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悪女の正体は、図書館の隅で本を読んでいた埃です  作者: ゆあ


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2/6

私という実験体


 覚醒から三日。昼の私は、これまでどおり完璧な埃だった。


 丘の上の別館で誰も見ない床を磨き、夕方には図書館で書架のあいだを這う。家令に「おい」と呼ばれれば俯いて頷き、司書補に顎で使われれば黙って従う。何も変わっていない。誰の目にも、そう映っているはずだ。


 変わったのは、頭の中だけ。


 床を磨きながら、私は自分の持ち物を数えていた。売り物になるものと、ならないものを、一枚ずつ並べていく。


 一枚目。調合師の適性。十歳の検査で神殿の水盤が示した、この国で一番笑われる札だ。火も水も光も出ない。薬草係。魔法で大抵の病が消えるこの時代に、草を煮る才能に何の値打ちがある──というのが世間の相場で、だからこの札は安い。安いということは、誰も警戒しないということでもある。


 二枚目。この頭に入っている何千冊。歴史も薬草も、商いの帳簿も人の心の壊れ方も、今なら棚から引き出すように使える。


 そして、三枚目。


 ──私の顔を、誰も覚えていないこと。


 三日前までは、これが人生の呪いだと思っていた。とんでもない。十六年かけて手に入れた、最高の元手だ。存在しない人間は、疑われようがない。夜に見知らぬ女が現れても、誰もそれを埃と結びつけない。


 では──何を売る?


 この街の人間を、私は毎日ふたつの職場で眺めている。司書補は本を戻す棚を間違えて、帳簿係のせいにする。家令は「どうせ誰も使わない別館だ」と言いながら、燭台の銀の飾りを袖に落とす。閲覧席の役人は、本を開いたまま、隣の席の男の懐中時計ばかり見ている。


 本の中でも、多くの人間は似たようなことをしていた。負けを天気のせいにする将軍。損を番頭のせいにする商人。酒をやめないまま、効かない薬に文句を言う患者。


 人は、よく似た形でつまずく。時代が違っても、身分が違っても。


 みんな、うまい言い訳をひとつ見つけて、痛みごと現実に慣れていく。そして、それをどうにかしてくれる場所は、この街のどこにもない。


 魔法は、体なら治す。熱は下がるし、傷もふさがる。でも、心までは診ない。明日も同じ酒を飲む男を、明日も同じ場所へ殴られに帰る女を、止められる魔法はない。


 薬も、同じだ。私の腕なら、熱も傷も眠れない夜も、たいていはどうにかできる。でも薬が治せるのは体まで。人生の使い方は、効能書きに書いていない。


 効かせたいなら、順番が逆なんだ。


 先に、頭。それから、薬。


 悩みを聞いて、頭の向きを変えて、最後のひと押しにだけ薬を使う。そんな店は聞いたことがない。誰もやっていないなら、そこは商売の穴だ。


 ただし、問題がふたつある。


 ひとつ。埃の顔では、誰も私の話を聞かない。悩みというのは、打ち明ける相手を選ぶものだからだ。


 なら、誰でもない女をひとり、作ればいい。化粧も変装も、つまりは調合だ。白粉、髪染め、肌つやの膏薬──作り方なら、とっくにこの頭に入っている。


 ──最初の客は、私だ。


 そして、ふたつめの問題が、材料だった。


 薬草ギルドの店は、身分札のない小娘には葉っぱ一枚売らない。けれど、私には心当たりがあった。


 丘の上の別館。毎朝磨いている、あの誰も来ない建物の裏庭だ。


 今は膝丈の草に呑まれているけれど、石組みの区画割りと、生えている草の顔ぶれを見れば分かる。あれは荒れ果てた薬草園だ。先々代あたりの誰かの道楽が、飽きられて、そのまま忘れられた庭。今や雑草と薬草の区別もつかない茂み──でも、区別がつく人間には、宝の山だった。


 翌朝、私は家令に紙切れを差し出した。「裏庭の草むしりも、掃除のついでにやっておきます。手当はいりません」──声は出さない。用があるときは、いつもこの筆談だ。


 家令は紙を一瞥して、「勝手にしろ」と言った。埃が庭で草をむしっていても、誰も気に留めない。かくして私は堂々と、白粉の材料も、膏薬の油草も、摘み放題の身分になった。


 むしった草はどうせ捨てるものだ。捨て場所が、たまたま私の籠の中だというだけで。


 道具にも、当てがあった。


 図書館の奥には、ミレーヌさんの準備室がある。傷んだ本を繕う糊の匂いと、乾いた草の匂いのする小部屋。壁の一面が薬棚で、本の虫を除ける草、カビを防ぐ粉──本を守るための調合を、私は何年もあそこで手伝ってきた。乳鉢の持ち方も、火加減の呼吸も、匙一杯の意味も、全部あの棚の前で覚えた。


 初めての手伝い賃に、ミレーヌさんがくれたのは、お金じゃなかった。


 中古の道具、ひと揃い。乳鉢と乳棒。小さな薬研。匙が三本。手のひらほどの、銅の小鍋。


 正直に言えば、あのときは少しがっかりした。パンの買えるお金のほうが、よっぽどありがたかったから。


 でも、今なら分かる。使い込まれてはいても、狂いのひとつもない、職人の道具だ。新品で揃えたら私の給金の何ヶ月分になるのか、考えるのも怖い。だいたい、身分札のない小娘には、道具屋は乳鉢ひとつ売ってくれないのだ。


