埃、目を覚ます
# 第1話「埃、目を覚ます」
私の名前を、この街で覚えている人間は三人もいない。
館の家令は私を「おい」と呼ぶ。図書館の司書補は「そこの」と呼ぶ。利用者たちは──呼ばない。床を拭く私の足を、置き忘れられたバケツみたいに避けて通るだけだ。
埃。
いつだったか、司書補たちが陰で私をそう呼んでいるのを聞いた。面と向かって呼ぶ人はいない。呼ぶ用事が、そもそもないからだ。
私のほうも、しゃべらない。返事は頷きで足りる。この街で私の声を聞いたことのある人は──たぶん、ほとんどいない。
掃いても掃いても、気づけばまた隅に溜まっている。……なるほど、うまいことを言う。
誰の目にも見えているのに、誰の記憶にも残らない。十六年、私はそういうものとして生きてきた。
私の一日は、二つの掃除でできている。
朝は、丘の上の貴族の館。といっても磨くのは主屋じゃなくて、もう何年も誰も使っていない別館のほうだ。誰も入らない部屋の、誰も見ない床を磨く。家令は月に一度だけ見回りに来て、埃がひとつでもあれば給金を削る。
夕方からは、街の図書館。閉館まで、書架のあいだを雑巾で這う。
そして夜──私は、この図書館で眠る。
帰る家は、ない。両親の顔は覚えていないし、預けられていた先は三年前になくなった。宿に泊まれば、食べるお金が消える。だから閉館の鐘と一緒にいったん外へ出て、街をひと回りしてから、戻ってくる。
北側の、三番目の窓。
司書のミレーヌさんが、最後に鍵を確かめるふりをして、確かめない窓だ。
五十くらいの、いつも同じ灰色の肩掛けをした人。この図書館で私を「メア」と名前で呼ぶ、たったひとりの人。
あの窓の掛け金が今夜も下りていないことを、私は知っている。もう何年も、あの窓だけは閉まらない。ミレーヌさんがどこまで知っていてそうしているのかは、聞いたことがない。聞いたら、終わってしまう気がするから。
油を差しておいた蝶番は、音を立てない。
窓から戻って、明け方まで、私は本を読む。
歴史。薬草。商売の帳簿の付け方。遠い国の戦の記録。恋物語に、農業の本。面白いかどうかも選ばずに、棚の端から端まで読んだ。誰も来ない書架の一番奥が、私の家みたいなものだった。
眠るのは、空が白む前のほんの少し。朝になったら裏の井戸で体を拭いて、昨日洗って干しておいた服に着替えて、何食わぬ顔で丘の上へ出勤する。
埃は、図書館に棲んでいる。あだ名のとおりに。
その夜も、私はいつもの場所にいた。読んでいたのは古い医術書で、「人の心臓は恐怖で縮む」という一文まで目で追った覚えがある。
覚えているのは、そこまでだ。
眠りを削る生活を何年も続けた体は、ときどきこうして勝手に落ちる。頬に、本の背の感触。遠くで夜番の犬が吠えて──
私は、目を覚ました。
いや。
目を覚ましたのが「私」だったのかどうか、正しくは分からない。
何かが、入ってきていた。
記憶じゃない。思い出そうとしても、名前ひとつ、顔ひとつ浮かばない。知らない誰かの人生が見えたわけでもない。頭の中にあるのは、昨日までの私の十六年分だけ。
なのに──考え方が、違う。
家具はひとつも増えていないのに、家の柱の組み方だけが、そっくり別人のものに替わっている。そんな感じだ。物の見方。疑い方。順番の付け方。世界を見る目の角度が、昨日までの私のものじゃない。
誰? と聞いても、答える声はない。思い出はないのに、確かに誰かがいる。
変なのは、それなのに、少しも怖くないことだった。
入ってきた誰かは、騒がない。慌てない。妙に──落ち着いている。
「……なに、これ」
声に出してみて、驚いた。自分の声を聞くのが、いつぶりなのか思い出せなかった。
立ち上がる。月明かりの書架。何千時間も座っていた、見慣れた場所のはずだった。
なのに、世界の見え方がまるで違う。
棚の本の並びの乱れで、司書補がどこで手を抜いたか分かる。床のすり減り方で、人がどこを歩くか分かる。窓の外の夜警の提灯の揺れで、あの人が今夜も酒を飲んでいるのが分かる。昨日までただの風景だったものが、ぜんぶ意味を持って見えてくる。
それから、もうひとつ。
──思い出せる。
ここで読んだ何千冊の中身が、どの棚のどの本に何が書いてあったかまで、引き出しを開けるみたいに出てくる。昨日までの私は、ただ字を目に流し込んでいただけだった。それが今、ぜんぶつながって立ち上がってくる。
そして、その落ち着いた誰かの目は、ひと通り世界を眺め終えると、最後に──私自身に向いた。
メア。十六歳。仕事はふたつ。朝は誰も使わない別館の掃除、夕方は図書館の掃除。給金はふたつ合わせて、日に銅貨五枚。寝床は書架の床。持ち物は、服が二枚と、雑巾と、蝋燭の切れ端。
昨日までの私は、この暮らしに、なんの違和感もなかった。
つらい、とも思っていなかった。そういうものだと思っていた。埃は掃かれるもので、床は磨かれるもので、私は、そういうものだと。
でも──今は、違う。
落ち着き払った頭が、そろばんでも弾くみたいに、私の十六年を淡々と数え直していく。働きと実入りが、合っていない。体を壊したら終わりなのに、備えがひとつもない。そして何より──この暮らしのどこを探しても、明日が今日と変わる理由が、ひとつもない。
このまま十年経てば、二十六歳の埃になる。三十年経てば、四十六歳の埃になる。それだけだ。
「……なんで私、平気だったんだろう」
私は、笑ってしまった。
誰もいない書架の谷間で、口の端が勝手に持ち上がるのを、止められなかった。
おかしかったのは、世界のほうじゃない。それを「そういうものだ」で十六年も飲み込んできた、こっちの頭のほうだ。
窓の外が白み始める。医術書を棚に戻して、蝋燭の火を消す。井戸の水は、まだ冷たいだろう。昨日干した服は、乾いているだろうか。
いつもの朝だ。いつもの朝なのに、ぜんぶが昨日と違って見える。
焦ることはない。この落ち着いた頭は、そう言っている。
まずは、自分の持っているものを数えること。売り物になるものと、ならないものを分けること。始めるなら、話はそれからだ。
──商人の日記の、最初のページにも、そう書いてあった。




