エリーゼの異世界転移
掃除機を抱えて二階へ戻ってきた和彦は、客間の入り口で足を止めた。
窓際の棚を拭いていたエリーゼが、こちらに気づいて振り返る。先ほどまで薄く埃をかぶっていた棚はすっかりきれいになり、隅に寄せられていた椅子も、いつの間にか拭き終えているようだった。
「お待たせ。これが掃除機だよ」
「ありがとうございます、ご主人様。床のお掃除に使う道具でしたね」
「ああ。ちょっと見ててくれ」
エリーゼが雑巾をバケツの縁にかけるのを待ち、和彦は掃除機を床へ下ろした。コードを引き出して壁のコンセントに差し込み、持ち手のスイッチを押す。
「きゃっ!」
モーターが唸り始めた途端、エリーゼが一歩後ずさった。和彦は慌ててスイッチを切り、彼女の顔を見た。
「ああ、ごめん。先に言っとけばよかったな。結構うるさいんだよ、これ」
「い、いえ。私こそ、大きな声を出してしまって……。何か飛び出してくるのかと思いました」
「音がするだけだから大丈夫。ここから埃を吸い込むんだ」
床に接している吸い込み口を指さしてから、もう一度電源を入れる。今度はエリーゼも驚かなかったが、和彦の手元を見つめる顔には、まだ少し緊張が残っていた。
掃除機をゆっくり前後に動かすと、床に落ちていた埃や小さな糸くずが消えていく。エリーゼはその跡を確かめるように身をかがめ、やがて和彦の隣へ歩み寄った。
「ご主人様、私にも使わせていただけますか?」
「もちろん。そのために持ってきたんだから」
いったん電源を切って持ち手を渡すと、彼女は両手で握り、教わったスイッチへ指を添えた。音が鳴った瞬間に肩がわずかに動いたものの、すぐに床へ目を戻し、和彦がしたように掃除機を動かし始める。
「そんなに力を入れなくても大丈夫だよ。ゆっくり動かせば吸ってくれるから」
「はい。……まあ、本当ですね。箒で集める必要もないのですね」
少し動かしては床を確かめていたエリーゼも、扱いがわかるにつれて手つきが滑らかになっていく。椅子を脇へ寄せ、家具の脚の周りにも丁寧に吸い込み口を通していた。
「こちらは、絨毯にも使えるのでしょうか?」
「ああ、使えるよ。むしろ、そっちの方が便利なんじゃないかな」
「それは助かります。伯爵家では外へ運び出して埃を落としていましたから、大きなものをお掃除する日は、人手を集めるところから始めていたんですよ」
「へえ。絨毯って、敷いたまま掃除するもんだと思ってた」
「運び出すだけでも大変なんです。こちらがあれば、皆も喜ぶでしょうね」
そう話す間にも、エリーゼは壁際へ掃除機を滑らせていく。和彦なら見過ごしてしまうような隙間にも目を配り、届きにくいところでは持ち手の角度を変えていた。
「……なんか、もう俺より上手いな」
「そうでしょうか。まだ、どのくらい動かせばよいのかわからなくて」
「十分だよ。俺なんか、これを出すのも何か月ぶりかわからないし」
エリーゼの手が一瞬だけ止まり、すぐにまた動き出した。何も言われなかったので、和彦もそれ以上は口を開かず、邪魔にならないよう入り口の脇へ移った。
十分ほどで床の掃除を終えると、エリーゼはスイッチを切り、部屋を見回した。窓から入る風にカーテンが揺れ、久しぶりに人を泊められそうな客間になっている。
「これで、ひとまず大丈夫だと思います。あとは寝具を整えれば、今夜から使えそうですね」
「そっか。ほかの道具も、今のうちに教えておこうか。台所とか洗濯機とか、使うだろうし」
「はい、お願いします。先ほどから、気になっていたものがいくつもあるんです」
コンセントからプラグを抜き、コードを巻き取ってみせると、エリーゼは最後まで熱心に見ていた。和彦は掃除機を廊下の収納へ戻し、彼女を連れて一階へ下りた。
台所へ入ると、まずガスコンロの前に立ち、つまみを押し回す。カチカチという音に続いて青い炎が上がり、横から覗いていたエリーゼが感心したように声を漏らした。
「薪も炭もいらないのですね。こちらを回すだけで火がつくのですか?」
「ああ。強さもここで変えられるよ。ほら、こっちに回すと弱くなる」
「まあ……これなら、鍋を動かさなくても火加減を変えられますね」
和彦が火を消して場所を譲ると、エリーゼはつまみへ手を伸ばし、慎重に押し回した。炎がついたのを確かめてから少しずつ弱め、最後にもう一度消してみる。
「どう?」