 ……あの人は、いったい何者で、どこまで見えているんだろう。


 考えるのは、やめた。詮索は、窓の鍵と同じだ。開けてもらっているあいだは、こじ開けるものじゃない。


 その道具を書架の裏から運び出して、私の実験が始まった。


 仕事場は、別館の物置。掃除は誰よりも速く終わらせられるようになったから、浮いた時間はそっくり私のものだ。家令の見回りは月に一度。火は小さく、煙は窓の外へ。


 最初に作ったのは白粉だった。埃色にくすんだこの肌を、別の生き物の肌にする粉。一度目の試作は、ひどいものだった。米の粉を挽きすぎて、鏡に映ったのは粉を吹いた幽霊。塗るそばから剥がれて、袖が真っ白になる。


 ──駄目だ。これは「白く塗った埃」だ。


 二度目は、油草の搾り汁を練り込んで、肌になじむ膏薬にした。白ではなく、ほんのわずかに血の色を差す。人の目は白さに美しさを見ない。血色に、生きの良さに見惚れるのだと、医術書と恋物語の両方が言っていた。


 髪は胡桃の渋で染めた。埃をかぶったような灰の髪が、灯りを吸う濃い栗色に沈む。


 声は、変えなくていい。昼の埃はしゃべらない。頷くだけだ。私の声を知っている人間なんて、この街にはほとんどいないんだから。


 どの品も、必ず自分で試した。分量を変え、時間を計り、肌が赤らめば捨てて作り直した。左腕の内側は、試し塗りの跡でまだらになっている。


 効き目をこの身で確かめていない物を、人に出すつもりはない。これは決め事だ。調合の腕は、ミレーヌさんの棚で覚えた。でもこの決め事だけは、誰に教わったのでもない。頭に入ってきた誰かさんの、性分らしかった。


 化粧と髪が仕上がっても、まだ足りないものがあった。


 服だ。


 埃の継ぎ接ぎの上にどれだけ顔を作っても、出来上がるのは「顔だけ立派な埃」だ。人は顔より先に、布を見る。


 これにも、当てはあった。図書館の掃除をしていると、ご婦人がたの立ち話は嫌でも耳に入る。曰く──仕立て屋通りの奥の店には、恐ろしく我儘な貴族のお嬢様がついている。一点ものの注文を、納得がいくまで何度でも作り直させる。そのうえ「私と同じ形が世に出るなんて許さない」と、失敗作を売りに出すことさえ認めない。


 つまり、あの店の裏には、誰にも袖を通されない上質な布が、山になって転がっている。


 夜、私はその山を検分させてもらった。半端に裁たれた絹。縫いかけの胴着。染めむらの出たビロード。その中から引っぱり出したのが──深いエメラルドグリーンの絹と、艶のある黒の生地だった。


 夜の商売には、夜の色がいる。闇に沈む黒と、蝋燭の火で燃える緑。


 裁縫は、本で読んだ。型紙の起こし方も、運針も、女中向けの実用書に全部書いてあった。ただ、読んだことと、できることのあいだには川が一本ある。私は三晩、指を針で刺しながら、その川を渡った。豪華には作らない。飾りは最小限。そのかわり、体の線だけは正確に。上等な布というのは、それだけで嘘をついてくれるものだ。


 ──七晩目。


 物置の奥にあった、布をかぶった姿見。私はその布を、初めて外した。


 埃の積もった鏡面を、磨き上げる。おかしな話だ。埃が、埃を拭いて、埃じゃない自分を見ようとしている。


 鏡の中に、知らない女が立っていた。


 濃い栗色の髪。血色の透ける肌。黒と緑の、夜の色の服。「こんばんは」と言ってみると、女の唇がそう動いた。


 いや、まだだ。まだ足りない。


 化粧は皮でしかない。埃が埃である理由は、肌の色じゃない。俯いた首の角度、床を選んで歩く足、人と目を合わせない癖──十六年ぶんの姿勢が、私を埃にしている。役者の手記に書いてあった。人は顔を見ているようで、姿勢を見ている、と。


 私は背骨を立て直した。顎を引き、目線を相手の眉間に据える練習をした。歩幅を広く、踵から。姿見の前で何十回もやり直すうち、鏡の女は少しずつ、埃と別の生き物になっていった。


 仕上げに、名前だ。


 誰でもない女には、名前がいる。図書館の薬草図鑑の、あるページが頭に浮かんでいた。摘んではいけない草の項。艶のある、黒い実。


 ──ベラドンナ。


 遠い国の言葉で「美しい淑女」。名前に反して、実は甘く、瞳を大きく開かせ、そして猛毒。美しく見せる毒草に、淑女の名前。


 美人で、口を開けば毒で、でも効く。この商売に、これ以上似合いの名前もない。


 もっとも、ベラドンナでは長ったらしい。名乗るなら、ベラ。それでいい。


 鏡の女に向かって、私は口の端だけで笑ってみせた。悪い女の顔。上出来だ。


 その夜。


 物置で見つけた脚の欠けた小机を直し、私は布に包んで担いだ。行き先は決めてある。夜の広場の、街灯の届かない隅。


 商売道具は膏薬と茶葉と、この口だけ。看板はない。売り物の名前を、まだ世界の誰も知らないからだ。


 悩みの、その先を売る店。


 埃のままの踵が、夜の石畳を叩く。角を曲がれば広場だ。私は物陰で背骨を立て、ベラの歩幅に切り替えた。


 ──さあ。


 最初のお客は、どこのどなたかな。



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