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世の中カネとコネとか、力と金が全てだとかいうけど、紙幣は紙だから、カネじゃないよね?

この作品は著作権フリーとさせて頂きます

この話をネタとして使うことに制限はありません


 生きるための手段を確保するのは、大事な事。

 おカネは大切。


 この二つの言葉を同じ意味で使うようになったのは、戦後の復興期でした。


 少なくとも、私の子供時代には、全ての人間=商人であるかのような認識は、ありませんでした。


 あたりまえですが、古い時代の農民は金銭を必要とせず、土地と作物という命を育てる事を生業(なりわい)として生きていました。


 生業(なりわい)とは、今では使われなくなった古い言葉です。


 貴様という尊敬語が、乱暴で敵対する相手を指す意味にとって代わったように。


 昨今では、生計をたてるための職業という意味に変質してしまいましたけれど。


 そういったものは、昔は稼業と呼ばれて、生業(なりわい)とは文字通りに生き方を含む職業の意味でした。


 欧米的な“ 即物的で精神文明を聖書宗教の神に依存した文化 ”にない「道」の思想による言葉です。


 武道や華道や茶道といった武家文化の言葉のイメージがありますが、道思想は本来、武家による征服が行われる前の古代の共存思想です。


 人の在り方を「道」という交流のための人造物に例える共存思想です。


 日本では、道具、人道、報道、地道、常道、非道に外道に道化、などと多くの使い方がされる事からも解るように、文化の根幹となっていた思想でした。


 その最たる例である道具は、道に添う物で、物質文明を造る器具であり、tool以外の意味を持っていました。


 道の思想とは、“ 精神文明によって共存し、物質文明で自然に抗って生きる ”という人類の生存戦略そのものを表す考え方です。


 武家が知識を独占し、愚民化を行ったせいで、五斗米道や太平道のように擬似宗教的な信仰や、老荘思想に変容し、征服者層の共存を説くものへと変化していきます。


 それでも、米国による文化侵略があるまでは、生業(なりわい)とは、“ 道=社会的使命 ”を含んだ言葉であり続けました。


 生業(なりわい)の考え方が消えていってるのは、“ 双頭の鷲戦略の誤魔化しを見破る考え方 ”で、愚民化政策にとって邪魔となるからなのでしょう。


 生業(なりわい)とはその生き方の本質を考えるものです。


 武家の生業(なりわい)とは、争う事と奪う事で、商家の生業(なりわい)は武家のために必要なものを必要な場所に届ける事。


 一握りの武家が造った組織が、大多数の農家を征服し続けた結果。


 共存するために人々を支え配るためのシステムは、武家達のせいで、征服の同義語になっていきます。


 そんな社会の中で、効率的に組織を運営して争うために発明されたのが、武器や権威の象徴を作る金属を物々交換の基本に据える「金銭システム」でした。


 青銅器文明から鉄器文明へと移り変わり銅貨や鉄貨といったものを基本に、金銀などの希少金属を大量の基本硬貨の代わりに使いと、交易と戦乱の規模の増加に伴い金銭システムは変化していきます。


 愚民化政策で大多数の農家を、“ 人類の生存戦略である 文明を創りだす共存”ではなく、“ 群れを造る動物の本能による原始的な統制 ”で操ることで“ 人類を破滅に導く自滅本能 ”を社会システムに組み込んだせいでしょう。


 現在に至るまで‘ 負の連鎖 ’は武家文化の流れを汲む現代の文化に根付いています。


 騙すな、奪うな、傷つけるな、殺すな。

 共存のために子供に最初に教える大切なこと。


 それを裏切り、誤魔化し、理屈で騙して、奪いあい、傷つけあい、殺しあう。


 その行いを正義と騙り、フィクションの美化された争いで、虚構を真実だと刷り込む役目。


 かつては、“ ローマ帝国の国教となった聖書宗教 ”や、ペルシアやアラビアの古代の神々を滅ぼした“ イスラムの聖書宗教 ”の聖典が、現代では映画やドラマやラノベやアニメにマスコミの情報操作が、それを広め。


