園芸をはじめよう
昨日は久しぶりに外を歩き回ったせいか、いつもより早く眠くなり午前二時にはベッドへ入っていた。九時間も眠れば十分なはずなのに、まだ少し体が重い。大きく伸びをして起き上がろうとすると、ふくらはぎに鈍い痛みが走った。
「……なんだ、筋肉痛か?」
昨日出かけたのはスーパーと衣料品店くらいだ。走ったわけでも、重い荷物を持って長い距離を歩いたわけでもない。それでも普段は家の中でゲームばかりしている和彦にとって、数時間の買い物は十分な運動になったらしい。
これではまともに運動などしたらどうなるのだろう。あまり考えたくないことを思いながら着替えを済ませて一階へ下りると、リビングにも台所にもエリーゼの姿がなかった。
「エリーゼ?」
呼んでみたが返事はない。洗面所を覗いても見当たらず、客間の扉も開いたままだった。昨日買った服をしまっているのかと思ったが、部屋の中には誰もいない。
どこへ行ったのかとリビングへ戻ったところで、庭に面した窓の向こうに白いものが動くのが見えた。
近づいてみると、エリーゼが花壇のそばにしゃがみ込んでいた。メイド服の袖を肘までまくり、両手で草を抜いている。足元には抜いた草が積まれていて、どうやら少し前から作業をしているらしい。
「何やってんだ?」
窓を開けて声をかけると、エリーゼは顔を上げて笑顔になった。
「おはようございますご主人様。よくお休みになれましたか?」
「ああ、おはよう。……いや、それはいいんだけど、何してるの?」
「草むしりをしていました。お掃除がひととおり終わって外を見たら、ずいぶん伸びていたので」
言われて庭を見渡すと、なるほどあちこちに雑草が生えている。庭木の枝も伸び放題で、昔は花が植わっていた場所まで周囲の草に埋もれかけていた。
両親が生きていたころは定期的に植木屋が来ていた。母親もよく庭に出ていた覚えがあるが、和彦が一人で暮らすようになってからはほとんど手を入れていない。リビングから毎日見える景色なのに、いつの間にこんな状態になったのかと今さらながら思った。
「そういえば、ずっと放ったらかしだったな」
「勝手に始めてしまって申し訳ありません。残しておく草もあるかと思ったのですが、この辺りなら大丈夫そうでしたので」
「いや、やってくれるのはありがたいよ。でも、庭仕事もできるの?」
「草むしりくらいでしたら。伯爵家には庭師の方がいましたから、木のお手入れやお花を育てることはあまり詳しくないんですけれど」
「まあ、俺も全然わからないけどな」
エリーゼは草の根元を確かめながら抜き、土を落として脇へ置いていた。抜いたあとは地面が見えているが、きれいになっているのは花壇の手前の一角だけだ。この庭を一人で片づけようとしたら、かなり時間がかかるだろう。
「ちょっと待ってて。俺も手伝うよ」
「えっ。でも、ご主人様に草むしりをしていただくのは……」
「俺の家なんだから、俺がやってもいいだろ。どうせ今日は何も予定ないし」
そう言ってから今日に限ったことでもないなと思ったが、それは口に出さなかった。エリーゼは少し迷った様子を見せたあと、足元の草へ目を向けた。
「では、お願いしてもよろしいですか? 根が深くてうまく抜けないものがありまして」
「ああ。ちょっと着替えてくるから待ってて」
和彦は二階へ戻って古いジャージに着替えると、玄関でサンダルを履いて庭へ回った。隣にしゃがんで草を一本つかんでみたが、引っ張った途端に茎が切れて手元には葉だけが残る。
「……これか、抜けないっていうのは」
「はい。強く引くと途中で切れてしまうんです」
「何か掘るものがあればいいんだろうけど。そういえば、物置に道具がなかったかな」
庭の奥にある物置は最近ではほとんど開けることがなかった。扉を引くと少し引っかかり、力を入れ直してようやく開いた。中には脚立や古いホースのほかに、父親が使っていた園芸道具が残っている。
棚の上には軍手と小さなシャベルがあり、奥には鎌や剪定ばさみも見えた。和彦はその中から使えそうなものを取り出した。
