三拍の男
一人目の相談を受けた3日後…トマはまたやってきた。
「こんばんは。あの……今夜は、届け物のついでじゃなく」
言ってから、自分の言葉に少し照れたように笑う。
変わっている。
まず、謝らずに座った。椅子の脚が石畳を擦っても、石畳に詫びなかった。肩の木屑は相変わらずだが、目の下の隈は、だいぶ薄くなっている。そして歩幅──来たときから、踵で歩いている。
「報告に来ました。……いや、報告っていうか、その」
「銅貨一枚。前払い」
「え、報告でもですか」
「あたしの時間を使うなら、中身が礼でも文句でも同じ値段だよ」
トマは今度は慌てず、一拍置いてから、笑って銅貨を置いた。──ほう。置き直しも、しなかった。
男は話し始めた。
茶を飲んだ初日の朝、さっそく親方に呼ばれた。祭壇の扉の蝶番の直し。頼まれた瞬間、いつもの「はい」が喉まで出て──舌が、動かなかった。
「三拍って、本当に三拍なんですね。その間が、こんなに長いなんて思わなかった」
空白の底で、生まれて初めて考えたという。これは自分の仕事か。答えは、是。蝶番はおれの領分だ。だから「はい」と言った。同じ「はい」なのに、腹の据わりがまるで違った。
二日目。工房の先輩が、いつもの調子で寄ってきた。悪いな、俺の分の納品、ついでに頼むわ──ついで。
三拍。
「その間に、見えちゃったんです。あの人、おれに頼むとき、いつも目を見ないんだなって。……それで、気づいたら口が動いてました。『すみません。今は、受けられません』って」
声は震えていたという。膝も震えていたという。それでも、言えた。
「そしたら先輩……すごい剣幕で。恩知らずだとか、今まで目をかけてやったのにとか、お前の顔なんか二度と見たくない、とか」
「だろうね。都合のいい『はい』をもらえなくなった側の捨て台詞なんて、どの時代も似たようなもんだよ。それで?」
「……昼過ぎに、何事もなかったみたいに話しかけてきました。ちょっと気まずそうに」
「そういうものさ。──で? その顔を見るに、話はそれで終わりじゃないんでしょう」
「それが」
トマは、少し泣きそうな顔で笑った。
三日目の夕方、親方に呼ばれた。叱られると思ったら、逆だった。──お前、最近顔つきが変わったな。例の祭壇の扉、蝶番だけじゃなく、扉ごとお前に任せる。初めて、工房の帳面に「トマ」の名前で仕事が載った。
「おれ、大したことは何も変えてないんです。返事が少し遅くなって、断ったことも、数えるほどしかなくて。……なのに、なんで」
「断ってないよ、あんたは」
私は遮った。
「あんたがしたのは、選ぶってことだ。選ぶ人間の『はい』には値が付く。選ばない人間の『はい』は無料のままだ。親方は帳面を見たんじゃない。あんたの目を見たのさ」
トマは何度か瞬きをして、それから深々と頭を下げた。「ありがとうございました」──今度は最後まで、つかえずに言えた。
顔を上げた男は、そこで急にもじもじと懐を探った。
「それで、その……あの茶、もうなくて。同じものを、もう一度いただけませんか。あれがないと、また元に戻りそうで」
「駄目だね」
男が固まる。私は机に肘をついて、その顔を眺めた。
「トマさん。さっき、あたしが銅貨を出せと言ったとき、あんた、一拍置いてから笑ったね。頭を下げる前も、三拍あった。──言っとくけど、あの茶の痺れは半日しか保たない。あんたの舌はとっくに元通りだ」
「……え」
「二日目の午後には、あんたは素の舌で三拍置いてたんだよ。草の力じゃない。癖だ。そして癖ってのは、草より長持ちする」
トマは自分の口元を、そっと手で触った。まるで初めて会う自分の舌を、確かめるみたいに。
「だから、あの茶はもう要らない。──代わりに」
私は別の包みを机に置いた。
「こっちを売ってあげる。銅貨二枚。ただの、よく眠れる茶だよ。今度のは痺れも仕掛けもない。寝る前に一杯、湯気ごと吸い込んで飲みな」
「よく眠れる……そういえば、あの、最初に相談したのって」
「眠れないって話だったね」
あの晩、この男の不眠に効く草なら裏庭に三種は生えていた。でも、あの晩に出さなかったのには理由がある。断れない男の眠りを深くしたところで、翌朝から倍の「はい」を配って回る体力がつくだけだ。
頭の向きが変わった今なら──ただの眠り茶が、ちゃんと薬になる。
先に、頭。それから、薬。順番さえ間違えなければ、薬ってのはよく効くんだ。
「あんたみたいな働き詰めには、それくらいでちょうどいいのさ」
トマは笑って、銅貨を二枚、几帳面に並べた。それから、ふと真顔になった。
「……あの。今さらなんですけど、お名前を伺っても。おれ、あなたのこと、なんてお呼びすれば」
名前。
別館の姿見の前で決めた、あの短い名前が、舌の先まで出かかって──私は、やめた。
名乗りは、安売りするものじゃない。今はまだ、その時じゃない。
「名乗るほどの店でもないでしょう、これが。──名前なんてものは、そのうち街のほうが勝手につけてくれるよ」
「じゃあ、せめて」トマは食い下がった。「人に聞かれたら、なんて言えば。その、実は──話を聞いてほしいって人が、もういるんです。工房の仲間で。おれがあんまり変わったから、お前、急に顔つきが変わったな、何があったんだって」
私は蝋燭の火を挟んで、笑ってみせた。
「場所だけ伝えな。夜の広場の隅、蝋燭が一本灯ってる机──それで通じるよ。この街に、蝋燭一本と机だけの店はここしかない」
トマは頷いて、眠り茶を大事そうに懐へしまい、帰っていった。扉を任された男の歩幅で。
私は蝋燭の火を、吹き消した。
開店から七日。客は、まだ一人。
それでも、悪くない出だしだ。客がひとり変われば、それを見ていた誰かが、次の客になる。
この商売の看板は、客の顔つきなんだから。