 理想や善や人そのものさえも、美しく、醜く、虚構を描き続けます。


 解りやすく心情を揺さぶる誘惑ほど、現実とはかけ離れたもので、時に人は解っていてさえ、自らを騙す誘惑に浸りたくなる弱い存在で。


 それだからこそ、人間を操る有効な方法として、長い間使われ続けてきました。


 “ 金銭があれば幸せになれるという醜い嘘にさえしがみつきたくなる不幸 ”。

 

 そんな不幸をばら撒く誰か達に怯える自分達の弱さから目を背ける卑怯と。


 “ 不幸をばら撒く誰か達への怯えや自分の弱さ ”から目を逸らさぬ覚悟。


 もちろん、選びやすいのは前者ですが、それは破滅への道で、自分かそれ以外の誰かを不幸にし続ける生き方です。


 人間が、好い事よりも嫌な事を強く心に刻むのは、動物としての本能による生理だそうです。


 そんな苦痛から逃れたいと思う事も、怯えて立ち竦む事もあたりまえで、恥ずべき事ではありません。


 けれど、それが原因で起こるだろう自分や誰かの不幸や破滅を見逃すのは、恥ずべき卑怯です。


 文字通り卑しい怯えが、本来のこの言葉の意味でした。


 殺し合いを生業とする武家の悪の理屈で。


 “ 誰かを害する事を嫌と思う気持ちを捨てる ”のが、覚悟で、それをできない人間は卑怯だという詭弁があります。


 テンプレのフィクションで騙られる「殺す覚悟」という誤魔化しです。


「殺しあう負の連鎖に踏み込む狂気に対する決意」


 それを覚悟という言葉で、まるで自らの選択が正しいかのように錯覚させる甘えがこの言葉にはあります。


 この誤魔化しを口にして実行するのは、“ 逃げるのは恥で戦うのが生業と定めた人間 ”の中でも、大切なことを失って自らを騙す誘惑や狂気で壊れた人間や、人としての基本を覚える事なく育った動物です。


 本当の覚悟とは、極限状況でも、狂気に逃げず、誘惑に溺れず、人であり続けようとする文字通りの“ 覚めた悟り ”です。


  もちろん、それは容易いことではなく、自分を甘やかす人間、つまり“ 甘えを捨てきれない人間 ”は、皆のための正義という理屈や誰かのためという義や情で自分を誤魔化して奮起させ、それを‘ 勇気 ’と呼びます。


 人とは、そう簡単に覚悟できるものではないのです。


 自らが悪である事に抵抗を覚えない人間は、動物と同じで覚悟という心情すら持てません。


 だから、自分を甘やかし、‘ 勇気 ’すら持てない卑怯な人間は、“ 悪である事に抵抗を覚えない獣同然の人間 ”になる事が、覚悟する事だと思いたがります。


 無意識にでも‘ 勇気 ’を持てないのは、自分が“ 悪である事に抵抗を覚えない獣同然の人間 ”でないからと思い込めば、自分の卑怯さに向き合わずにすむからです。


 そして、自分の卑怯さと弱さを誤魔化し続け、最後には“ 悪である事に抵抗を覚えない獣同然の人間 ”であろうと、自分より弱いと思える誰かを傷つけ始めます。

   

 そう、原始の時代、洞窟で動物として暮らしていた‘ 毛無猿 ’と精神的に大差ない人間になっていくのです。


 現代では、サイコパスやソシオパスと呼ばれるそんな存在も、ほとんどは肉体的な欠陥が存在するわけでも遺伝的に分別できるわけでもなく、“ 人間という動物 ”です。


 現代社会がそういった人間を多く生み出すのも、“ 自分達がそんな動物だと認められない甘え ”や“ そんな動物だからしかたないと考える甘え ”のせいなのでしょう。


 狂気に逃げず、誘惑に溺れない‘ 覚醒 ’。


 ありのままを受け入れ、そのうえで善い方向へ向かおうとする‘ 悟り ’。


 その二つなくして、人は‘ 覚悟 ’する事はできません。


 遠い昔。

 テロリストになりかけた友人を説得するために語りあった私達が得たのは、そういった結論でした。


 連合赤軍が内ゲバを始める少し前でした。


 この国の一部しか知らない今の若い人には解り難いかもしれませんが、学生達が美しい未来を語りあった時代がありました。


 その時代には、マスコミやフィクションで語られるような熱狂に身を投じず、‘ 覚悟 ’をした学生も多くいたのです。


 そういったあたりまえに生きた学生たちについては、センセーショナルさがなく、マスコミも語らず、フィクションでも文学作品以外で取り上げられる事は少なく、広く語る人も多くはありません。


