あいにくの男
雨が上がった、次の晩のことだった。
時折、「おい、ねえちゃん」と声をかけてくることはあったが、
「相談は銅貨1枚」と私が蝋燭の向こうから一瞥をくれると、皆一様に気味悪そうに首をすくめて去っていった。冷やかしにもならない。
一時間が経ち、私は諦めて店を閉じることにした。客がゼロの夜など、この先いくらでもある。早く戻って、東棟の歴史書の続きを読んだほうが、よっぽど有意義だ。
脚の欠けた小机を布で包み、最後の蝋燭を指でつまんで消そうとした、その時だった。
「おい。何の店だ、これは」
通りの向こうから、ふらつく足取りで、一人の男が近づいてきた。声の調子からして、誰かに用があって来たわけじゃない。ただの、通りすがりだ。
街灯の薄明かりの下でも嫌に目を引く、夜の闇を弾くような金の髪。見開かれた目は、昼間の晴天をそのまま切り取ってきたような、鮮やかな青。仕立てのいい上質な外套は、片方の襟が変な方向に折れたままだった。腰の剣は、歩くたびに脚に当たって、鞘の先が跳ねている。
外套の隙間から、王宮騎士団の詰所でよく見かける、格式高い鷲の紋章が覗いている。
男は机の上の包みに目をやり、それから私の顔を、上から下まで無遠慮に眺め回した。
ふん、と鼻先で笑う。
「その顔と体で、こんな辻売りとはね。……もったいない。二本先の路地に、もっと稼げる店があるだろうに。そっちのほうが、客も喜ぶ」
悪意で言っているんじゃない。むしろ、親切のつもりですらあるらしい。この男にとって、女が夜に人前に立つ理由は、ひとつしかないのだ。それ以外の理由があるかもしれない、という発想そのものが、頭に浮かんでいない。
思わず、笑ってしまった。
悪態のつもりで吐いた台詞の中に、お世辞が混ざっている。けなしているようで、顔と体だけは褒めているのだ。
「──ご忠告、どうも」
私は口の端を上げて、軽く受け流した。
男は、鼻白んだ様子もなく、むしろ面白がるように口の端を歪めた。
「気の強い女だな。……ま、それも悪くない」
男は、一歩、距離を詰めてきた。酒と、それから、良い匂いのする香油の匂い。育ちの良さを、匂いにまで纏わせている男だった。
「気に入った。今夜だけでいい、買ってやる」
男の手が、私の腕に触れた。値踏みするような、確かめるような、遠慮のない手つきだった。
「相場より弾んでやる」
私は、肩の上の手には、目もくれなかった。
「──あんたが買いたいのは、あたしの夜じゃない」
男の指が、一瞬、止まった。
「自分ひとりと過ごす夜が、怖いだけでしょう」
「……なんだと」
男の顔から、面白がる余裕が、すっと消えた。
「誰に向かって、そんな……! 貴様、私を愚弄する気か!」
声が、一段跳ね上がる。肩の手に、力がこもった。夜を買うと言って、断られたことなど一度もなかったんだろう。頭に血が上って、酔いと合わさって、ますます見境がなくなっている。
男が、怒りに任せて顔を近づけてきた。
私は懐から、小さな玻璃の小瓶を取り出し、蓋を開けた。中身は、気持ちをゆるく鎮める、眠りの香りだ。害はない。ただ、酒と重なると、少し早く効く。
男の鼻先に、瓶の口をそっと寄せる。
「……あんた、少し、休んだほうがいい」
「な、に……」
男の目の焦点が、ふっと緩んだ。怒りの形に強張っていた眉が、糸が切れたように下がる。
「お、い……身体が、」
言い終わる前に、男の膝から力が抜けた。傾いだ体が、そのまま私のほうへ、ゆっくりと倒れ込んでくる。
──重い。
思ったよりずっと重くて、私は一瞬、足を踏ん張った。それでも、意外なほど支えられる重さだった。外套を着けているわりに、身にまとっているのは重さばかりで、芯の重さがない。日々鍛えている人間の体じゃないんだろう。
私は男の体を引きずるようにして、街灯の下、壁際まで運んだ。座らせて、背中を壁にもたせかける。少なくとも、道の真ん中で寝かせておくよりは、通りすがりに蹴飛ばされない。
外套の襟を、軽く直してやった。理由はない。ただの、癖のようなものだった。
寝息を確かめてから、私は小机を布に包み直した。
朝になれば、男は自分がどうやってここに座っているのか、覚えていないだろう。覚えていたとしても、酔って正体をなくした話を、進んで誰かに話すとも思えない。
物置へ続く北側の窓を目指し、私は夜の闇へと溶けていった。
(第7話・了)




