第六話 冬鈴草のスープ
旧温室館での生活は、驚くほど地味だった。
朝、リュシーの体温を測る。窓の結露を拭き、暖炉の灰を整え、床の冷える場所へ厚い敷物を置く。薬草茶を淹れ、朝食を食べさせ、食べた量を記録する。
侯爵家にいた頃と同じことをしているのに、息苦しさはまるで違った。
誰かに急かされない。
リリアの看病を優先しろと言われない。
ギルベルトの機嫌を見て食事の時間をずらす必要もない。
リュシーが一口ずつスープを飲む姿を、ただ見ていられる。
「おかあさま、これ、すきかも」
リュシーは木の匙を両手で持ち、野菜を煮込んだ白いスープをのぞき込んだ。
「本当? 昨日より人参を小さく切ってもらったの」
「にんじん、ちいさい」
「食べやすい?」
「うん」
スプーンを握る手つきは、まだ少し危なっかしい。こぼした分を拭こうとすると、リュシーは真剣な顔で首を振った。
「じぶんで」
「そう。では、布巾はここに置いておくわ」
リュシーは慎重に布巾を取り、小さな水滴を押さえた。たったそれだけのことなのに、彼女はとても誇らしそうだった。
侯爵家では、リュシーに失敗させる余裕がなかった。冷えればすぐ熱を出す。濡れた服を替えるのも、食べこぼしを片づけるのも、私が先に手を出していた。
けれど、いつまでも私がすべてを先回りすることはできない。
この子は、自分の手で匙を持つ。
自分の足で歩く。
自分の言葉で嫌だと言えるようにならなければならない。
「上手にできたわね」
私がそう言うと、リュシーは頬を赤くして笑った。
「もっと、できる」
「ええ。ゆっくりでいいのよ」
その日は、マーサが冬鈴草の若葉を少しだけ摘んでくれた。香りは穏やかで、煮込むとほんのり甘い。薬草としては弱いが、体を冷やしにくい食材として知られている。
「昔、奥様のお母様がよく使っておいででした」
マーサは鍋をかき混ぜながら言った。
「ヴァイス家のお嬢様方は、冬になるとお腹を冷やしやすくてね。奥様のお母様は、薬より先に食べ物と寝床を整える方でした」
「母らしいわ」
母は、派手な魔法を持つ人ではなかった。けれど、家中の誰がどの毛布を好み、どの使用人が膝を痛め、どの子どもが夜に咳をするかを覚えている人だった。
私は母に似たのかもしれない。
そのことを、以前は少し恥じていた。
社交界では、母のような人は目立たない。宝石をまとう人、祝福を授ける人、大きな魔法を見せる人が称えられる。火を消さないように灰をならす女の仕事は、誰も見ない。
でも、その仕事で夜を越せる人がいる。
リュシーが眠れる。
それだけで十分だった。
午後には、アルノルトが同行医師とともに再訪した。医師はリュシーの胸の音を聞き、舌の色を見て、薬帳を確認した。
「体重はやや少ないが、呼吸は安定しています。食欲もあるようですね」
「今朝はスープを半分以上食べました」
「よいことです。療養には薬だけでなく、食事と睡眠が必要です」
当たり前のことを、当たり前に言ってくれる。
それだけで、私は少し救われる。
診察が終わると、リュシーはアルノルトに冬鈴草の鉢を見せた。
「アルさま、たまご」
「花の種ですね」
「はる、くるの」
「そうですね。春は来ます」
アルノルトは真面目に頷いた。
リュシーは満足したように鉢を抱きしめかけ、私が慌てて止めた。
「土がこぼれるわ」
「あっ」
リュシーが目を丸くする。アルノルトが少し笑った。
声を立てるほどではない、ごく小さな笑みだった。けれどその表情を見た瞬間、彼が軍人でも監察官でもなく、一人の人間なのだと分かった。
「ノエリア様」
彼は私に向き直った。
「侯爵家側は、近いうちに面会申請を出すでしょう」
「ギルベルト様が?」
「おそらく。彼自身というより、家令か親族が動くはずです」
「拒めますか」
「リュシー様の体調を理由に制限できます。ただ、完全に拒み続ければ、相手に攻撃材料を与えます」
私は頷いた。
「では、医師同席、短時間、温室館内で」
「妥当です」
「リュシーが嫌がったら終わりにします」
「それも記録に残します」
話しているうちに、リュシーが私の袖を引いた。
「おとうさま、くる?」
私は膝をつき、娘の目を見た。
「来るかもしれないわ。会いたい?」
リュシーはすぐには答えなかった。布兎の耳を握り、考え込む。
「おとうさま、リュシーのおへや、いらないってした?」
「いいえ。お父様は、リュシーのお部屋をリリア様に使わせたいと言ったの」
「リュシー、さむいの、いや」
「そうね」
私は娘の手を包んだ。
「嫌なことは、嫌と言っていいのよ」
リュシーは小さく頷いた。
「いやって、いう」
それは、三歳の子にとっては大きな決意だった。