 熱狂と自分を憐れむ諦め、その二つしかないようにフィクションとノンフィクションでマスメディアが騒ぐ中、社会を支えるために、かつての学生達は歩み始めます。


 シンガーソングライターや学生運動を経験した作家達やマスメディアが自分を憐れむ諦めや挫折感に酔ったように時代の変化を宣伝する中。


 世界の終末や未来といった人間社会をテーマとしたSFの隆盛期が訪れたのは、そんな‘ 覚悟 ’をした古い世代達が活躍した結果だったのでしょう。


 そういった中、即物的な生き方をする人間は、当然、来るかもしれない全面核戦争を防ぐなどの善意の活動より、裕福さを求めて生きていきます。


 この時代、裕福であるという考え方は、物質的なことや金銭的なことを 優先して考えるという意味の欧米的な即物的生き方とは違いました。


  主観を排して、現実に即して 考えたり、行ったりする方法論を使うという意味の即物的な考えは同じでした。


 けれど、闘争と対立による富を奪い合う戦いを目指す欧米の貴族文化の生き方と。


 共存共栄で、金銭による困窮をなくして、余裕を持てる事が豊かさであるという農民文化の生き方。


 目指すものは、違ったのです。


 精神文明を、“ ‘ 自滅本能を抑制し共存する事で団結し、自然環境を改造して生きる ’という人類の生存戦略への理解度と社会的達成度 ”で表すのなら。


 どちらが進歩しているのかは、いうまでもありません。


 宗教では、光と闇の神々の対立としてフィクション化される考え方です。


 どちらが闇かは言うまでもないでしょう。


 富を奪い合う戦いを経済だと考える欧米的な金銭システムこそが害悪だと考え、総配給制度の共産制に回帰すればいいと考えたのがマルクス主義で。


 レーニンなどが社会主義を広める事で、冷戦に発展しました。


 当然、彼らも闇です。


 鉄のカーテンなどと呼ばれる共存の否定が、その象徴でした。


 軍事による征服を否定せずに、経済による富の奪いあいのみを否定する理屈など矛盾そのものでしょう。


  マルクスが資本論で語ったのは闘争の輪廻で負の連鎖が行き着く果てに、世界統一による理想郷が訪れるという聖書宗教の思想ですが、神が実在しない以上、精神文明の発展がなければ、そこには至れません。


 日本だけでなく欧米でもそう結論した人々はいましたから、これは日本の精神文化が格別に優れているという訳ではありません。


 農民文化が生産文化で、大日本帝國が滅びたおかげで、戦後の日本では武家文化が衰退したせいです。


 解りやすく言うなら、殺し合いにはうんざりしていた人間が多く、農民が一時的に発言力を持ったからです。


 第二次大戦で大量破壊兵器の誕生という戦争文化の到達点を目にして、人類の滅亡が夢物語ではないと感じた人間が、民主主義の理想とする共存思想を謳い、草の根的な平和運動が世界各地で起こります。


 対して、‘ 血統思想’あるいは‘ 選民思想 ’や‘ 能力主義 ’による‘ 階級主義 ’の頂点に立つ 権威主義者 ’は、自分達の権力を保つために争いを必要としました。


