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第一話 娘の部屋を国に明け渡せと言われました

 冬鈴館の朝は、子どもたちの小さな音から始まる。


 廊下を歩く柔らかな足音。マーサが台所で鍋をかき混ぜる音。保温布を首に巻いたリュシーが、温室の扉をそっと開ける音。


 六歳になった娘は、背も少し伸びた。走れば息が上がるし、冷えた風に当たれば夜に熱を出すこともある。それでも、以前のように一日中寝台の上で過ごすことは少なくなった。朝の仕事は、冬鈴草の鉢へ「おはよう」と言うこと。本人が決めた役目だ。


「おかあさま、今日は三番の鉢が元気です」


「そう。昨日、リュシーが窓を少し開けてくれたからかもしれないわ」


「開けすぎない、した」


「ええ。上手だった」


 そう言うと、リュシーは得意そうに保温布の端を握った。


 冬鈴館は、もう旧温室館だけではない。温室の隣に療養室が三つ、子どもたちが昼寝できる小部屋が五つ、保温布を縫う工房が一棟。医師会から派遣された看護師もいる。小さな施設ではあるが、王都の冬に不安を抱える家族にとっては、大きな逃げ場所になっていた。


 その日、私はリュシーと朝食を終え、収支報告書を確認していた。


 机の向こうでは、アルノルトが北境から届いた気象報告を読んでいる。結婚してから半年が過ぎたが、彼はまだ私の仕事机に勝手に紙を置かない。置く時は必ず「ここに置いても?」と聞く。


 それだけのことが、今でも私を安心させた。


「ノエリア様」


 ハンナが扉を開けた。


「王立医務局の方がお見えです。マリア第一王女殿下の名代ではなく、医務局長名での訪問とのことです」


 私とアルノルトは顔を見合わせた。


 王立医務局。冬鈴館の助成金申請を扱う部署だ。これまで大きな問題はなかったが、最近になって報告書の追加提出を求める文書が増えていた。


「通してください。応接室へ」


「かしこまりました」


 応接室に現れたのは、痩せた中年の男性だった。整えられた灰色の髪、銀縁の眼鏡、皺のない官服。後ろには書記官が二人ついている。


「王立医務局長補佐、カミーユ・ロシュです」


 彼は丁寧に礼をした。


「ノエリア・ランキエール様。アルノルト辺境伯閣下。冬鈴館の運営実績は、王都でも高く評価されております」


「ありがとうございます」


 褒め言葉に温度はなかった。


 私は席を勧めた。リュシーは隣室でマーサと絵本を読んでいる。今日は体調がいい。けれど、知らない大人の硬い声を聞かせたくはない。


 カミーユ補佐は分厚い書類を机に置いた。


「本日は、冬鈴館の今後について重要なお話がございます」


「今後、ですか」


「はい。王立医務局では、冬季療養児の保護制度を一元化する方針です。その第一歩として、冬鈴館を王立冬季療養院の一部門へ移管する案が決定されました」


 部屋の空気が、わずかに冷えた。


「移管とは、所有権と運営権を王立医務局へ移すという意味ですか」


「正確には、施設管理権、療養記録管理権、人員配置権、患者選定権を医務局へ移します。建物についてはヴァイス伯爵家の所有であるため、長期貸与契約の形になります」


 アルノルトが静かに書類を見た。


「本人の同意欄がない」


「公共性の高い療養施設ですので、通常の私的契約とは異なります」


「冬鈴館は、子どもと保護者が安心して眠れる部屋を作る場所です。保護者の同意なく運営を変えることはできません」


 私がそう言うと、カミーユ補佐は穏やかに微笑んだ。


「だからこそ、国が責任を持つのです。個人の善意に頼った施設では、限界があります」


 言葉だけなら、間違っていない。


 冬鈴館にも限界はある。部屋は足りない。費用も足りない。私の魔法だけでは、王都中の子どもを暖めることはできない。


 だが、彼の書類には、子どもの名前が一つもなかった。


 患者番号。等級。標準寝具。標準食。保護者面会頻度。


 リュシーの部屋を奪われそうになった朝、私は夫の言葉に同じ冷たさを感じた。あの時も、理屈は整っていた。病弱な幼馴染には暖かい部屋が必要だ。子どもは環境に慣れる。母親がついていれば何とかなる。


 今回の言葉はもっと大きい。


 公共のため。


 国の責任。


 標準化。


 けれど、その紙の上で最初に消えるのは、子どもの名前だ。


「もう一点ございます」


 カミーユ補佐は、次の書類を差し出した。


「リュシー・レーヴェルト様についてです」


 私の手が止まった。


「娘が何か」


「リュシー様は、冬鈴館設立の象徴であり、保温魔法療養の最初の成功例でもあります。王立冬季療養院の広報および研究協力のため、王宮内の冬室へ一定期間お移りいただきたい」


 私は書類を読んだ。


 王宮冬室。


 滞在期間、三か月。


 面会は週二回。


 保護者同伴は原則不可。


 子どもの健康維持を最優先し、王立医務局が生活管理を行う。


 私は、紙の端を指で押さえた。


 そうしないと、握りつぶしてしまいそうだった。


「娘の部屋を、国に明け渡せとおっしゃっているのですか」


「強い言い方をなさる」


「事実確認です」


 カミーユ補佐は、初めて少し表情を硬くした。


「リュシー様一人の生活より、救える子ども全体を考えるべき時期ではありませんか」


 隣室で、リュシーが笑う声がした。


 絵本の場面で、きっと兎が転んだのだろう。娘は兎が転ぶ場面でいつも笑う。笑ってから、すぐに「だいじょうぶ?」と聞く。


 その声を聞いて、私は答えを決めた。


「お断りします」


「ノエリア様。これは個人的な感情で拒む話ではありません」


「個人的な感情ではありません。娘は見本ではなく、研究材料でもなく、広報の飾りでもありません」


「公共の利益を妨げるおつもりですか」


「いいえ」


 私は書類を机の上へ戻した。


「公共の利益という言葉で、子どもの部屋を奪うやり方を妨げます」


 アルノルトが黙って私の隣に立った。


 カミーユ補佐は、書記官に合図をした。書記官のペンが動く。


「本日の拒否は記録されます」


「こちらも記録します」


 私はハンナを呼んだ。


「本日、王立医務局より、冬鈴館の運営権移管と、リュシーの王宮冬室移送を求められました。保護者同伴は原則不可。本人同意欄なし。そう記録して」


「かしこまりました」


 ハンナの声は、いつものように静かだった。


 カミーユ補佐は立ち上がった。


「近く、正式な通達が届くでしょう」


「その際は、正式に異議を申し立てます」


「時間は多くありませんよ。冬は待ちません」


「子どもの返事を待てない制度に、冬を任せるつもりはありません」


 彼らが去った後、隣室の扉が少しだけ開いた。


 リュシーが顔を出す。絵本を胸に抱き、眉を寄せていた。


「おかあさま」


「どうしたの」


「リュシーのおへや、なくなる?」


 あの問いを、また聞かせてしまった。


 私は娘のそばへ行き、膝をついた。


「なくならないわ」


「ほんとう?」


「ええ。今度は、お母さまだけではなく、みんなで守る」


 リュシーは私の手を握った。


 小さな手は、少し冷えていた。


 私はその手を両手で包んだ。


 夫の屋敷から逃げた時、私は娘一人の部屋を守ればよかった。


 今度は違う。


 この冬、守るべき部屋は、王都中にある。

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