第2話 後編 ②喪
「……リ…タ…?」
音に反応し振り返った俺は自分の目に映る光景を信じられないでいた。
青く染まった唇、息をする度に揺れる肩。
あれ…どうしたんだよリタ。…やっぱり疲れてたのか?
背筋がすーっと冷たくなりまともな思考ができない。
「…イ…ルイっ!」
時が止まったかのように動けなくなっていた俺の思考を戻したのは、そこにいるはずのないラムダの声だった。
「ラムダ…な…んで。」
「話は後だ。サウール、手伝ってくれ。」
ぐったりして動かないリタを二人がかりで担いでいく。
その光景をじっと見つめているしかできなかった。
あれあれあれ、確かにリタは咳をしていた。
いや、でも大丈夫って。
___ガシャン。
背後を振り向いたままの正面で今度は陶器のようなものが割れる大きな音がした。
音の方向を向くと温めてきたミルクを溢したであろう婦人が言葉を出せずにボロボロと涙していた。
俺と目が合うなり婦人は「わあああああああっ。」と顔を塞ぎへたり込んだ。
「ごめんっ、ごめんよ。」とひたすら何かに懺悔する。
その非日常的な光景に、俺の鼓膜はビリビリと波打っていた。
「お疲れさん。」
そんな婦人に声をかけたのは、新たに入ってきた二人組の男性客だった。
うち一人の男性客の声は何度か聞いたことのある声だった。
そうだ。最初に俺達がパン屋に入った時。そして路地裏で聞いたあの声だ。
「ほらよ。」
座り込んだままわんわんと泣き続けている婦人の元に投げ捨てるかのように置かれたそれから中身が漏れ出す。
金色に輝く丸いそれが。
「あーあ、ちくしょう。今回は小せぇから初日でくたばると思ったのによ。」
そう言いながら懐から出した小銭袋を差し出す男性客。
「まいど。」
それを受け取るもう一人の男性客。
ふと俺の方を見るとケタケタと笑だした。
「なあ、こいつまだ状況を理解してねぇぞ。説明してやれよお前。」
「そうだな。」
同じくククッと片方の口角だけをあげて笑う男性。
「鈍感なテメェに教えてやるよ。汚ねぇお前らに最初から真っ当な仕事なんて無かったのさ!このババアはな、テメェの金欲しさに俺達の賭けの為にお前らを騙したんだ。」
「ゴミ処理?そんなの誰もしてねぇんだよ。あそこのゴミからは燃やしたら有毒ガスが出るって有名だからなァ!お前らが何日でくたばるか俺達が賭けてたってわけ。」
笑いが止まらないまま店を出ていく二人と変わらず「ごめんよぉ、ごめんよぉお!」と泣き続けている婦人。
固まったまま動かない俺。
なんだ、何が起こっている。
立ち尽くしている俺の中に走馬灯のように一気にこれまでの出来事が流れ込んできた。
リタとの作戦会議の夜。
断られはしたものの、初日に出会ったパン屋の優しい婦人。
三日目にしてようやく見つけ仕事。
二人で頑張ったゴミ処理。
咳き込みながらも頑張りたいと言って俺についてきてくれたリタ。
陰で見ていてくれた大人たち。
体調不良になり倒れるリタ。
いや違う。
リタとの作戦会議の夜。
俺の正義感が突っ走った夜。
断られはしたものの、初日に出会ったパン屋の優しい婦人。
その隣に居た薄ら笑いを浮かべた男性客。
三日目にしてようやく見つけ仕事。
これまでの二日に何があった?
二人で頑張ったゴミ処理。
煤がつくのも気にならない距離で火を見ていたリタ。
立ち上る黒い煙。
咳き込みながらも頑張りたいと言って俺についてきてくれたリタ。
リタの様子を笑顔一つで軽んじた俺。
陰で見ていてくれた大人たち。
企みに気づかない俺。
体調不良になり倒れるリタ。
サウールの警告を聞き入れない俺。
どんな状況だって真っ当に頑張れば認めてもらえると思っていた俺。
人の笑顔が何より好きだった俺。
皆のためにこれまでよくやってきた俺。
___俺、俺、俺。
あれ、俺は間違っていなかった?
