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第三十四話 春の庭と新しい名前

 春になると、旧温室館の庭に緑が戻った。


 冬鈴草は小さな白い花を揺らし、薬草棚には新しい芽が出た。リュシーは毎朝、鉢を見回っては「おはよう」と声をかける。


 離縁の正式な登録が終わり、私はノエリア・ヴァイスに戻った。


 その日、書類を受け取った私は、しばらく自分の名前を見つめていた。


 懐かしい名。


 けれど、昔に戻ったわけではない。


 侯爵家で過ごした年月も、リュシーを産んだことも、傷ついたことも、逃げたことも、全部持ったまま、私はこの名前で先へ進む。


 リュシーの姓については、当面レーヴェルトのままとなった。本人が成長した時に選択できるよう、法院が特別記録を残してくれた。


「リュシーは、リュシー」


 娘はそう言った。


「そうね。あなたはリュシー」


 春の庭で、アルノルトがリュシーに小さな木の札を渡した。冬鈴草の名前を書いた札だ。


「ここに立てると、花の名前が分かります」


「アルさま、じ、じょうず」


「ありがとうございます」


「おとうさま、とり、へた」


「それは練習中だそうです」


 アルノルトが真面目に返すので、私は笑ってしまった。


 リュシーは庭の土に札を立て、満足そうに頷いた。


 その姿を見ながら、アルノルトが私に言った。


「ノエリア様。近いうちに、お話ししたいことがあります」


 私は彼を見上げた。


 灰緑の瞳は、いつものように静かだった。だが、その奥に少し緊張がある。


「今ではなく?」


「今言うと、あなたが冬鈴草の植え替えと同じ予定表に入れそうなので」


「そんなことは」


 しない、と言い切れず、私は口を閉じた。


 アルノルトが少し笑った。


「あなたの離縁が成立したばかりです。急ぐつもりはありません。ただ、私はあなたとリュシー様の生活に、支援者としてだけでなく、もう少し近い場所から関わりたいと考えています」


 心臓が静かに跳ねた。


 溺愛、という言葉が頭をよぎった。


 前世で読んだ物語では、娘の死をきっかけに夫が妻を溺愛した。


 私はそんな展開を拒んだ。


 だからこそ、誰かに大切にされることまで拒む必要はないのかもしれない。


「考える時間をいただけますか」


「もちろんです」


「リュシーの気持ちも大切にしたい」


「当然です」


 当然。


 彼の口から出るその言葉は、いつも私を少し安心させる。


 春の風が、冬鈴草を揺らした。


 私は久しぶりに、未来を怖いものとしてではなく、考えてみたいものとして見ていた。

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