はじめてのおでかけ
翌朝、佐藤和彦が目を覚ましたのは、寝室の扉を叩く控えめな音が聞こえてきたときだった。
「ご主人様、おはようございます。そろそろお目覚めになりませんか?」
「……ん、ああ……」
聞き慣れない女性の声に、和彦は寝ぼけたまま返事をした。もう一度眠ろうと布団を引き寄せたところで、昨日から家に異世界のメイドがいることを思い出す。枕元のスマートフォンを手に取ると、時刻は午前十時を少し過ぎたところだった。昨夜も結局、明け方近くまでゲームをしていたため、まだ六時間ほどしか眠っていない。
「ご主人様、起きていらっしゃいますか?」
「ああ、起きてるよ。ちょっと待ってて」
和彦は大きなあくびをしながらベッドから抜け出し、適当な服に着替えて寝室の扉を開けた。廊下には、昨日と同じメイド服を着たエリーゼが立っている。銀色の髪はきれいに整えられ、白いエプロンにも皺一つ見当たらない。
「おはようございます、ご主人様。よくお休みになれましたか?」
「おはよう。いや、まだちょっと眠いかな。普段は昼過ぎまで寝てるからさ」
「そうでしたね。申し訳ありません。お買い物へ行くと伺っておりましたので、そろそろお声をかけた方がよいかと思いまして」
「ああ、そうだった。起こしてくれて助かったよ」
和彦が階段へ向かうと、エリーゼも少し後ろをついてくる。途中、開いていた客間の扉から中を覗くと、昨日まで埃をかぶっていた部屋はすっかり片づき、ベッドにもきれいにシーツが掛けられていた。
「もう掃除したの?」
「はい。今朝は六時ごろに目が覚めましたので、昨日の続きを少し。それから、お洗濯も済ませておきました」
「六時って……俺が寝たの、三時過ぎだぞ」
「まあ、そんなに遅くまで起きていらしたのですか?」
「ゲームしてたら、いつの間にかそんな時間になっててさ」
「げーむ……昨日、お部屋でなさっていたものですね」
「そうそう。まあ、別に急いでやる必要もないんだけど」
エリーゼは何か言いかけたようだったが、結局は小さく頷いただけだった。和彦としても、夜更かしをして遊んでいたことを改めて説明するのは、少々気まずい。
一階へ下りてリビングに入ると、昨日までテーブルの上に散らばっていた雑誌や菓子の袋がなくなり、ソファのクッションもきれいに並べられていた。床にも掃除機をかけたらしく、足元に転がっていた小さなゴミまでなくなっている。
「……なんか、別の家みたいだな」
「まだ片づけられていないところもございますけれど、少しずつ整えていこうと思っております」
「いや、十分だよ。昨日からずっと働いてるじゃないか」
「ありがとうございます。でも、これくらいは普段のお仕事ですから」
和彦がソファへ腰を下ろすと、エリーゼは台所へ向かいかけ、ふと思い出したように振り返った。
「そういえばご主人様。台所の戸棚で紅茶を見つけたのですが、お淹れしてもよろしいでしょうか?」
「紅茶? ああ、そういえば前に買ったな。まだ残ってたんだ」
「はい。茶葉の入った缶がございましたので。香りも残っておりましたし、よろしければお持ちしようかと思いまして」
「じゃあ、お願いしようかな。ちょうど眠いし」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
エリーゼが台所へ向かうと、ほどなくして湯を沸かす音が聞こえてきた。和彦はソファに深く腰を沈め、ぼんやりとテレビの電源を入れる。ニュース番組では、どこかの道路で起きた事故について報じていたが、内容はほとんど頭に入ってこない。画面を眺めているうちに、また眠気が戻ってきた。
「お待たせいたしました、ご主人様」
声をかけられて顔を上げると、エリーゼが湯気の立つカップを載せたトレーを持ってきたところだった。テーブルにカップを置くと、彼女は小さな砂糖入れも隣に添える。
「ありがとう。……あれ、いい匂いだな」
「少し蒸らしてからお淹れしました。お砂糖もございましたけれど、いかがなさいますか?」
「いや、そのままでいいよ」
