、きっと同じように驚くと思います」
「実際にはないものをコンピューターで作ってるんだよ。俺も詳しいやり方までは知らないけど、すごいよね」
「本当に。魔法が使えなくてもこんなものを作れるのですね。途中からお話に夢中になって、映像だということも忘れていました」
和彦は笑いながら立ち上がり、食卓に残っていた皿を重ねた。
エリーゼも腰を浮かせかけたが、和彦が皿を持ち上げるとそのままソファへ座り直す。
「では、お願いいたします。流しのそばにスポンジと洗剤がありますから」
「うん、わかるよ。いくら何でも皿くらい洗ったことあるって」
少し得意げに答えたものの、流しの前に立つと勝手が違った。
蛇口から出した湯は思ったより熱く、温度を下げてからスポンジへ洗剤をつける。皿の表面をこすってすすいだが、指で触るとまだ油の感触が残っていた。もう一度洗い直し、裏側にも汚れがついていることに気づく。
「……あれ、ちゃんと洗ったつもりだったんだけどな」
「卵やソースのついたところは少し落ちにくいかもしれません。先にお湯につけておくと洗いやすくなりますよ」
台所の入口から声がして振り返ると、エリーゼがこちらを見ていた。手を出すつもりはないらしく入口のところに立っている。
「なるほど。毎日やってるとそういうのもわかるんだな」
「何度も洗っていますから。私も初めのころは、きれいになったと思ったお皿をよく洗い直していました」
「俺は二人分でこれだからなあ。毎食作って洗ってたら、そりゃ手も荒れるよね」
和彦は皿をすすいで水切りかごへ置き、次の一枚を手に取る。
「今まで任せっぱなしでごめんね。毎日やってくれてるのに、手が痛くなってることにも気づかなくてさ」
「ご主人様がお気になさることではありません。私も聞いていただくまで何もお伝えしませんでしたから」
「でも、これからは言ってよ。痛いとか疲れたとか、それくらい聞かせてもらっても困らないから」
「……はい。では、無理をしそうになったときにはご相談します」
その返事を聞き、和彦はようやく頷いた。
洗い終わるまでには予想より時間がかかった。流しの周りへ飛んだ水も拭き、手を洗って布巾を置くとエリーゼが水切りかごをのぞき込んだ。
「ありがとうございます。きれいになりましたね」
「うん。たぶん今度はちゃんと落ちてると思う。あとで油が残ってても今日だけは大目に見てよ」
「ふふっ。そのときはこっそりお湯につけてから洗い直します」
二人で笑いながら台所を出かけ、和彦はふと足を止めた。
これが毎日続くなら、自分がときどき洗うだけでは大して変わらないかもしれない。大きな皿も鍋もあるし、料理を作ればもっと洗い物は増える。
「食洗機があったら少し楽になるかな」
「しょくせんき、というのは何でしょう? また何かの機械ですか?」
「食器を自動で洗ってくれるやつ。洗濯機の食器版みたいなものかな。洗えないものもあるけど、毎日の皿はかなり任せられると思う」
「お皿まで洗えるのですね……。こちらの国では本当にいろいろな仕事を機械がしてくれるのですね」
「俺ももう少し早く思いつけばよかったな。置けるかどうか、今度調べてみるよ」
エリーゼは流しの周りへ目を向け、それから和彦を見た。
「では、私も一緒に調べてもよろしいですか? どのように洗うのか見てみたいです」
「うん。買うなら使い方も覚えなきゃいけないし、二人で見てみよう」
今度は遠慮する言葉が返ってこなかったことに、和彦は少しほっとした。
◇
夕方になると窓の外は早くも暗くなり始めた。
和彦はスマートフォンで夕食を選び、エリーゼは隣で料理の本を開いていた。以前、一緒に書店へ行ったときに買ったもので、写真が多く載っているのが気に入っているらしい。
「ご主人様、今度はこちらを作ってみたいです。クリームシチューというそうですが、お好きですか?」
「ああ、好きだよ。寒いときに食べるといいよね。パンと合わせてもおいしいし」
「では、パンも用意しましょう。作り方を読むと今あるお鍋で作れそうです」
「うん。手がよくなったら一緒に買い物に行こうか。それまでは作り方を覚えておいてよ」
エリーゼは頷いてページへ目を戻した。以前なら今からでも材料を確かめに台所へ行っていたかもしれない。今日はそのまま本を読み進めている。
和彦は夕食の注文を済ませ、足元の買い物袋へ目を向けた。
「あ、そうだ。まだ渡してないのがあった。マフラーのことばっかり考えてて忘れてたよ」
「まだ何か買ってきてくださったのですか? 今日はいただいてばかりですね」
「これは俺も使うから。お風呂に入れる入浴剤なんだけど、日光で温泉を気に入ってたのを思い出してさ」
箱を渡すとエリーゼは描かれた温泉の写真を眺めた。裏返して説明も読み、お湯の色と香りが変わるとわかると顔を上げる。
「温泉のお話をしたこと、覚えていてくださったのですね。私、帰ってきてから何度もお話ししていましたから」
「そんなに好きなら家でも少し楽しめるかなと思って。本物の露天風呂ってわけにはいかないけど」
「嬉しいです。では、今夜使ってもよろしいですか? どのような香りになるのか楽しみです」
「もちろん。そのために買ってきたんだから」
エリーゼはもう一度箱を眺め、本の隣へ丁寧に置いた。
和彦はその横顔を見て買ってきてよかったと思った。店で手に取ったときには、ついでに選んだものだった。けれど彼女は中に入っている袋を一つずつ確かめ、今夜どれを使うか真剣に迷っている。