「おお、あるじゃないか。先に見ればよかったな」
「こちらを使えば根の周りを掘れそうですね」
エリーゼが小さなシャベルを手に取り、刃先についた乾いた土を払った。和彦は軍手を二組見つけると一組を彼女へ渡し、自分もはめてみた。しばらく使われていなかったせいか少しごわついていたが、素手でやるよりはよさそうだ。
二人で庭へ戻って抜けなかった草の周りを掘ってみると、土の中から思ったより長い根が出てきた。エリーゼが根元を持ち、和彦が下の土を緩めると今度は途中で切れずに抜ける。
「まあ、こんなに長かったのですね」
「そりゃ、引っ張っただけじゃ抜けないわけだ」
抜いた草を脇へ置き、今度はそれぞれ手の届く範囲を片づけていく。ところがしばらくすると、エリーゼが細長い葉の生えた場所で手を止めた。
「ご主人様、こちらも抜いてしまって大丈夫でしょうか?」
「ん? どれ?」
「この細い葉のものです。何本かまとまって生えているのですが」
和彦にはほかの草とどう違うのか、すぐにはわからなかった。ただ花壇の縁に沿って並んでいるのを見ると、もともと植えてあったもののようにも思える。
「……母さんが植えたやつかもしれないな。ちょっと待って」
軍手を片方外してポケットからスマートフォンを取り出し、写真を撮る。似た植物を調べてみたものの、画面に出てくるものはどれもそれらしく見えた。葉の形を見比べているうちに、そもそも何が違うのかもわからなくなってくる。
「何かわかりましたか?」
「いや、候補がいくつも出てきた。花が咲いてればわかるのかもしれないけど」
「では、残しておきましょうか」
「そうだな。抜いてから花だったってわかっても困るし」
二人はその一角には触らず、先ほどまで抜いていた草と同じものから片づけることにした。エリーゼが根元を掘り、和彦が抜いた草をまとめていくと、少しずつ地面が見える範囲が広がっていった。
しかし三十分もすると、和彦は同じ姿勢でいるのがつらくなってきた。立ち上がって腰を伸ばし、またしゃがんでみるが今度は膝の辺りまで重く感じる。
「……ちょっと休憩しない?」
「はい。お茶をお持ちしましょうか?」
「いや、中で飲もう。エリーゼも一緒に休んでくれよ」
「ありがとうございます。では、道具をこちらへまとめておきますね」
二人は軍手を外して玄関から家に入った。洗面所で手を洗ってリビングへ戻ると、エリーゼが冷蔵庫から麦茶を出してくれた。和彦はコップを受け取り、ソファに座って長く息を吐く。
「こんなに腰にくるもんなのか。まだちょっとしかやってないのに」
「ずっとしゃがんでいますから。私も少し背中が疲れました」
「エリーゼは俺が起きる前からやってたんだろ?」
「はい。でも朝のうちは涼しかったので、気持ちがよかったですよ」
和彦が寝返りを打っていたころに、彼女は一人で庭の草を抜いていたらしい。そう思うとこれくらいで疲れたと言うのも少し気が引けるが、腰が痛いものは仕方がない。コップの麦茶を半分ほど飲んで背もたれへ体を預けた。
エリーゼも向かいの椅子に座ったが、しばらくすると窓の外へ目を向けた。
「あちらの石で囲まれたところは花壇だったのでしょうか?」
「ああ。母さんが花を植えてたんだ。昔は今みたいに草だらけじゃなかったんだけどな」
「やっぱりそうだったのですね。草の下から石が見えたので、そうかと思いました」
和彦も窓の向こうへ目を向けた。庭に興味のなかった彼でも、そこにいろいろな花が咲いていたことくらいは覚えている。母親が庭から戻ると、台所の流しに小さな花瓶が置かれていることもあった。
「何が植わってたかまでは覚えてないけど。季節によって違うのが咲いてた気がする」
「お母様はお花がお好きだったんですね」
「ああ、たぶん。よく庭に出てたからな」
エリーゼは窓の外を眺めたまま、残っている草の向こうを見ようとするように少し首を傾けた。
「あそこがきれいになったら、また何か植えられそうですね」
「育ててみたいの?」
「はい。伯爵家ではお部屋に飾る花を取り替えるくらいでしたけれど、お庭に咲いているのを見るのは好きでしたから」
