私という実験体
覚醒から三日。昼の私は、これまでどおり完璧な埃だった。
丘の上の別館で誰も見ない床を磨き、夕方には図書館で書架のあいだを這う。家令に「おい」と呼ばれれば俯いて頷き、司書補に顎で使われれば黙って従う。何も変わっていない。誰の目にも、そう映っているはずだ。
変わったのは、頭の中だけ。
床を磨きながら、私は自分の持ち物を数えていた。売り物になるものと、ならないものを、一枚ずつ並べていく。
一枚目。調合師の適性。十歳の検査で神殿の水盤が示した、この国で一番笑われる札だ。火も水も光も出ない。薬草係。魔法で大抵の病が消えるこの時代に、草を煮る才能に何の値打ちがある──というのが世間の相場で、だからこの札は安い。安いということは、誰も警戒しないということでもある。
二枚目。この頭に入っている何千冊。歴史も薬草も、商いの帳簿も人の心の壊れ方も、今なら棚から引き出すように使える。
そして、三枚目。
──私の顔を、誰も覚えていないこと。
三日前までは、これが人生の呪いだと思っていた。とんでもない。十六年かけて手に入れた、最高の元手だ。存在しない人間は、疑われようがない。夜に見知らぬ女が現れても、誰もそれを埃と結びつけない。
では──何を売る?
この街の人間を、私は毎日ふたつの職場で眺めている。司書補は本を戻す棚を間違えて、帳簿係のせいにする。家令は「どうせ誰も使わない別館だ」と言いながら、燭台の銀の飾りを袖に落とす。閲覧席の役人は、本を開いたまま、隣の席の男の懐中時計ばかり見ている。
本の中でも、多くの人間は似たようなことをしていた。負けを天気のせいにする将軍。損を番頭のせいにする商人。酒をやめないまま、効かない薬に文句を言う患者。
人は、よく似た形でつまずく。時代が違っても、身分が違っても。
みんな、うまい言い訳をひとつ見つけて、痛みごと現実に慣れていく。そして、それをどうにかしてくれる場所は、この街のどこにもない。
魔法は、体なら治す。熱は下がるし、傷もふさがる。でも、心までは診ない。明日も同じ酒を飲む男を、明日も同じ場所へ殴られに帰る女を、止められる魔法はない。
薬も、同じだ。私の腕なら、熱も傷も眠れない夜も、たいていはどうにかできる。でも薬が治せるのは体まで。人生の使い方は、効能書きに書いていない。
効かせたいなら、順番が逆なんだ。
先に、頭。それから、薬。
悩みを聞いて、頭の向きを変えて、最後のひと押しにだけ薬を使う。そんな店は聞いたことがない。誰もやっていないなら、そこは商売の穴だ。
ただし、問題がふたつある。
ひとつ。埃の顔では、誰も私の話を聞かない。悩みというのは、打ち明ける相手を選ぶものだからだ。
なら、誰でもない女をひとり、作ればいい。化粧も変装も、つまりは調合だ。白粉、髪染め、肌つやの膏薬──作り方なら、とっくにこの頭に入っている。
──最初の客は、私だ。
そして、ふたつめの問題が、材料だった。
薬草ギルドの店は、身分札のない小娘には葉っぱ一枚売らない。けれど、私には心当たりがあった。
丘の上の別館。毎朝磨いている、あの誰も来ない建物の裏庭だ。
今は膝丈の草に呑まれているけれど、石組みの区画割りと、生えている草の顔ぶれを見れば分かる。あれは荒れ果てた薬草園だ。先々代あたりの誰かの道楽が、飽きられて、そのまま忘れられた庭。今や雑草と薬草の区別もつかない茂み──でも、区別がつく人間には、宝の山だった。
翌朝、私は家令に紙切れを差し出した。「裏庭の草むしりも、掃除のついでにやっておきます。手当はいりません」──声は出さない。用があるときは、いつもこの筆談だ。
家令は紙を一瞥して、「勝手にしろ」と言った。埃が庭で草をむしっていても、誰も気に留めない。かくして私は堂々と、白粉の材料も、膏薬の油草も、摘み放題の身分になった。
むしった草はどうせ捨てるものだ。捨て場所が、たまたま私の籠の中だというだけで。
道具にも、当てがあった。
図書館の奥には、ミレーヌさんの準備室がある。傷んだ本を繕う糊の匂いと、乾いた草の匂いのする小部屋。壁の一面が薬棚で、本の虫を除ける草、カビを防ぐ粉──本を守るための調合を、私は何年もあそこで手伝ってきた。乳鉢の持ち方も、火加減の呼吸も、匙一杯の意味も、全部あの棚の前で覚えた。
初めての手伝い賃に、ミレーヌさんがくれたのは、お金じゃなかった。
中古の道具、ひと揃い。乳鉢と乳棒。小さな薬研。匙が三本。手のひらほどの、銅の小鍋。
正直に言えば、あのときは少しがっかりした。パンの買えるお金のほうが、よっぽどありがたかったから。
でも、今なら分かる。使い込まれてはいても、狂いのひとつもない、職人の道具だ。新品で揃えたら私の給金の何ヶ月分になるのか、考えるのも怖い。だいたい、身分札のない小娘には、道具屋は乳鉢ひとつ売ってくれないのだ。
