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悪女の正体は、図書館の隅で本を読んでいた埃です  作者: ゆあ


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長話のご夫人



 商売を始めて、十日あまり。客のいない夜のほうが、まだ多かった。


 その夜、机の前で足を止めたのは、恰幅のいい年配の女だった。上等な生地の外套。指には金の指輪。この界隈のご婦人がたにしては、夜歩きに慣れた足取りだった。


「あら」


 女は私を見て、目を細めた。


「ずいぶんと、めずらしいお顔ね。あたくし、この街に四十年住んでいるけれど、あなたみたいな人、初めて見たわ。よそから、いらしたの?」


 私は曖昧に首を傾けた。答えないのも答えのうちだ。


「まあ、いいわ。ちょっと座らせてちょうだいな」


 銅貨の話をする前に、女はもう腰を下ろしていた。そして──話し始めた。


 それは、相談ではなかった。世間話ですらなかった。ただの、長い長い、独り言だった。


 嫁いできた頃のこの街の様子。今はなくなった菓子屋のこと。娘が三人いて、それぞれどこへ嫁いで、孫が何人いて。近所の誰それの噂。若い時分に見た、祭りの夜の灯りの色。


 私は、聞いていた。


 相槌を打つでもなく、ただ、聞いていた。夫人は私の反応など初めから求めていない。言葉を、川のように流し続けている。


 でも、聞いているうちに、いくつか、引っかかることがあった。


 夫人は、蝋燭のこちら側、光の一番強いところに、椅子を寄せて座っている。最初からそうだったのか、話しながら少しずつにじり寄ったのか、私には分からない。ただ、気づけば、夫人の顔だけが妙に明るい場所にあった。


 それから、手の動き。


 机の端に置かれた、私の湯呑みに軽く触れたとき。夫人の手は、湯呑みを見てから伸びたんじゃなかった。先に指が触れて、そのあとで、目がそこを追いかけた。物の位置を、目より先に、指で確かめる癖。


 話の中身にも、同じ気配があった。若い時分の祭りの灯りの色を、夫人はやけに詳しく語った。橙色だった、それとも朱に近かったか、いいえ、もっと金色がかっていたはずだわ──色をひとつ、何度も塗り直すみたいに、確かめながら話す。


「あたくし、近頃、夜のほうが好きになったの」


 ふいに、夫人はそう言った。


「不思議でしょう。若い時分は、夜なんて怖いだけだったのに。今は、こうして出歩いていないと、落ち着かなくて」


「──夜だから、落ち着かれるんですか。それとも、誰かと話していると、落ち着くんですか」


「両方かしらねえ。昼間だって、誰か捕まえては喋っているの。娘に、女中に、八百屋の主人に。みんな、うんざりしてるでしょうね、こんな婆さんの長話」


 夫人は、そう言って笑った。目尻に、皺がいくつも寄る。でも、その皺の寄り方が、少しだけ、忙しない。


 ──ああ。


 私は、内心で、そっと理解した。


 この人は、灯りの近くを選び、指で物を確かめ、色を何度も塗り直すように語り、そして、誰彼構わず話し相手を欲しがっている。


 それぞれは、なんでもないことだ。ひとつずつなら、ただの癖で片づく。でも、並べると、輪郭がひとつ浮かぶ。


 この人は、今、目の前にあるものが、いつまでそこにあるか、確信が持てずにいる。


 だから、明るい場所を選ぶ。だから、指で先に確かめる。だから、色を、忘れないように、何度も語り直す。そして──誰かの顔を、声を、今のうちに、少しでも多く、集めておきたいんだろう。


 それを、この人自身が、まだどこにも言葉にしていない。


 なら、私が言葉にすることじゃない。


 医術書には、こう書いてあった。まだ固まっていない不安を、他人の言葉で先に固めてしまうと、逃げ場がなくなる、と。今、私がこの人の目の前で「見えなくなるのが怖いんですね」と言ってしまえば、それはこの人にとって、確かめたくもなかった答え合わせになる。


 夫人は、また別の話を始めていた。今度は、亡くなった夫の若い頃の顔立ちの話だった。私は黙って、相槌もそこそこに、聞き続けた。


 半刻ほど経って、夫人はふと、腰を上げかけた。


「ああ、いけない。こんなに長々と。……はしたないわね、あたくし」


「いいえ」


 私は、机の下から、小さな包みを取り出した。丸い、飴玉ほどの粒がいくつか入っている。


「差し上げます。ミントの飴です。気持ちがざわつく夜に、ひとつ、口に含んでみてください」


「あら、そんな。相談もしていないのに」


「今夜のぶんは、もう十分伺いました。──これは、おまけです」


 夫人は、少し驚いた顔をして、それから包みを受け取った。


「ずいぶん、気の利く子ね」


「ただの飴ですよ。気を鎮める草を、少し混ぜてあるだけの」


 それ以上は、言わなかった。何に効くとも、何のために渡すとも。


 夫人は、包みを大事そうに懐にしまい、銅貨を五枚、机に置いた。


「また、来てもいいかしら。こんな婆さんの長話でよければ」


「客に、婆さんも小娘もありません。銅貨さえ払えば、誰でも」


「ふふ、つれない子」


 夫人は、来たときと同じ、夜歩きに慣れた足取りで、帰っていった。


 私は、蝋燭の炎を見つめた。


 この人が何を怖がっているのか、たぶん、私の見立ては当たっている。でも、今夜、それを言葉にしなかった。

 今夜売ったのは、飴ひとつ。気休めと言われれば、それまでのものだ。


 それでいい。


 この人が、自分の言葉で、自分の不安に名前をつける日が来たら──そのときは、私の出番だ。今夜は、ただ、隣で話を聞く夜でいい。


 銅貨を袖に落として、私は蝋燭を消した。



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