最初の客は、断れない男
開店初日の客は、ゼロだった。
夜の広場の隅。街灯の光がぎりぎり届かない、けれど暗闇でもない場所を選んで、私は机を出した。天板の上には蝋燭が一本と、空の杯がひとつ。看板はない。
店を開くのは、ひと晩に一時間だけ。それより長くは粘らない。夜明け前には図書館に戻る。読む本と、調べたいことが、山ほどあるからだ。客の悩みはひとつずつ違う。効く言葉も、効く草も、ひとつずつ違う。だから本当は、店じまいのあとが本番だった。
道行く人間は、面白いくらい素通りした。酔っぱらいが一度だけ「何の店だ」と覗き、「悩みの、その先を売る店」と答えると、気味悪そうに離れていった。上等だ。酔っ払いの悩みは酒場が引き受ける縄張りで、私の客じゃない。
二日目も、ゼロ。
三日目の夜ふけ、一人の男が来た。
最初に聞こえたのは、足音より先に、声だった。
「すみません、あの──ここ、座っても」
まだ何も言っていない。椅子も勧めていない。それなのに男は、謝りながら現れた。
歳は二十歳を少し出たくらい。仕事帰りらしい粗布の上着に、木屑がひとつ、肩に残っている。座る前にもう一度「すみません」と言い、椅子の脚が石畳を擦った音にまで「すみません」と言った。
これで三回。私は内心で、帳面をつけ始めた。
「……占い師さん、ですよね。あの、悩みを聞いてもらえると小耳に挟んで」
「調合師だよ。──よく効くのと、よく視えるのが取り柄のね。相談は銅貨一枚。前払い」
男は慌てて懐を探り、銅貨を机に置き──置いた自分の手つきが乱暴だったと思ったのか、置き直した。几帳面な指だった。節々に、細かい傷とかんなだこ。建具職人の手だ。それも、腕のいい。
トマ、と男は名乗った。街の南で建具の工房に勤めているという。
「悩みっていうか……その、大したことじゃないんですけど。最近、眠れなくて。仕事は、ありがたいことに忙しくて」
ありがたいことに。
その枕詞から、トマの話は始まった。親方に頼まれて先輩の納期を肩代わりしたこと。組合の寄り合いの雑用を、気づけば自分が全部やっていること。隣の工房の急ぎ仕事に、夜なべで手を貸したこと。話は愚痴の形をしているのに、奇妙なことに、責めている相手が一人もいない。皆いい人なんです、俺なんかを頼ってくれて──疲れの滲んだ顔の、目の下の隈の上で、口元だけがどこか誇らしげに動く。
私は黙って聞きながら、視線を一度、男の膝に落とした。
膝の上に、風呂敷包み。座ったときから、後生大事に抱えている。
「その荷物、あんたの?」
「え? ああ、これは──ここに来る途中で、知り合いに会って。明日の朝、届け物を頼まれて。ついでだからって」
ついで。悩みで眠れない男が、夜道で他人の荷物を運んでいる。
──帳面が、埋まった。
この男は、優しいんじゃない。「はい」で自分の居場所を買っているんだ。頼まれるたびに、断ったあとの世界を想像して、そこに自分の席がない気がして、先回りで「はい」を差し出す。謝罪は詫びじゃなく、場代だ。息をするように払い続けている。
医術書は言う。効かぬ薬を罵る前に、飲み方を疑えと。この男の不眠に効く薬草なら、裏庭に三種は生えている。でも今夜煎じて出したところで、こいつは礼を言って飲んで、眠って、明日また同じ「はい」を配って回るだけだ。
先に、頭。それから、薬。
私は口を開いた。
「トマさん。あんた、座ってから七回謝ったの気付いている?」
「……え?」
「すみません、が七回。何に謝っている?あたしはまだ、何もしてないのに」
男が固まる。私は膝の風呂敷を、顎で指した。
「それで、眠れない夜にまで他人の荷物を運んでる。──ねえ。それは、優しさ? あたしには、断った後の自分が怖いだけに見えるけど」
「そんな、ことは……頼られるのは、職人の誉れで」
「へえ。じゃあ当ててあげる、あんたの三年後」
私は蝋燭を挟んで、男の目を見た。目を逸らしかけて、逸らせなくなる目を。
「仕事は今の倍。実入りは、今のまま。理由は簡単──タダで手に入る『はい』に、値をつける馬鹿はいないからだ。あんたの周りに集まってるのは、あんたを頼ってる人間じゃない。あんたの『はい』が無料だから使ってる人間だよ。そういう連中はね、あんたが初めて納期を落とした日に、真っ先に消える。礼も言わずに、次の無料を探しにいく」
「……」
「ほら、筋は通ってるでしょう。反論があるなら聞くけど」
トマは口を開けて、閉じた。反論の材料が、彼の今夜の行動の中に一つもないことに、彼自身が気づいてしまったからだ。
俯いた男の前に、私は小さな包みを置いた。
「この茶を売ってあげる。銅貨三枚」
「お茶……ですか」
「安請け合いの茶だよ。舌と喉が、ほんの少し痺れる。朝に一杯、三日間──そのあいだ、あんたの返事は三拍遅れる。害はそれだけ。効き目は、あたしがこの身で確かめてある」
トマはきょとんと、包みと私を見比べた。無理もない。私は机に肘をついて、笑ってやった。
「分からない? あんたの取り柄を殺すんだよ。頼まれた瞬間に出る、あの気持ちのいい即答をね。──頼まれてから、三拍。舌が動かないその空白で、あんたは生まれて初めて、受けるかどうかを考えることになる」
「考えて……それで、断れなかったら」
「考えた上で全部『はい』って言うなら、それはもう、あんたが選んだ立派な人生だ。あたしの知ったことじゃないね」
嘘だ。考えた人間の「はい」と、怖くて出た「はい」は、別の言葉だ。でもそれは、三日後に本人の舌が教えることで、私が今夜教えることじゃない。
トマは長いこと包みを見つめて、それから銅貨を三枚、几帳面に並べて置いた。
「……あの。ありがとう、ござ──」
言いかけて、男は止まった。
一拍。二拍。三拍。
まだ茶も飲んでいないのに、男の舌は勝手に空白を作り、その空白の底から、別の言葉を拾い上げてきた。
「──また、来ます。今度は、届け物のついでじゃなく」
風呂敷を抱え直して、トマは帰っていった。来たときより、心持ち歩幅の広い背中だった。
私は銅貨四枚を袖に落として、蝋燭の火を消した。