カップを受け取って一口飲むと、口の中に紅茶の香りが広がった。普段はペットボトルのお茶ばかり飲んでいる和彦にとって、きちんと淹れた紅茶は久しぶりだ。以前、自分で適当に淹れたときは妙に渋かった記憶があるが、今回はそんなこともなく、すっきりとした味わいで飲みやすい。
「……うまいな、これ。こんなにおいしかったっけ?」
「ありがとうございます。少し蒸らす時間を調整しただけですけれど、お口に合ったようで安心いたしました」
「いや、全然違うよ。俺が淹れると、もっと渋くなるんだよな」
「茶葉の量やお湯の温度でも変わりますから。伯爵家ではお客様にお出しすることも多かったので、何度も練習したんですよ」
「へえ。紅茶一つでも、結構難しいんだな」
「慣れてしまえば、それほどでもありませんよ。ご主人様も、お好みの濃さがございましたらおっしゃってくださいね」
和彦はもう一口飲み、ようやく頭がはっきりしてきたのを感じた。窓の外には秋らしい青空が広がっている。昨日までは昼過ぎに起きて、適当に何かを食べてからゲームを始めるのがいつもの生活だったが、今日は買い物に出かける約束がある。
「よし、じゃあ、そろそろ買い物に行くか」
「はい。いつでも出かけられます」
「ちょっと顔洗ってくるから、待っててくれ」
洗面所で顔を洗い、歯を磨いて戻ると、和彦は残っていた紅茶を飲み干した。朝食を食べるほど腹は減っていないので、買い物を済ませてから何か食べればいいだろう。財布とスマートフォンをポケットに入れ、玄関で靴を履く。
「じゃあ、行こうか」
「はい、ご主人様」
エリーゼも靴を履き、和彦の後ろについて玄関を出た。
門を開けて住宅街へ出ると、エリーゼは周囲の景色を興味深そうに眺め始めた。昨日は突然見知らぬ家に現れ、そのまま外へ出る機会もなかったので、これが初めて見る日本の街並みになる。整然と並んだ住宅や舗装された道路、頭上を走る電線など、彼女にとっては珍しいものばかりなのだろう。
「ずいぶん、きれいな道なのですね。石畳とも違うようですけれど」
「ああ、アスファルトっていうんだよ。まあ、道路は大体こんな感じかな」
「そうなのですね。馬車が通っても、あまり揺れなさそうです」
「馬車は走ってないけどな」
和彦がそう答えたところで、背後から車のエンジン音が聞こえてきた。振り返ったエリーゼは、近づいてくる乗用車を見て目を丸くする。車が二人の脇を通り過ぎると、彼女は驚いたようにその後ろ姿を見送った。
「ご主人様、今のは……馬がついておりませんでしたけれど、どうして動いているのでしょうか?」
「あれは自動車だよ。機械の力で走ってるんだ」
「まあ……あんなに速く走れるのですね」
「もっと速く走れるけど、こんな住宅街じゃ危ないからな」
「そうなのですね。こちらの世界には、不思議なものが本当に多いのですね。昨日のお掃除の道具もそうでしたけれど、まだまだ驚くことがありそうです」
「まあ、慣れれば普通になるよ。俺なんか、車が走ってても何とも思わないし」
「ふふっ、そうなのでしょうね」
二人は並んで歩き始めたが、しばらくすると、和彦はすれ違う人たちの様子が気になり始めた。犬を散歩させていた女性がこちらを振り返り、向こうから歩いてきた学生らしい二人組も、何やら小声で話している。最初は気のせいかと思ったものの、通りかかる人が何度も同じような反応をするので、さすがの和彦も不思議に思った。
「……なんか、やたら見られてるな」
「そうでしょうか?」
「いや、さっきから結構な人数が振り返ってるんだけど……」
そう言いながら隣のエリーゼを見て、和彦はようやく理由に思い当たった。銀色の長い髪に、黒を基調としたメイド服。白いエプロンには細かな飾りが施され、頭にはレースのついたカチューシャまで載っている。昨日から見慣れてしまっていたが、考えてみれば、こんな格好で住宅街を歩いている女性は滅多にいない。
「……ああ、そうか。その服か」
「私の服が、どうかなさいましたか?」