「使いやすいです。竈の火に慣れるまでは、鍋を焦がして叱られたこともありましたけれど、こちらなら失敗も減りそうですね」
「エリーゼでも、そんなことあるんだな」
「ありますよ。最初から何でもできたわけではありませんから」
エリーゼが少し恥ずかしそうに笑ったので、和彦もつられて笑った。つまみが元に戻っているのを確かめてから、隣の電子レンジへ手を伸ばす。
「こっちは、料理を温めるもの。皿を入れて、扉を閉めて、このボタンを押すんだ」
「こちらにも火がつくのでしょうか?」
「いや、火は出ないよ。……どうやって温まるのかは、俺も詳しく知らないんだけど」
扉を開けて中を見せながら、金属の食器は入れないことや、使える容器を簡単に説明した。今すぐ温めるものもないので、実際に使うときにもう一度教えることにして、次に冷蔵庫を開ける。
エリーゼはひんやりした空気に目を丸くしたが、中を覗き込むうちに、不思議そうな顔になった。
「ご主人様、こちらは食べ物を冷やしておく場所なのですよね?」
「ああ。冷やしておくと長持ちするからさ」
「お飲み物は、たくさん入っているのですね」
「いつもまとめて頼んでるんだよ。水とかお茶とか、なくなるたびに買うのも面倒だし」
「そうでしたか」
エリーゼは下の段まで視線を巡らせ、そっと扉を閉めた。和彦はそのまま洗面所へ向かい、今度は洗濯機の蓋を開けた。
「服はここに入れて、洗剤はこっち。あとは電源を入れて、このボタンを押せば洗ってくれるよ」
「お水を入れるのも、自動なのですか?」
「そう。終わったら音が鳴るから、取り出して干せばいい」
「水を絞るところまでしてくれるのでしょうか?」
「ああ。取り出したときは、もう水が垂れないくらいになってる」
「それは助かります。冬はなかなか乾きませんし、厚い布を絞るのも大変なんです」
エリーゼは蓋の裏や洗濯槽の中を眺め、それから操作パネルの文字へ目を移した。和彦も隣から覗き込み、普段押しているボタンを指で示す。
乾燥と書かれたボタンも目に入ったが、こちらは買ってから一度も使ったことがない。聞かれても困るので、ひとまず自分が使えるところだけ教えることにした。
続いて浴室へ案内し、シャワーからお湯を出してみせると、エリーゼは差し出された湯へそっと指先を触れた。
「お湯まで出るのですね。これなら、お風呂の支度もすぐに済みそうです」
「ああ。温度はここで変えられるから、熱かったら下げてくれ。湯船にも入りたければ、こっちから溜められるよ」
「ご主人様は、毎日こちらへ入られるのですか?」
「いや、シャワーだけの日が多いかな。風呂掃除して、お湯を溜めてっていうのが面倒でさ」
エリーゼは浴槽へ目を向けたあと、もう一度、蛇口から出るお湯を眺めた。
「……お湯を沸かして運ぶ必要がなくても、面倒なのですね」
「そう言われると、何も言えないんだけど」
「では、お掃除は私がしておきますね。せっかくですから、ゆっくりお入りになってください」
責めるような口調ではなかっただけに、和彦は頭をかくしかなかった。
トイレでは、水を流すレバーと紙の場所を教えたところまではよかったが、便座の横に並んだボタンを指さされて言葉に詰まった。
「こちらも、お掃除に使うものですか?」
「ああ、いや、それは……体を洗う方で」
「体を、ですか?」
「お湯が出るんだよ。とりあえず、今は使わなくても大丈夫だから。あとで説明するよ」
エリーゼは不思議そうにしながらも頷き、和彦は便座の蓋を閉めた。説明書が残っているなら、自分も一度読んでおいた方がよさそうだった。
家の中を案内し終え、リビングへ戻るころには午後六時を過ぎていた。和彦がソファへ腰を下ろすと、エリーゼは壁の時計を見上げ、台所の方へ向き直った。
「そろそろ、お夕食の支度をいたしましょうか。何か召し上がりたいものはございますか?」
「ああ、そうだな。……って、食材がないんだった」
「先ほどの冷蔵庫には見当たりませんでしたけれど、ほかに保管されているものはございますか? お芋や小麦粉でもあれば、何かお作りできると思うのですが」
「いや、ないよ。調味料なら、少しはあったかな」
エリーゼはしばらく和彦の顔を見ていたが、やがて台所の戸棚へ目を向けた。
「少し、中を確かめてもよろしいでしょうか?」
「いいけど、たぶん何もないぞ」