「じゃあ、何か植えてみるか。せっかく片づけるんだし」
エリーゼは和彦へ顔を向けると、少し身を乗り出した。
「よろしいのですか?」
「別に空けておく理由もないしな。ただ、俺に何を植えたらいいか聞かれてもわからないぞ」
「私も育て方までは……。お花屋さんで教えていただけるでしょうか?」
「近くに園芸店があったはずだから、そこで聞いてみよう。あとで行ってみるか」
「はい。ぜひお願いいたします」
先ほどまで落ち着いて麦茶を飲んでいたエリーゼが、今度は花壇と和彦を交互に見ている。これなら草を抜くにも張り合いが出そうだ。和彦は残りの麦茶を飲み干すと、もう少しだけ頑張ろうとソファから立ち上がった。
庭へ戻った二人は花壇の周囲から手をつけた。残すことにした植物を避けながら草を抜き、積もった枯れ葉を取り除いていくと、土に埋もれていた石の縁が少しずつ姿を現した。
「こんな形だったのか。もっと小さかったと思ってた」
「奥の方まで続いていますね。全部に植えたら、たくさんお花が咲きそうです」
「いきなり全部は大変じゃないか? 最初はこの辺だけでいいだろ」
「そうですね。きちんとお世話できるようになってから、少しずつ増やしていきたいです」
植える場所を相談しながら作業を続け、ひとまず花壇の手前が使えそうなところで切り上げた。抜いた草を袋へ詰めて道具についた土を落としていると、エリーゼも手を止めて花壇を眺めている。
何を植えるか、もう考えているのかもしれない。和彦もつられて目を向けたが、今のところは土が見えるようになっただけで花の咲いた様子までは想像できなかった。
家へ戻ると時計は午後一時を回っていた。昼食には昨日買ったパンとハム、野菜を使ってエリーゼがサンドイッチを作ってくれた。
「庭仕事をしたあとだと、こういうのがうまいな」
「よかったです。もう少し作りましょうか?」
「いや、これだけで大丈夫。食べたら園芸店に行くんだろ?」
「はい。あの、ご主人様はお疲れではありませんか? お買い物は明日でも」
「さっきまで腰は痛かったけど、歩く分には平気だよ。店もそんなに遠くないしな」
エリーゼは安心したように頷き、残りのサンドイッチを口へ運んだ。いつもなら食後はそのままゲームを始めているところだが、今日は隣で外出を楽しみにしている者がいる。和彦はスマートフォンで店の場所を確かめ、ついでに営業時間も調べておいた。
昼食の片づけを済ませたあと、二人は近所の園芸店へ向かった。
店先には鉢植えや花の苗が並び、入口の脇には土や肥料の袋が積まれている。エリーゼは並んだ花に目を留めると歩く速さを緩め、一つずつ顔を近づけて眺めた。
「まあ、こちらもきれいですね。こんなに小さな鉢でもたくさん咲いています」
「ああ。こっちはまだ花がないみたいだけど」
「札に咲いたときの絵がついていますね。……こちらは写真でしょうか?」
「たぶんな。昨日見せたのと同じだよ」
和彦が答える間にも、エリーゼの視線は隣の苗へ移っていた。スーパーでは見慣れない品物に戸惑うことも多かったが、ここでは知っている花を探す楽しみもあるらしい。
「向こうにもこういう花はあったの?」
「似たものはありました。でも、こちらの方が色の種類が多いような気がします。同じお花でもずいぶん違って見えるんですね」
「俺には違う花なのか、色が違うだけなのかもわからないな」
「私もお名前を知っているものばかりではありませんよ。庭師の方に教えていただいても、次に見るころには忘れてしまっていて」
「じゃあ、名前が書いてあるのは助かるな」
「はい。今度はきちんと覚えたいです」
二人で棚の間を歩いていると、バラの苗が並ぶ一角でエリーゼが足を止めた。葉のついた苗に花の写真を載せた札が下がっている。その一枚を見つめ、確かめるように文字を指で追った。
「……ご主人様。こちらを見ていただけますか?」
「どうした?」
「このお花、私と同じ名前です」
和彦が隣から覗くと、札には『エリーゼ』と書かれていた。写真のバラは淡い色の花びらが幾重にも重なり、ふんわりと開いている。