「いや、こっちじゃ、そういう服を着て歩いてる人ってあんまりいないんだよ」
「まあ、そうなのですか? 私はいつも、この服でお仕事をしておりましたので……」
「うん。俺も昨日から見てたから、すっかり慣れちゃってた」
エリーゼは自分の服を見下ろし、それから周囲へ目を向けた。ちょうど通りかかった女性がこちらをちらりと見たので、少し恥ずかしそうにエプロンの裾を整える。
「申し訳ありません、ご主人様。私の服装が、ご迷惑になってしまったのでしょうか?」
「いや、別に迷惑ってことはないよ。ただ、ちょっと目立つだけだから」
「そうでしたか……」
「そうだな。食材を買ったあとで、服も見に行こうか。その服しか持ってないんだろ?」
「はい。ほかの衣服は、すべて元の世界に置いてきてしまいました」
「だったら、どのみち必要だよな。毎日同じ服ってわけにもいかないし」
「ありがとうございます。ですが、お洋服まで買っていただくのは、少々申し訳ない気がいたします」
「気にしなくていいって。生活するのに必要なものなんだから」
エリーゼは少し迷ったようだったが、やがて小さく頭を下げた。和彦は彼女が何度も遠慮する理由を考えたものの、メイドとして働いてきた彼女にとって、主人から衣服を買い与えられることには何か特別な意味があるのかもしれない。
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
「ああ。好きなのを選んでくれればいいよ」
それから十分ほど歩くと、目的のスーパーマーケットが見えてきた。和彦が普段利用している店で、食料品から日用品まで一通り揃っている。もっとも、本人が買いに来るのは飲み物や菓子がなくなったときくらいで、野菜や肉を買った記憶はほとんどなかった。
店内へ入ると、エリーゼは入口近くに並んだ果物へ目を向けた。色とりどりの果物が山のように積まれ、その奥には野菜売り場が広がっている。
「まあ、こんなにたくさん……。こちらは、すべて食べ物を売っているお店なのですか?」
「ああ。食材なら大体何でもあるよ。とりあえず、好きなものを選んでくれ」
「よろしいのですか? では、まずはお野菜を見せていただきますね」
和彦がカートを押してついていくと、エリーゼは野菜売り場の前で足を止め、並んでいる商品を一つずつ確かめ始めた。人参や玉ねぎ、じゃがいもなど、彼女にも見覚えのある野菜が多いらしく、最初は少し緊張していた表情も次第に和らいでいく。
「こちらの人参は、私の国にあるものとほとんど同じですね。玉ねぎもございますし……まあ、じゃがいもまで」
「その辺は向こうにもあるんだな」
「はい。よくお料理に使っておりました。こちらの葉物野菜は初めて見ますけれど、どのように召し上がるのでしょうか?」
エリーゼが手に取ったのは、小松菜だった。和彦はしばらく考えたが、自分で調理したことがないので、具体的な料理が思い浮かばない。
「ええと……茹でたり、炒めたりするんじゃないかな」
「そうなのですね。では、こちらは?」
「それは……ほうれん草だったかな」
「ご主人様?」
「いや、名前くらいはわかるんだけど、料理のことはあんまり詳しくなくてさ」
エリーゼは少し不思議そうにしたものの、すぐに納得したように頷いた。
「そうでしたね。普段はお料理をなさらないと伺っておりましたので」
「そういうこと。だから、必要なものはエリーゼに任せるよ」
「かしこまりました。では、まずは今夜のお食事と、明日以降にも使えるものを選ばせていただきますね」
エリーゼは人参や玉ねぎ、じゃがいもを手に取り、状態を確かめてからカートへ入れていく。和彦にはどれも同じように見えるのだが、彼女は表面の傷や硬さを確認し、時には別のものと取り替えていた。
「そんなに違うもんなの?」
「はい。こちらの方が傷みも少ないですし、しばらく保存するのでしたら、できるだけ状態のよいものを選んだ方がよろしいかと」
「へえ。俺なんか、適当に上から取ってたよ」
「ふふっ、慣れればすぐにわかるようになりますよ」