和彦も後ろからついていき、一緒に戸棚を覗き込んだ。出てきたのは使いかけの塩と砂糖、醤油、それに買ったことすら忘れていたインスタントスープが数袋。箱に書かれた賞味期限を見て、和彦はそのまま脇へよけた。
「……これも、だいぶ前に切れてるな」
「お塩とお砂糖だけでは、さすがに……」
「だから、エリーゼが来なかったら、今日も普通に出前を頼んでたんだって。明日、買いに行こう。近くにスーパーがあるからさ」
「食材を売っているお店でしょうか?」
「ああ。肉も野菜も売ってるよ。一緒に行って、必要なものを選んでくれればいいから」
「私が選ばせていただいてもよろしいのですか?」
「もちろん。俺が選んでも、何を買えば料理になるのかわからないし」
エリーゼは戸棚を閉めると、嬉しそうに頷いた。
「では、明日はお任せください。こちらにどんな食材があるのか、楽しみです」
「使い方のわからないものもあるかもしれないぞ」
「そのときは、ご主人様に教えていただきます」
「いや、俺も料理のことは全然……まあ、調べれば何とかなるか」
和彦はポケットからスマートフォンを取り出し、いつものアプリを開いた。エリーゼも隣へ来て、画面に並ぶ料理の写真を覗き込む。
「何か食べてみたいものはある?」
「どれもおいしそうですけれど、まだよくわかりませんので、お任せしてもよろしいでしょうか?」
「じゃあ、今日は和食にするか。昼はピザだったし」
「わしょく、というお料理なのですか?」
「日本の料理ってことだよ。魚とか、米とか……ああ、この店でいいかな」
近所の定食屋を選び、焼き魚定食を二人分、注文画面へ加える。その手元を見ていたエリーゼが、遠慮がちに尋ねた。
「その道具から、お店へお願いできるのですよね。お昼も、そうして届けていただいたのでしょうか?」
「そうだよ。料理を選んで注文すると、店に連絡が行くんだ。あとは作って届けてくれるのを待つだけ」
「お店へ行かなくても、こんなにいろいろなお料理を選べるのですね」
「ああ。便利だろ?」
「はい。ご主人様のおうちに食材がない理由も、わかった気がします」
「……これ、俺だけが使ってるわけじゃないからな」
「そうなのですか?」
エリーゼに真顔で聞き返され、和彦は返事の代わりに注文を確定した。
夕食が届いたのは、それから四十分ほど経ったころだった。エリーゼがテーブルを空けてくれたので、和彦は袋から料理を取り出し、二人分を向かい合わせに並べていく。
焼き魚にご飯、味噌汁と漬物。エリーゼはそれぞれの蓋を外しながら、初めて見る料理を一つずつ確かめていた。
「こちらの白いものが、先ほどおっしゃっていたお米ですか?」
「ああ。炊く前はもっと硬いんだけど、水を入れて炊くと、こうなるんだ」
「私の国では、あまり見かけませんね。お魚と一緒にいただくのでしょうか?」
「好きに食べていいよ。……ああ、箸は初めてか」
エリーゼは和彦の持ち方を真似ようとしていたが、二本の箸が指の間で交差してしまっている。和彦は台所からフォークとスプーンを持ってきて、彼女の前へ置いた。
「今日はこっちを使ってくれ。箸は、そのうち練習すればいいから」
「ありがとうございます。ご主人様は、器用にお使いになるのですね」
「子供のころから使ってるからな。慣れだよ、慣れ」
エリーゼはまずご飯を少し口へ運び、ゆっくりと噛んだ。それから魚の身をほぐして食べ、もう一度ご飯へスプーンを伸ばす。
「おいしいです。このお魚と、よく合いますね」
「だろ? 骨があるから、そこだけ気をつけてな」
「はい。こちらの汁物もいただいてみますね」
味噌汁の蓋を開けたエリーゼに具を尋ねられ、和彦は豆腐とワカメについて、知っている範囲で説明した。彼女が頷きながら聞いているのを見て、ふと、今さらのような疑問が浮かんだ。
「そういえばさ、俺たち、普通に話してるよな」
「はい?」
「エリーゼは別の世界から来たんだろ? 日本語なんて、習ったことないよな」
「ありません。ご主人様がお話しされている言葉も、私には普段使っている言葉と同じように聞こえていますけれど……」
そこまで答えたエリーゼも、ようやく気づいたらしく、手にしていたスプーンを置いた。
「ご主人様には、私の言葉がわかるのですね?」
「ああ。普通に日本語を話してるように聞こえるよ」
「私はアルヴェール王国の言葉を使っているつもりなのですが……。お昼から、何も考えずにお話ししていました」