「本当だ。エリーゼっていうバラがあるんだな」
「ええ。私、自分と同じ名前のお花を見るのは初めてです」
エリーゼは札を持ち上げ、写真と文字をもう一度見比べた。その表情があまりに嬉しそうだったので、和彦も苗へ目を向けたが、こちらにはまだ花がついていない。札がなければほかの苗との区別はつかなかっただろう。
「せっかくだし、それも買っていこうか」
「えっ……よろしいのですか?」
「ああ。気に入ったんだろ?」
「はい。でも、バラはお手入れが大変だと聞いたことがあって。枯らしてしまったらと思うと少し心配です」
「だったら店の人に聞いてみよう。俺たちでも育てられそうなら買えばいいし」
ちょうど近くで苗を並べていた店員に声をかけ、二人とも花を育てるのは初めてだと話した。エリーゼが選んだ苗を示すと、店員は置き場所を尋ね、庭に植えたいと聞いてから日当たりや土の状態について説明してくれた。
和彦は途中で庭の写真を撮ってこなかったことに気づいたが、窓や庭木の位置を思い出しながら答えた。伸びた枝の陰になる場所は避け、植える土も整えた方がよいらしい。
「一度に全部覚えようとしなくて大丈夫ですよ。まずは植えつけて、そのあとのお世話は時期に合わせて少しずつ覚えていけばいいですから」
「何かあったら、また聞きに来てもいいですか?」
「ええ。様子がおかしいと思ったら写真を撮って見せてください」
そう言われると和彦にも少し気が楽になった。エリーゼも隣で熱心に頷き、説明の書かれた紙を受け取っている。
「どうする? 育ててみるか?」
「はい。こちらのお花にしたいです。わからないことは、その都度教えていただこうと思います」
「じゃあ、決まりだな」
和彦が買い物用のカートへ苗を載せると、エリーゼは札が葉の間へ入り込まないようにそっと位置を直した。その仕草を見ていると、このバラを買わずに帰るつもりはもう和彦にもなかった。
続いて花壇のことを相談すると、秋に種をまいて春に花を楽しめるものとして、店員がネモフィラを紹介してくれた。種袋の写真には青い小さな花がまとまって咲いている。
「こちらは苗ではないのですね」
「種から育てるんだって。花壇にはこういうのもよさそうだな」
「はい。春になったら窓からも見えるでしょうか?」
「手前の方に植えれば見えるんじゃないか。ただ、写真みたいに咲かせられるかはわからないけど」
「少しでも咲いてくれたら嬉しいです。私たちがまいた種から育つんですもの」
エリーゼは種袋を裏返して説明を読み始めた。和彦も隣から覗き、種をまく時期や植える間隔を一緒に確かめる。わからないところを店員に聞き、花壇の広さに合う量を選んでもらってから必要な土や肥料もそろえた。
気づけばカートの下には土の袋が載り、上のかごもずいぶん埋まっていた。レジへ向かおうとして、和彦はようやく帰り道のことを思い出した。
「……これ、持って帰るんだよな」
「はい。私もお持ちします」
「そうだな。大きい袋さえ持てれば、あとは何とかなるか」
試しに土の袋を持ち上げてみると、見た目以上にずっしりしている。今日はもう十分に体を動かしたつもりだったが、最後にもう一仕事残っていたらしい。
重い袋は和彦が持ち、エリーゼにはバラの苗と種や肥料の入った袋を任せた。帰り道では途中で一度荷物を持ち替えたものの、隣のエリーゼは苗を大切に抱えて時折その葉を見下ろしていた。
家へ戻ると荷物を玄関に置き、まずは二人で麦茶を飲んだ。少し休んでから店でもらった説明を読み直し、今日のうちにできそうなところまで進めることにした。
庭に出ると、午前中に草を抜いた場所にはまだ固い土が残っていた。和彦が物置から少し大きなスコップを持ち出し、エリーゼは取り残した根や小石を拾っていく。買ってきた土を混ぜながら掘り返すと、表面だけ見ていたときよりもずいぶん手間がかかった。
「花を植えるだけでも、結構やることがあるんだな」
「そうですね。伯爵家のお庭もこうして整えてくださっていたのだと思うと、もっとよく見ておけばよかったです」