日光で初めて露天風呂を見たときも、スーパーで菓子を選んだときもエリーゼはこんな顔をしていた。次に買い物へ行くときも、何か一つくらい彼女が選ぶのを待ってみようかと思った。
「手の具合はどう? クリーム、使ってみて嫌な感じはしなかった?」
「はい。先ほども少し塗りましたが大丈夫でした。まだ痛むところはありますけれど、乾いて突っ張る感じは少し楽になった気がします」
「そっか。今日は水を使ってないのもよかったのかな。明日もできるだけ休ませようね」
「ありがとうございます。……今日は驚いてばかりでした」
エリーゼは手元へ目を落としたまま指をそっと重ねた。
「少し手が荒れただけだと思っていたのに、ご主人様がお買い物に出かけて贈り物まで選んでくださって。お皿も洗っていただいて、どうしたらいいのかわからなくなってしまいました」
「俺もあんなに時間かかるとは思わなかったよ。エリーゼが洗ってると簡単そうに見えるんだけどね」
「慣れればご主人様も早くおできになると思います。でも……今日は本当にありがとうございました」
隣でエリーゼが小さく笑い、それから少し静かな声で続けた。
「故郷にいたころも冬にはこうして手が荒れていました。こちらへ来てからも同じだと思っていたのですが、今日は随分違いましたね」
「……故郷のこと、やっぱり気になる?」
「はい。お屋敷の皆様がどうしていらっしゃるか、今でも考えます。帰れるのであれば一度は帰って無事をお伝えしたいです」
そうだろうなと思いながら和彦は頷いた。自分が旅行から戻るのとはわけが違う。エリーゼはある日突然、知っている人の誰もいない場所へ来てしまったのだ。
「ですが、こちらで過ごす毎日も今ではとても大切です。朝、花壇を見てからお食事を作って、ご主人様とお話をして……明日もそうして過ごせると思うと、ほっとするんです」
「俺も前より朝起きるのが嫌じゃなくなったよ。前は起きたって特に何もなかったからさ」
「今はお食事がございますものね」
「それもあるけど、エリーゼと話せるだろ。昨日のこととか庭のこととか。大した話じゃなくても誰かと話せるのはいいなって」
口にしてから照れくさくなったが、今さら取り消すのもおかしいと思い、エリーゼへ顔を向ける。
「だから、エリーゼが来てくれてよかったと思ってるよ。家のことをやってもらえて助かるってだけじゃなくてね」
エリーゼはしばらくこちらを見つめ、それからゆっくり微笑んだ。
「私もご主人様のお家に来られてよかったです。今日は休んでいてもよいとおっしゃっていただけて、少し安心しました」
「休んだら追い出すようなことしないよ。手が治っても、たまには今日みたいに過ごそう」
「はい。では、次に見る映画も選んでおきますね。まだ気になるものがたくさんありましたから」
「うん。今度はエリーゼが選んでよ。俺も見たことないやつだと説明できないかもしれないけど」
「そのときは一緒に楽しみましょう」
和彦が頷くとエリーゼは満足したように本を閉じた。
◇
それから間もなく玄関のチャイムが鳴った。
エリーゼが立ち上がりかけ、途中で和彦へ目を向ける。和彦がスマートフォンを持って腰を上げると、彼女は笑いながら座り直した。
「では、お願いいたします。今日は最後までお任せしてしまいますね」
「うん。受け取るのはもう大ベテランだから任せて」
玄関へ向かいながら和彦は明日の食事をどうするか考えていた。
出前を取るのは構わないが、何日も続けばエリーゼの方が落ち着かないだろう。簡単なものなら自分が手伝いながら作れるかもしれない。食洗機を調べるついでに、料理も少しくらい覚えておいた方がよさそうだった。
そこまで考えて自分で小さく笑ってしまった。少し前なら、面倒だから全部出前で済ませようと決めていたはずだ。
もっとも明日から急に働き者になれるとは思わない。朝食を食べたあとはまたソファへ寝転がってゲームを始めるだろうし、洗い物も進んで引き受けたくなるかは怪しい。
それでもエリーゼが痛そうに手をこすっているのを見たら、今度は気づかないままではいられない。
夕食を受け取ってリビングへ戻ると、エリーゼがテーブルの上の本を自分の膝へ移した。和彦は空いた場所へ袋を置き、容器を取り出して並べていく。
蓋を外し、箸と飲み物を用意するだけでも何度か台所との間を往復した。ようやく座ると向かいで待っていたエリーゼが微笑んだ。
「ありがとうございます、ご主人様。いただいてもよろしいですか?」
「うん、どうぞ。こうして全部やってみると、食べるまでにも結構することがあるんだな」
「では、ご主人様も温かいうちに召し上がってください。せっかく用意してくださったのですから」
二人で手を合わせて夕食を食べ始めた。
窓の外では風が強まり、庭木の枝が揺れていた。エリーゼがそちらへ目を向けたので和彦もつられて庭を見る。
「明日の朝も寒そうだね。庭に出るならさっきのマフラー忘れないでよ」
「はい。耳当ても手袋も、もう玄関に揃えてあります」
「いつの間に。やっぱり使う気満々だったんだな」
「せっかく選んでいただいたのですもの。少しだけ外へ出るのが楽しみになってしまいました」
嬉しそうな声につられて和彦も笑った。
「じゃあ、明日は俺も見に行こうかな。最近、花壇をちゃんと見てなかったし」
「ぜひ。ネモフィラの葉が少しずつ増えているんですよ。明日の朝、ご案内しますね」
起きられるかな、と言いかけて和彦はやめた。朝食のあとに上着を羽織り、庭へ出るだけだ。それくらいなら自分にもできるだろう。
明日は温かい格好をしてエリーゼと花壇を見よう。そう思いながら和彦はもう一口、夕食を口へ運んだ。