「俺も、ほかに驚くことが多すぎて、気にしてなかったな」
和彦は箸を置いてスマートフォンを手に取り、メモアプリを開いた。「こんにちは」と入力してから、エリーゼへ画面を向ける。
「これ、読める?」
「『こんにちは』ですね」
「そっちでも、こういう文字を使ってるのか?」
「いいえ。見たことのない文字ですけれど、何と書かれているのかはわかります」
「……じゃあ、これは?」
今度は「明日は買い物に行きます」と打ち込んでみると、エリーゼは迷わず読み上げた。文字を一つずつ確かめる様子もなく、和彦が読むのと変わらない。
「さっき、洗濯機のボタンを見てたよな。あれも読めてた?」
「はい。ただ、すすぎや脱水というのが、どの作業なのかわからなかったものですから、ご説明を聞いていました」
「なるほど。読めるのと、使い方がわかるのは別か」
和彦は棚の引き出しから紙とボールペンを取り出し、空いている場所へ置いた。
「今度は、エリーゼの国の文字を書いてみてくれないか。名前とか、何でもいいから」
「はい。……こちらは、このまま書いてよいのでしょうか?」
ボールペンを受け取ったエリーゼは、先端と紙を見比べている。和彦が紙の端に線を引いてみせると、彼女は小さく声を漏らし、軸の部分まで眺め直した。
「中にインクが入ってるんだよ。つけ直さなくても書けるから」
「便利ですね。お仕事のときにも使いやすそうです」
エリーゼは紙へ向き直り、中央にいくつかの文字を記した。曲線の多い、見たこともない形が横に並んでいる。
和彦は身を乗り出して眺めたが、何度見ても意味は浮かんでこなかった。
「……名前?」
「はい。エリーゼと書きました。ご主人様には、どのように見えるのでしょうか?」
「知らない文字に見えるだけだな。エリーゼって教えてもらわなかったら、何が書いてあるか全然わからない」
「私は、こちらの文字も読めるのですが……」
エリーゼは自分の名前を指でなぞり、それからスマートフォンの画面へ視線を移した。和彦も二つを見比べながら、椅子の背へ体を預ける。
「言葉はお互いに通じるのに、文字はエリーゼだけか。……異世界に来た方に、何かつくのかな」
「何か、というのは?」
「言葉がわかる能力とか。そういう話、結構あるんだよ」
エリーゼが顔を上げたので、和彦は慌てて言葉を足した。
「いや、小説とか漫画の話な。別の世界に行った人が、向こうの言葉を知らないのに、最初から普通に話せるんだ」
「私のような人が出てくるお話があるのですか?」
「山ほどあるよ。俺も好きで、昔からよく読んでる」
「では、その人たちは、どうして言葉がわかるようになるのでしょう?」
「神様に能力をもらったり、呼び出す魔法にそういう効果があったり……理由は話によって違うな。説明がないまま、普通に通じてることもあるけど」
エリーゼは少し考え、目の前の紙へ視線を落とした。
「私も、こちらへ来るときに、何か魔法がかかったのでしょうか」
「その可能性はあるかもしれないけど、俺にはわからないよ。今のは全部、作り話の中でのことだからさ」
「そうですよね……。でも、お話の中では、こちらへ来た人が元の世界へ帰れることもあるのでしょうか?」
「あるよ。帰る方法を探して旅をする話もあるし、呼び出した人に送り返してもらう話もある」
「では、誰かに呼ばれて来ることも?」
「ああ。魔王を倒す勇者として呼ばれるとか、その国を助けてほしいって頼まれるとか。そういうのも、よくある話だな」
エリーゼは真剣に聞いていたが、やがて自分の手へ目を落とし、困ったように笑った。
「私は剣も使えませんし、魔物と戦うこともできませんから、呼び間違えられていたら申し訳ないですね」
「いや、別にエリーゼがそうだって言ってるわけじゃ……。そもそもこっちには魔王もいないし」
「それでしたら、よかったです」
ほっとしたように言われ、和彦も笑って箸を持ち直した。魚を一口食べたところで、今度はエリーゼの方から尋ねてくる。
「ほかには、どのようなことが起きるのでしょうか?」
「そうだな。魔法が使えるようになったり、魔物を倒すとレベルが上がったり。エリーゼのところにも、レベルってある?」
「れべる……というのは、何でしょう?」
「ええと、強さを数字で表したもの、かな。敵を倒していくと数字が上がって、力が強くなったり、新しい魔法を覚えたりするんだ」