その後もキャベツやきのこを選び、肉売り場へ移動する。パックに入った肉を見たエリーゼは、しばらく不思議そうに眺めていたが、すでに切り分けられていることがわかると、今度は種類や部位を確かめ始めた。
「こちらは、すでに切り分けられているのですね」
「ああ。好きなのを選べばいいよ」
「それでしたら、今夜は鶏肉を使った煮込み料理にいたしましょうか。お野菜もたくさん入れられますし、ご主人様のお口にも合うと思います」
「いいね。そういうの、しばらく食べてないな」
「では、こちらをいただきますね」
エリーゼは鶏もも肉のパックを手に取り、値札を見て首を傾げた。
「ご主人様、こちらに書かれている数字は、お値段でしょうか?」
「ああ。円っていうお金の単位だよ」
「円、ですか。私の国では銅貨や銀貨を使っておりましたけれど、こちらでは違うのですね」
「そうだね。紙のお金もあるし、硬貨もあるよ。あとで見せるよ」
「ありがとうございます。では、このお肉は……」
エリーゼは値札をもう一度確かめたが、すぐに困ったような顔になった。
「申し訳ありません。こちらのお金の価値がまだわかりませんので、高いのか安いのか判断できなくて……」
「まあ、最初は仕方ないよ。値段のことは気にしなくていいから、必要なものを選んでくれ」
「ですが、無駄遣いをするわけにはまいりませんし……」
「大丈夫だって。食費くらいなら、そんなに気にしなくていいよ」
エリーゼは少し考えたあと、鶏肉をカートへ入れた。和彦にとっては食費を気にせず買い物ができることなど当たり前だったが、彼女はそうではないらしい。
「では、できるだけ無駄が出ないように、お料理を考えますね」
「うん、よろしく」
和彦が気軽に答えると、エリーゼは嬉しそうに微笑んだ。その後、牛乳や卵、バターなどを買い足し、パン売り場へ向かう。エリーゼは袋に入った食パンを手に取り、興味深そうに眺めていた。
「こちらのパンは、ずいぶん柔らかそうですね」
「ああ。普通の食パンだよ。朝とかによく食べるやつ」
「そうなのですね。私の国では、もう少し硬いパンが多かったので……」
「じゃあ、食べてみる? せっかくだし買っていこうか」
「はい。ありがとうございます」
エリーゼはパンをカートへ入れ、ほかに必要なものがないか考え始めた。和彦はその間に菓子売り場へ目を向け、いつも買っているポテトチップスを二袋ほど手に取る。
「ご主人様、そちらは何でしょうか?」
「ああ、これ? お菓子だよ。じゃがいもを薄く切って揚げたやつ」
「まあ、じゃがいもを……。おいしいのでしょうか?」
「うまいよ。あとで食べてみる?」
「はい。ぜひいただいてみたいです」
エリーゼが興味を示したので、和彦はもう一袋追加した。買い物を終えてレジへ向かうと、セルフレジの前にカートを止め、商品を一つずつ取り出してバーコードを読み取らせていく。エリーゼは隣でその様子を眺めながら、和彦が袋に入れた商品を丁寧に並べ直していた。
「ご主人様、こちらは何をなさっているのですか?」
「会計だよ。ここに商品を通すと、値段が計算されるんだ」
「まあ……店員の方がいらっしゃらなくても、お買い物ができるのですね」
「ああ。便利だろ?」
「はい。本当に、こちらの世界には便利なものがたくさんあるのですね」
会計を済ませ、袋へ商品を詰めていると、エリーゼが自然に重いものを持とうとした。和彦は慌ててその袋を受け取り、代わりに軽いものを渡す。
「ああ、いいよ。俺が持つから」
「ですが、ご主人様に荷物を持っていただくわけには……」
「いや、二人で来てるんだから、分けて持てばいいだろ」
「……ありがとうございます」
エリーゼは少し申し訳なさそうにしていたが、結局、重い袋は和彦が持つことになった。
スーパーを出たあと、二人は近くの衣料品店へ向かった。店内には女性用の服が数多く並び、エリーゼは興味深そうに辺りを見回している。普段着から仕事着までさまざまな種類があり、彼女の知っている衣服とは形も素材も違うものが多いようだった。