「俺も母さんが何やってるのか聞いたことなかったな。草に水やってるくらいにしか思ってなかった」
「その草がお花だったんですね」
「たぶんな。今になって聞こうにも聞けないけど」
和彦がスコップに体重をかけると、固まった土が大きな塊になって起き上がる。エリーゼがしゃがんでそれをほぐし、残っていた根を取り除いていく。花壇の全部を整えるのは無理そうだったので、午前中に決めた手前の範囲だけに絞った。
途中で和彦が手を止めると、エリーゼも立ち上がって額にかかった髪を腕で避けた。彼女も疲れているはずなのに、土の様子を確かめる顔は楽しそうだ。
「ご主人様、こちらはだいぶ柔らかくなりました」
「じゃあ、そろそろ種をまけるか。もう少し掘れって言われたらどうしようかと思ってた」
「今日はここまででも大丈夫ですよ。種は明日まくこともできますから」
「いや、ここまでやったんだし、まくところまでは見たいだろ」
「……はい。できれば私も」
そう答えたエリーゼと顔を見合わせ、和彦は種袋を取りに家へ戻った。
袋を開けてみると、中には小さな種が入っていた。エリーゼは軍手を外して手のひらへ少しだけ受け取ると、種袋の写真と見比べた。
「こんなに小さなものから、あのお花が咲くんですね」
「ああ。なくさないように気をつけてな。俺、落としたら見つけられる自信ないぞ」
「では、あまり一度に出さない方がよさそうですね」
二人は種袋を石の上に置き、説明を見ながら土の表面を整えた。エリーゼが一粒ずつつまもうとして苦労していたので和彦も試してみたが、指先に載せた種が思ったところへ落ちてくれない。
「……これ、一個ずつまくのは大変だな」
「こちらへずいぶん集まってしまいました」
「ちょっと待って。俺の方も固まってる。もう一回説明を見よう」
二人で袋を覗き込み、店員に教わったことを思い出しながら少しずつまいていく。途中で手が止まるたびに相談していたので時間はかかったが、何とか用意した範囲へまき終えることができた。
薄く土をかけたあと、エリーゼがジョウロを持ってきた。こちらも物置に残っていたもので、一度中を洗ってから水を入れてある。土を流さないように水をかけ、表面が湿ったところで二人は花壇を見下ろした。
「……見た目は何も変わらないな」
「種は土の中ですから」
「そりゃそうか。何日くらいで芽が出るんだっけ?」
和彦が袋を手に取ると、エリーゼも隣から覗き込んだ。気温などによって違うらしいが、しばらくは毎朝花壇を確かめることになりそうだ。
「芽が出ても草と間違えて抜かないようにしないとな」
「私も気をつけます。こちらには草むしりをしない方がよさそうですね」
「何か目印を置いておくか。どこまでまいたか、明日になったら忘れそうだし」
和彦は物置から短い支柱を見つけ、種をまいた範囲の端に立てておいた。それを見たエリーゼが、これならわかりますねと頷く。
続いてバラを植える場所を決めた。花壇の端にするつもりだったが、店員に教わった日当たりのことを考えると、伸びた庭木からは少し離した方がよさそうだった。
「この辺なら窓からも見えるな」
「はい。木の枝もあまりかかっていませんね」
「じゃあ、ここにするか。そこならあとで植木屋に来てもらっても邪魔にならないだろうし」
場所が決まると和彦が穴を掘り、エリーゼが買ってきた土を運んだ。店でもらった紙をそばに置いて植える深さを確かめながら苗を収める。途中で少し傾いたので、エリーゼが両手で支えている間に和彦が周りへ土を戻していった。
「どう? まっすぐになってる?」
「こちらから見ると……もう少しそちらでしょうか」
「こっち?」
「はい。そのくらいで大丈夫だと思います」
何度か位置を直したあと、ようやく二人とも納得した。水をやり終えて一歩下がると、広い庭の中では小さな苗だったが、そこだけはほかの場所と違って見えた。
エリーゼは苗の前にしゃがみ、土で汚れた葉をそっと払った。植えつけの間は脇へ置いていた札も取り、苗のそばへ戻している。
「名前、つけとくのか?」