 ちなみに、‘ 選民思想 ’は遺伝だけではなく、オカルトや“ ‘ 才能 ’という結果論の理屈 ”を使った差別化で、 ‘ 階級主義 ’を造るものですね。


 宗教カーストとかスクールカーストなどと呼ばれるのが、この‘ 選民思想 ’の‘ 階級主義 ’です。


 社会の平均化や平等化は、冷戦時代の日本の社会主義者が宣伝していた‘ 一億総中流 ’のように、戦争がない時代でしか行えません。


 敵がいなければ、効率的な階級システムより、多くの人間に公平な分配をという意見が強くなるからです。


 世界に平和が訪れ、地球連邦のような統一組織が誕生すれば、共産主義などなくても‘ 階級主義 ’の頂点に立つ ‘ 権威主義者 ’が頼りにする権力は失われていきます。


 だから、‘ 権威主義者 ’は自分自身の欲望を叶えるシステムを守るために、争いを起こし続けなければ、生きていけないのです。


 現代の欧米化した日本ではそうでもありませんが、こういう生き方は、仏教思想でいう‘ 修羅道 ’で、東洋では馴染みの深い考え方でした。


 西洋では利権化した聖書宗教が、万人にそそがれる神の慈愛などというように平和を神聖化して敬遠する事で、“ 平和とは遠い夢物語で、現実では人間は獣であたりまえだ ”というイメージが広められ。


 そのせいで、“ 克服すべき人間の業 ”として“ 争いを造る動物的本能である悪 ”というものは隠されてしまいました。


 ローマ国教としての聖書宗教は軍事国家を支える精神的支柱だったからです。


 だから前回触れた‘ 双頭の鷲戦略 ’は、聖書宗教の布教方法でもあり、宗教を生業とする人間や‘ 征服利権 ’を生業とする人間の常套手段として悪用され、負の文化として継承され続けています。


 そのため、平和運動に社会に不満を持つ多くの人間が参加し始めると、権力やマスメディアを使って、平和運動をスキャンダルや暴力やテロに走らせるといった方法。


 無数の‘ 双頭の鷲作戦 ’で、平和運動は潰されていきました。


 一部の過激な人間を煽ったり、マスコミで大麻などを吸う一部の人間を宣伝させ、社会不適合者が行う活動のイメージを広める印象操作などが行われ。


 同時に、‘ 権威主義者 ’は正義であり、不公正があっても、それは必要悪で、人間の本質だからしかたないと正当化する宣伝を御用作家やマスコミの‘ 自称有識者 ’に行わせます。


 彼ら‘ 自称有識者 ’をそれらしくみせるのは簡単で、古くなって価値が薄れた機密などを教えて、マスコミでしたてれば、“ 普通の人間が知らない事も見出せる賢人 ”のイメージが創れます。


 似たような事は、企業でもやっていて、イメージ戦略と呼ばれるアレですね。


 自分達の商品のよいイメージを創るだけでなく、陰でライバル企業のネガティブキャンペーンを行ったりする。


 今でこそ悪名高いタバコなども、昔はもてはやされ、格好いい大人の嗜好品という印象操作が行われていました。


 芸能人や自称ジャーナリストが、そのための駒として使われ、だからこそ芸能界というのは黒い噂がたえません。


 虚栄で自らを飾り立て、他人の足を引っ張るのが彼らの生業で、古くからヤクザなどの裏稼業と近く、高級娼婦や男娼として扱われたり、近世では諜報活動に広く使われているのは、割と知られていました。

 

 近代では、マタハリのように末端で多くの罪を着せられて処刑されたりするのは例外で、権力者の子供や富裕階級も虚栄欲を満たすために芸能界に参加する事で、芸能界は格差社会化していきます。


 ‘ 才能 ’の世界で、実力がなければなどと、よく宣伝されますが、その実力を判断する人間にとって都合のイイ人間が評価され、‘ 才能 ’があると宣伝されるのは、他の‘ 選民思想 ’で動く階級社会と同様です。


 フィクションの世界でも、‘ 才能 ’というものはテーマとして扱われます。


 ‘ 超能力 ’などとセットで‘ 才能 ’を語るオカルトなどは、‘ 選民思想 ’が多く含まれ、‘ 才能 ’というものは神に与えられた贈り物で、人の努力で得られるものではないと騙ります。


 その究極が、このサイトでテンプレとなっている「神様に貰ったチート能力」です。


 なぜ「神」なのか?