……あの人は、いったい何者で、どこまで見えているんだろう。
考えるのは、やめた。詮索は、窓の鍵と同じだ。開けてもらっているあいだは、こじ開けるものじゃない。
その道具を書架の裏から運び出して、私の実験が始まった。
仕事場は、別館の物置。掃除は誰よりも速く終わらせられるようになったから、浮いた時間はそっくり私のものだ。家令の見回りは月に一度。火は小さく、煙は窓の外へ。
最初に作ったのは白粉だった。埃色にくすんだこの肌を、別の生き物の肌にする粉。一度目の試作は、ひどいものだった。米の粉を挽きすぎて、鏡に映ったのは粉を吹いた幽霊。塗るそばから剥がれて、袖が真っ白になる。
──駄目だ。これは「白く塗った埃」だ。
二度目は、油草の搾り汁を練り込んで、肌になじむ膏薬にした。白ではなく、ほんのわずかに血の色を差す。人の目は白さに美しさを見ない。血色に、生きの良さに見惚れるのだと、医術書と恋物語の両方が言っていた。
髪は胡桃の渋で染めた。埃をかぶったような灰の髪が、灯りを吸う濃い栗色に沈む。
声は、変えなくていい。昼の埃はしゃべらない。頷くだけだ。私の声を知っている人間なんて、この街にはほとんどいないんだから。
どの品も、必ず自分で試した。分量を変え、時間を計り、肌が赤らめば捨てて作り直した。左腕の内側は、試し塗りの跡でまだらになっている。
効き目をこの身で確かめていない物を、人に出すつもりはない。これは決め事だ。調合の腕は、ミレーヌさんの棚で覚えた。でもこの決め事だけは、誰に教わったのでもない。頭に入ってきた誰かさんの、性分らしかった。
化粧と髪が仕上がっても、まだ足りないものがあった。
服だ。
埃の継ぎ接ぎの上にどれだけ顔を作っても、出来上がるのは「顔だけ立派な埃」だ。人は顔より先に、布を見る。
これにも、当てはあった。図書館の掃除をしていると、ご婦人がたの立ち話は嫌でも耳に入る。曰く──仕立て屋通りの奥の店には、恐ろしく我儘な貴族のお嬢様がついている。一点ものの注文を、納得がいくまで何度でも作り直させる。そのうえ「私と同じ形が世に出るなんて許さない」と、失敗作を売りに出すことさえ認めない。
つまり、あの店の裏には、誰にも袖を通されない上質な布が、山になって転がっている。
夜、私はその山を検分させてもらった。半端に裁たれた絹。縫いかけの胴着。染めむらの出たビロード。その中から引っぱり出したのが──深いエメラルドグリーンの絹と、艶のある黒の生地だった。
夜の商売には、夜の色がいる。闇に沈む黒と、蝋燭の火で燃える緑。
裁縫は、本で読んだ。型紙の起こし方も、運針も、女中向けの実用書に全部書いてあった。ただ、読んだことと、できることのあいだには川が一本ある。私は三晩、指を針で刺しながら、その川を渡った。豪華には作らない。飾りは最小限。そのかわり、体の線だけは正確に。上等な布というのは、それだけで嘘をついてくれるものだ。
──七晩目。
物置の奥にあった、布をかぶった姿見。私はその布を、初めて外した。
埃の積もった鏡面を、磨き上げる。おかしな話だ。埃が、埃を拭いて、埃じゃない自分を見ようとしている。
鏡の中に、知らない女が立っていた。
濃い栗色の髪。血色の透ける肌。黒と緑の、夜の色の服。「こんばんは」と言ってみると、女の唇がそう動いた。
いや、まだだ。まだ足りない。
化粧は皮でしかない。埃が埃である理由は、肌の色じゃない。俯いた首の角度、床を選んで歩く足、人と目を合わせない癖──十六年ぶんの姿勢が、私を埃にしている。役者の手記に書いてあった。人は顔を見ているようで、姿勢を見ている、と。
私は背骨を立て直した。顎を引き、目線を相手の眉間に据える練習をした。歩幅を広く、踵から。姿見の前で何十回もやり直すうち、鏡の女は少しずつ、埃と別の生き物になっていった。
仕上げに、名前だ。
誰でもない女には、名前がいる。図書館の薬草図鑑の、あるページが頭に浮かんでいた。摘んではいけない草の項。艶のある、黒い実。
──ベラドンナ。
遠い国の言葉で「美しい淑女」。名前に反して、実は甘く、瞳を大きく開かせ、そして猛毒。美しく見せる毒草に、淑女の名前。
美人で、口を開けば毒で、でも効く。この商売に、これ以上似合いの名前もない。
もっとも、ベラドンナでは長ったらしい。名乗るなら、ベラ。それでいい。
鏡の女に向かって、私は口の端だけで笑ってみせた。悪い女の顔。上出来だ。
その夜。
物置で見つけた脚の欠けた小机を直し、私は布に包んで担いだ。行き先は決めてある。夜の広場の、街灯の届かない隅。
商売道具は膏薬と茶葉と、この口だけ。看板はない。売り物の名前を、まだ世界の誰も知らないからだ。
悩みの、その先を売る店。
埃のままの踵が、夜の石畳を叩く。角を曲がれば広場だ。私は物陰で背骨を立て、ベラの歩幅に切り替えた。
──さあ。
最初のお客は、どこのどなたかな。