「はい。せっかくですから」
「なくてもエリーゼは忘れないだろ」
「そうですけれど、お花が咲いたときにもう一度見比べてみたいんです。本当にこの写真のようになるのかしらと思って」
和彦も隣にしゃがんで札の花と苗を見比べた。今は緑の葉がついているだけで、そこに花が咲くところを想像するのは難しい。それでもエリーゼが何度も写真を見ていた理由は少しわかる気がした。
「咲いたら写真を撮ろうか」
「このお花を、ですか?」
「ああ。エリーゼも一緒に。名前が同じだってわかるように撮ってやるよ」
「まあ……それは少し照れてしまいますね」
「花と写真撮るくらい、別にいいだろ」
「はい。では、きれいに咲いてくれたらお願いいたします」
そう答えたあと、エリーゼはもう一度バラの葉へ目を向けた。先ほどからずっと嬉しそうにしているが、実際に花が咲いたらどんな顔をするのだろう。和彦はそれを見たくなり、まずは枯らさないようにしないとなと店でもらった紙を畳んだ。
道具を片づけ始めるころには日が傾いていた。
庭全体を見れば草の残っている場所の方が多い。伸びた庭木もそのままだが、花壇の縁が見えるようになっただけで窓の前はずいぶんすっきりしていた。さすがに木の枝までは二人でどうにもできないので、そちらは後日植木屋へ頼むことにした。
「ご主人様、今日はありがとうございました。お買い物までご一緒していただいて」
「俺も植えてみようって言ったんだからいいよ。エリーゼ一人じゃ土を持って帰るのも大変だっただろ」
「はい。あの袋は私には少し重かったと思います」
「だろ。まあ、俺も次はもう少し考えて買うけどな」
和彦が腕をさすると、エリーゼは笑いながら使い終わったジョウロを物置へ運んだ。彼女が道具をそろえている間に、和彦は残りの土の袋を閉じて雨の当たらないところへしまっておく。
ようやく片づけが終わると、エリーゼも一息ついて花壇の前で足を止めた。
「明日の朝、お水をやる前に土の様子を見てみますね」
「ああ。でも朝からずっと庭にいなくてもいいからな。今日だって俺が起きるまでやってたんだろ?」
「少しずつ片づけるつもりでしたから。それに今朝は、こんなふうにお花を植えられるとは思っていませんでした」
エリーゼは花壇からバラの方へ目を移して満足そうに微笑んだ。和彦にとっても、朝起きたときには考えていなかった一日だ。いつもなら今ごろはゲームの続きをしながら夕飯をどうするか考えていただろう。
「そういえば腹減ったな。そろそろ中に入ろうか」
「はい。夕食はあまりお待たせしないものにいたしますね」
「いや、今日は出前でいいんじゃないか?」
「ですが、昨日食材を買っていただいたばかりですし……」
「明日使えばいいだろ。エリーゼも朝から働いてたんだから休んでくれよ。俺だけ座って待ってるのも何か悪いし」
エリーゼは少し考えたあと、手元の軍手を見下ろした。指先だけでなく手首の辺りまで土で汚れている。
「では、今日はお言葉に甘えてもよろしいでしょうか。私も少しお腹がすいてしまいました」
「ああ。何が食べたいか、あとで一緒に見よう」
二人は玄関へ回って靴を脱ぎ、家に入った。手を洗ってリビングへ戻ると、窓の向こうにはまだ夕方の明るさが残っている。和彦はソファへ腰を下ろす前に、もう一度だけ庭を眺めた。
種をまいた花壇も小さなバラの苗も、今のところは地味なものだった。それでも何を植えたのか知っているだけで、朝までとは違って見える。隣へ来たエリーゼも窓の外を眺めていたので、和彦は出前の画面を開いたスマートフォンをしばらく手元に置いておいた。
「ご主人様、明日もお庭をご覧になりますか?」
「ああ。起きたら見てみるよ。すぐには何も変わらないだろうけどな」
「はい。でも、何か変わっていたらお知らせしますね」
それは芽が出るまで毎朝報告が来るということだろうか。少し楽しみになってエリーゼを見ると、彼女はまだ窓の向こうを見つめていた。
和彦も朝のうちに一緒に出てみようかと思ったが、その前に筋肉痛でベッドから起き上がれるかどうかが問題だった。