「ここで普段着を何着か買っておこう。好きなのを選んでいいから」
「ありがとうございます。でも、どのような服を選べばよいのか、少し迷ってしまいますね」
「まあ、今までと全然違うだろうしな」
和彦は女性服の売り場を見回したが、普段から服装に気を遣っているわけでもないため、何を勧めればよいのかわからない。しばらく歩いていると、落ち着いた紺色のワンピースが目に入った。装飾も控えめで、エリーゼの雰囲気によく合いそうだ。
「こういうのはどう? エリーゼに似合うと思うけど」
「まあ、素敵ですね」
エリーゼはワンピースを手に取り、胸元や袖の形を確かめてから、和彦の顔を見上げた。
「ご主人様は、こういった服がお好きなのですか?」
「え? いや、エリーゼに似合うと思っただけだけど」
「そうなのですね。では、こちらにいたします」
「いやいや、自分が気に入ったものを選んでいいんだぞ?」
「はい。でも、ご主人様のお好みに合うのでしたら、私も嬉しいですから」
そう言って微笑むエリーゼに、和彦は少し困ったような顔をした。彼女にとっては主人の好みに合わせるのも仕事のうちなのかもしれないが、和彦としては、せっかく買うのだから本人が好きな服を着てほしい。
「まあ、気に入ったならいいけどさ。ほかにも何着か選んでくれよ。別に俺の好みとか気にしなくていいから」
「ありがとうございます。では、もう少し見せていただきますね」
エリーゼはその後、淡い色のブラウスや膝丈のスカートなどを選び、和彦に勧められて試着室へ入った。しばらくしてカーテンが開くと、先ほどの紺色のワンピースを着たエリーゼが姿を見せる。
「ご主人様、いかがでしょうか?」
「……へえ、いいじゃないか。やっぱり似合うな」
「本当ですか?」
「ああ。普通にこっちの人みたいだよ」
エリーゼは嬉しそうに微笑み、鏡の前でゆっくりと体を回した。銀色の髪が肩から滑り落ち、紺色の生地によく映えている。メイド服のときとはずいぶん印象が違い、和彦は改めて彼女が整った顔立ちをしていることに気づいた。
「ありがとうございます、ご主人様。私も、このお洋服はとても気に入りました」
「じゃあ、それは決まりだな。ほかのも試してみたら?」
「はい。少々お待ちくださいませ」
結局、ワンピースのほかにブラウスやスカート、部屋着などを数着購入することになった。靴も一足選び、最後に下着売り場へ向かうと、和彦は入口で足を止めた。
「……下着も必要だよな。そこは自分で選んでくれ。俺は向こうで待ってるから」
「かしこまりました。……こちらも、ご主人様のお好みを伺った方がよろしいでしょうか?」
「いや、それは聞かなくていいから!」
「ふふっ、冗談です」
普段は真面目なエリーゼが思いがけない冗談を口にしたので、和彦は少し驚いて彼女を見た。しかし、エリーゼは何事もなかったように一礼すると、楽しそうな表情で売り場の奥へ向かっていった。
「……意外と、そういう冗談も言うんだな」
和彦は小さく呟き、近くのベンチへ腰を下ろした。
買い物を終えて店を出るころには、すでに午後二時を回っていた。さすがに腹が減ってきたので、和彦は近くの飲食店で昼食を済ませようと提案したが、エリーゼは少し考えてから首を横に振った。
「せっかく食材を買っていただきましたので、帰って何かお作りいたしましょうか?」
「え、今から? 腹減ってるけど、結構時間かからない?」
「簡単なものでしたら、それほどお待たせしないと思います。今夜のお料理とは別に、すぐに作れるものも考えておりましたので」
「そうなのか。じゃあ、お願いしようかな」
「はい。お任せください」
帰り道、エリーゼは購入した服の袋を大切そうに抱え、時折、和彦に礼を言っていた。和彦としては必要なものを買っただけのつもりだったが、彼女にとってはそれ以上に嬉しいことだったらしい。
家に戻ると、エリーゼはさっそく台所へ向かい、買ってきた食材を冷蔵庫へしまい始めた。和彦も袋を運ぶのを手伝ったが、どこに何を入れればよいのかわからず、結局は彼女の指示に従って動くことになる。