「戦いながら、魔法を教わるのですか?」
「教わるっていうか、急に使えるようになる感じなんだけど……説明しようとすると難しいな、これ」
ゲームならいつものことだが、知らない相手に話そうとすると、うまく言葉にできない。和彦が考えていると、エリーゼは小さく首を傾げた。
「私の知る限りでは、そのようなことはありませんね。剣も魔法も、使えるようになるまで練習を重ねるものだと思います」
「そっか。まあ、そうだよな。何でもゲームと同じってわけじゃないか」
和彦は味噌汁に口をつけ、少し冷めていることに気づいた。エリーゼの食事も途中だったので、先に食べようと促したが、話が気になるらしく、その後も時折、質問が飛んでくる。
別の世界へ行った人はどこに住むのか。仕事はどうするのか。元の世界の道具を持っていくこともあるのか。
和彦は思い出せる小説や漫画の話を交えながら答えた。冒険者になって宿代を稼ぐ主人公もいれば、料理を売って暮らす主人公もいると話すと、エリーゼはそちらに興味を示した。
「私も、こちらのお料理を覚えれば、お役に立てそうですね」
「もう掃除してもらってるだけで、十分助かってるよ。料理まで急いで覚えなくてもいいから」
「でも、先ほどのようなお話を伺うと、少し安心します。知らない場所でも、暮らし方を見つけていく方がいるのですね」
「だから、実際にいるわけじゃなくて……」
「はい、お話の中の方なのですよね」
エリーゼは微笑み、ご飯を一口食べてから続けた。
「それでも、私は今日まで、別の世界があることも考えたことがありませんでした。ご主人様は、こちらへ来た人がどう暮らすかまで、いろいろとご存じなのですね」
「いや、読んでただけなんだけどな」
「それだけたくさんのお話を覚えていらっしゃるのでしょう? ご主人様は博識なのですね」
和彦は箸を止め、何と答えたものか考えた。勉強のために読んでいたわけでもなければ、人に教えられるような知識を身につけたつもりもない。暇に任せて読んできた小説の話をしただけで、そんなふうに感心されるとは思わなかった。
「……あんまり、当てにされても困るぞ。魔法の使い方を聞かれたって、わからないし」
「はい。でも、またお話を聞かせてください。先ほどの、お料理を売る方のお話も、もう少し伺いたいです」
「ああ、それなら……まず飯を食べ終わってからな。すっかり冷めちゃったし」
「申し訳ありません。つい、いろいろとお聞きしてしまって」
「俺も喋りすぎたよ」
和彦が残りの魚へ箸を伸ばすと、エリーゼも食事へ戻った。しばらくは食器の触れる音だけが続いたが、向かいに人が座っているせいか、いつもの夕飯ほど静かには感じなかった。
食べ終えると、エリーゼは空いた容器を重ね、汁物の器をまとめ始めた。和彦も自分の分を寄せながら、壁の時計へ目を向ける。
「明日の買い物、昼くらいでいいかな。俺、いつも午後まで寝てるから、あんまり早くは起きられないと思う」
「かしこまりました。それまでに、お掃除を済ませておきますね」
「今日あれだけやったんだし、そんなに頑張らなくてもいいよ。まだ来たばっかりなんだから」
「ありがとうございます。でも、何もせずに待っているのも落ち着かなくて。お邪魔にならないところから、少しずつさせてください」
「邪魔ってことはないけど……。まあ、疲れたら休んでくれよ」
「はい。では、こちらを片づけてきますね」
エリーゼが台所へ向かうと、和彦はソファへ移り、テレビのリモコンを手に取った。画面をつけようとして、食卓に置かれたままの紙が目に入る。
読めない文字で書かれたエリーゼの名前。その横には、ボールペンの使い方を教えたときの、短い線が一本残っていた。
明日は彼女とスーパーへ行くことになった。普段なら食事のために外へ出るのも面倒だが、エリーゼがどんなものを選ぶのかは少し気になる。あの何も入っていない冷蔵庫の中身も賑やかになるだろうか。
台所から水の流れる音が聞こえ、和彦はリモコンをテーブルへ戻した。
「……そういえば、財布どこにやったかな」
いつも注文はスマートフォンで済ませているので、最後に持ち歩いた日も思い出せない。明日、出かける前に探し始めたらエリーゼを待たせることになりそうだと考えた和彦は、彼にしては素早い動きで腰をあげた。