呆然としている俺に一通り泣き終えた婦人が瓶を差し出した。
並々継がれたミルク。
「本当に。本当にごめんよ。謝って許してもらえる事じゃないのは重々承知してるんだけど、こうするしか無かったのさ。でないと私達家族がくたばっちまう。」
そこに蜂蜜を添えると、婦人は黙って店の奥へと消えてしまった。
「ルイ。一旦帰ろう。」
先程利他を抱えて消えていったサウールが戻って来て帰るように促した。
帰り道俺達は一言も話さなかった。
皆の場所へ帰ると慌ただしい風景が待ち構えていた。
手ぬぐいを濡らしておでこに当てる者、呼吸がしやすいように抱き抱える者等…
それぞれがリタの回復を願っているのが伺えた。
「ごめん…。」
誰に向けていいかわからず迷子になった言葉と共に、俺はあの懺悔の代わりにもならないミルクと蜂蜜を差し出した。
キッとこちらを睨んだマナが無言でそれを受け取った。
失った居場所を探すように視線を泳がせているとリタと目が合った。
リタは力無く笑った。
「ごめんね、ルイ。後少しで認めてもらえたのに。」
それは勘違いだったと、むしろ俺達は騙されていたんだと…言えるはずもなく喉の奥に詰まったものを飲み込んだ。
まるであの日の黒煙を吸い込んでいるかのように息がまともにできない。
そんな俺をぐったりとしたリタは幸い見ておらず、抱き抱えられたリンにミルクをもらっている。
リンの手にあるマグカップの中のミルクは減らないままただひたすら不穏に波打っていた。
まるで許さないとでも言うかのように。
間も無く俺の身体はミルクかのように波打ち自制を失った。
目の前にはガディの鬼のような剣幕があった。
「…っ何でこんなになるまで働かせた!」
そうだ。
何故こんなことになる前に気づけなかったのか。
予兆はたくさんあったのに。
俺はその全てを見落とした。
いや、自分の都合の良いように解釈していた。
俺はリタの前に跪き溢れ出る感情のままに言葉を吐いた。
「ごめん…ごめんな、リタ…!気づくべきだった…ごめん!!!」
獣が吼えるかのような心の叫びに周りの皆は何も言えずにいた。
その空気を切ったのはやはりリタだった。
咳き込みながら必死に息を吸い込んでこう言った。
「ルイ、ぼく本当に…うれしかったんだ。みんなのため…に働けたこと。みんながぼ…くの持って帰ってきたパン…を食べていること…ほんとうに、ほんとうに幸せだった。」
リタが息を吸うと共にゴロゴロと音を立てながら肺が伸縮していく。
それでも起きあがろうとするリタ。
周りが止めるも、その方が楽だと制した。
「リン、リンの優しい所…すき。」
リンと繋いでいる手を力無く握り返した。
「ガディ、いっぱい遊んでくれて…ありがとう。」
「ラムダ、みんなの…こと…おねがいね。」
「サウール、がんばりすぎない…でね。」
それぞれを見ながら微笑む。
「マナ…ごめん…ね。…だいすきだよ。」
にっこりと、でも確かに謝罪の言葉を述べた後、小さな身体は動かなくなった。
静かに嗚咽を漏らす者、下を向き背を向ける者、張り裂けそうな叫びを上げる者、それぞれが失った哀しみに耐えきれず漏れ出した感情の行き場を探している。
その姿に俺は先程まで自分が流していた涙とは比べ物にならないくらいの喪失という感情を目の当たりにした。
どれくらい時間が経っただろうか、それぞれが限界まで感情を出し切った頃にマナが鋭い視線をこちらに向けた。
「…あんたのせいだ。」
掠れた声だった。
泣き叫ぶでもなく、怒鳴るでもなく、ただ、感情を削ぎ落とした刃のような声。
「あんたが……殺した。」
その言葉が、まっすぐ胸を貫いた。
けれど次の瞬間、マナの唇が震えた。
「……違う。」
視線がゆっくりとリタへ落ちる。
「あたしだ……気づかなかったあたしが……殺した。」