「ご主人様、そちらのお野菜は下の引き出しへお願いいたします」
「ここ?」
「はい。ありがとうございます。それから、お肉はこちらに入れておきますね」
冷蔵庫の中が次々と食材で埋まっていく。昨日まで飲み物しか入っていなかったことを思うと、和彦には少し不思議な光景だった。
「じゃあ、俺はリビングにいるから。何かあったら呼んでくれ」
「かしこまりました。お食事ができましたら、お声をかけますね」
和彦がソファへ腰を下ろしてテレビをつけると、台所から包丁の音が聞こえ始めた。しばらくして油の弾ける音が加わり、やがて食欲をそそる香りが漂ってくる。
普段なら料理が届くまでスマートフォンを眺めているところだが、今日は台所から聞こえてくる音が妙に気になった。誰かが自分の家で料理をしているというのは、両親が亡くなって以来、ほとんど経験していないことだった。
「ご主人様、お待たせいたしました。お食事の用意ができました」
エリーゼに呼ばれて食卓へ向かうと、皿には鶏肉と野菜を炒めた料理が盛られ、隣には軽く焼いたパンが添えられていた。湯気とともに香ばしい匂いが立ち上り、和彦の腹が小さく鳴る。
「おお、うまそうだな」
「ありがとうございます。簡単なものですけれど、どうぞ召し上がってください」
和彦は椅子へ腰を下ろし、フォークで鶏肉を一切れ口へ運んだ。表面にはほどよく焼き色がついており、中は柔らかい。玉ねぎの甘みとバターの香りがよく合い、思わずもう一口食べたくなる。
「……うまいな、これ」
「本当ですか?」
「ああ。すごくうまいよ。エリーゼって、料理も得意なんだな」
「ありがとうございます。伯爵家では厨房のお手伝いもしておりましたので、簡単なお料理でしたら作れるんですよ」
「へえ。メイドって、料理もするんだ」
「普段のお食事は料理人が用意しておりましたけれど、人手が足りないときには私もお手伝いしていました。それに、使用人たちの食事を作ることもありましたので」
「なるほどな。じゃあ、結構慣れてるんだ」
「はい。ただ、こちらの食材や調味料には、まだ慣れておりませんので……。お口に合わないものがございましたら、遠慮なくおっしゃってくださいね」
「いや、これなら文句なんてないよ。毎日でも食べたいくらいだ」
和彦がそう答えると、エリーゼは嬉しそうに微笑んだ。自分の分の料理を口へ運び、味を確かめるようにゆっくりと噛んでいる。
「……本当ですね。こちらのお肉は、とても柔らかいです。それに、バターの香りもよくて……」
「向こうの世界とは違うのか?」
「はい。もちろん、私の国にもおいしいお肉はございましたけれど、こちらのものは少し違うように感じます。調味料も、まだ使い慣れていないものが多いですし」
「そっか。まあ、いろいろ試してみればいいんじゃないかな。食材なら、また買いに行けばいいんだし」
「ありがとうございます。では、少しずつ覚えていきますね」
二人はその後も、料理や食材について話しながら昼食を済ませた。エリーゼは日本の食材に興味があるらしく、和彦が知っている範囲で説明すると、熱心に耳を傾けていた。
もっとも、和彦自身も料理について詳しいわけではないため、途中からはスマートフォンで調べながら答えることになった。
「ご主人様、その道具には、本当にいろいろなことが書かれているのですね」
「ああ。わからないことがあったら、大体これで調べられるよ」
「まあ……それでしたら、お料理の作り方も調べられるのでしょうか?」
「もちろん。写真つきで説明してるのもあるし、動画で見られるのもあるよ」
「動画、ですか?」
「動く映像だよ。そうだな……今度、見せてあげるよ」
「はい。楽しみにしております」
食事を終えると、エリーゼは食器を片づけ、夕食の下ごしらえを始めた。今夜は鶏肉と野菜をじっくり煮込んだ料理にするつもりらしく、買ってきた食材を並べながら、どの鍋を使うか考えている。
和彦はしばらくその様子を眺めていたが、やがてソファへ戻り、いつものようにゲーム機の電源を入れた。画面に見慣れたタイトルが表示されると、コントローラーを手に取り、昨日の続きから遊び始める。
台所からは包丁の音や鍋の蓋を動かす音が聞こえていたが、エリーゼが特に困っている様子もなかったので、そのままゲームを続けた。
夕方になり、窓の外が薄暗くなり始めたころ、台所から煮込み料理の香りが漂ってきた。和彦はゲームを一時停止し、何となくそちらへ目を向ける。
「……いい匂いだな」
思わず呟くと、台所からエリーゼの声が返ってきた。
「ありがとうございます、ご主人様。もう少し煮込めば完成いたしますので、あと少々お待ちくださいね」
「ああ、わかった。楽しみにしてるよ」
それからしばらくして、エリーゼが夕食の用意ができたと知らせに来た。食卓には鶏肉と野菜の煮込み料理に、じゃがいものスープ、軽く温めたパンが並んでいる。昼食とはまた違った香りが漂い、和彦は思わず顔をほころばせた。
「おお、今度もすごいな。これ、全部エリーゼが作ったの?」
「はい。私の国でもよく作られているお料理なんです。こちらの食材で同じ味になるか少し心配でしたけれど、何とかできました」
「へえ。じゃあ、異世界の料理ってことか」
「そうなりますね。特別なお料理ではありませんけれど、よろしければ召し上がってください」
和彦はスプーンで煮込み料理をすくい、口へ運んだ。鶏肉は柔らかく煮込まれ、野菜の甘みがスープに溶け込んでいる。味つけは比較的あっさりしているものの、物足りなさはなく、パンを浸して食べるとよく合った。
「……うまい。昼のもよかったけど、こっちもかなりうまいな」
「ありがとうございます。ご主人様のお口に合って、本当によかったです」
「いや、これなら毎日楽しみだよ。今まで出前ばっかりだったからさ」
「そうなのですね。では、これからはできるだけ、温かいお食事をご用意いたしますね」
「うん、よろしく頼むよ」
エリーゼは嬉しそうに頷き、自分も料理を食べ始めた。和彦はパンをもう一切れ取り、煮込み料理のスープをつけながら、久しぶりに誰かと食卓を囲む時間を楽しんだ。
食事を終えると、エリーゼは空いた食器を重ね、台所へ運び始めた。和彦も椅子から立ち上がり、何となく冷蔵庫へ目を向ける。昨日までは飲み物しか入っていなかった冷蔵庫が、今では野菜や肉、卵などでいっぱいになっていた。
「そういえばさ、明日も買い物に行くの?」
「いいえ。今日買っていただいた食材がまだございますので、しばらくは大丈夫だと思います。傷みやすいものから使えば、数日分のお食事はご用意できますよ」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、毎日買い物に行かなくてもいいんだな」
「はい。ただ、新鮮なものを使いたいときや、足りない食材があるときには、またお願いするかもしれません」
「それくらいなら全然いいよ。じゃあ、食事のことは任せてもいいかな」
「もちろんです。それが私のお仕事ですから」
エリーゼはそう答えると、嬉しそうに微笑んだ。
和彦はリビングへ戻り、ソファに腰を下ろした。テレビのリモコンを手に取ったところで、ふと、台所から聞こえてくる水の音に耳を傾ける。
昨日まで、この家には自分一人しかいなかった。食事は出前で済ませ、掃除も洗濯も気が向いたときにしかしない。誰かと話すこともほとんどなく、一日中ゲームをしていても、文句を言う人間はいなかった。
それが、たった二日でずいぶん変わったものだ。
もっとも、和彦自身が何か変わったわけではない。今日だって、買い物から帰ったあとはほとんどゲームをしていたし、明日も特に予定があるわけでもない。
ただ、これからは食事の時間になると台所からおいしそうな匂いが漂ってくるのだろう。
「……まあ、悪くはないか」
和彦は小さく呟き、テレビの電源を入れた。
台所では、エリーゼが鼻歌を口ずさみながら食器を洗っている。その旋律は和彦の知らないものだったが、どこか楽しそうに聞こえた。