 自分にとって都合のイイ権威だからです。


 ‘ 王権神授説 ’という武家と聖書宗教がでっちあげたフィクションが、その大元のネタでしょう。


 この考え方は、自分に都合の良いものが正しいという理屈で、仏教などでいう‘ 悪業(あくごう) ’です。


 この考え方も、昨今では知らない人もいるでしょうから、簡単に説明すると。


 悪は、古語では荒々しく猛々しい様を表し、(ごう)はオカルト抜きで言うと“ 動物的本能 ”からくる欲求とそこから生れた情念の連鎖のことです。


 ですから、悪業(あくごう)は、‘ 動物的本能 ’ からくる欲求とそこから生れた‘ 負の連鎖 ’。


 つまり、脅しと危害による暴力で他者を征服する在り様で、“ ‘ 動物的本能 ’からくる欲求を行動基準にする利己的な在り方 ”を正しいと言い張るのが、この考え方です。


「悪い事して何が悪い」


 という恥知らずな話を、「神というフィクション」で誤魔化して、「俺は偉い王様だ」というのが、‘ 王権神授説 ’。


 王がただの集団の調停者という役職である事を誤魔化して、‘ 権威主義 ’による「神」に等しい征服者とする理屈です。


 現代では通用しない理屈ですが、利己的な快感を得られる理屈なので、「神様に貰ったチート能力」や「偶然、手に入れた特別な力」などの形でフィクションで使われています。


「力は唯の力だから使い方しだいで、正義にも悪にもなる」

  という理屈でのヒーロー物語にも使われてますね。

 

 これは、何を意味するのでしょう?


 そう。

 現代では、聖書宗教由来の「絶対的な正義に反する悪」というイメージからか、‘ 利己主義 ’=悪ではないと考える欧米的考えが広まっているわけです。


「力は唯の力だから、使い方しだいで‘ 必要悪 ’にも悪にもなる」


 のではなく、正義を騙る物語です。


 それを嫌って、俺以外の悪は許さないと‘ 必要悪 ’になろうとする物語もあります。


 けれど、その多くが自分は悪だとは語りません。


「嘘は言ってない」


 そういう騙しのテクニックです。


 聖書宗教由来の「絶対的な正義に反する悪」というイメージを持つ人から攻撃されないため。


 あるいは、‘ 必要悪 ’と正義の違いが解らない。


 そういった理由で誤魔化しの理屈は広まりますが、確信的に誤魔化しの理屈を広めようという人間もいます。


 ‘ 利己主義者 ’達です。


 自分達が悪だと認めると困る‘ 利己主義者 ’は、‘ 悪業 ’を誤魔化しの理屈で塗りつぶそうとします。


 フィクションによくでてくるのが。

 

「世の中には人の数だけ正義がある」


 と良識ある人間なら皮肉だと解る言葉を、言葉どおりの意味で、それが正しいと騙る理屈。


 けれど、客観的かつ公平に、“ 人類の生存戦略である共存を護る事が正義 ”と考えるなら。


「世の中には人の数だけ‘ 悪業 ’がある」


 これが正しい考え方でしょう。


「誰かにとって(都合の)良い事が、他の誰かにとって(都合の)良い事ではない」


 これを同じ誤魔化しで騙れば。

 

「誰かにとっての正義が、他の誰かにとっての正義ではない」


 となります。


 “ 人類の生存戦略である共存を護る正義 ”を貶める嘘には、二つの方法があります。


 集団の我欲を正義と騙る国家や組織が使う嘘。

 正義など国家が使う嘘で正義などないという嘘。


 一つ目の嘘を嘘だと口にする事で新たな嘘を信じ込ませる。


 これは詐欺師のテクニックの一つです。


 そして、嘘を無数にばら撒く事で、確率的に信じる人を増やすのも。


 そう、「オレオレ詐欺」に始まる詐欺師の新しいテクニックです。


 犯罪者が真似るくらいに蔓延った負の文化。


 物書きにも、知ってか知らずか、この負の文化を広めている人間がいます。


 知っていてやっているのなら、それを止めるのは難しい。


 世の中カネとコネが全ての‘ 我利我利亡者 ’で詐欺師と精神的に同じ人間だからです。


 けれど、知らないでやっているのなら気づかせてあげたいものです。


 ‘ 我利我利亡者 ’というのも昨今では、あまり使われなくなっている言葉ですので説明すると。


 カネの亡者やブラック企業などとも言われる人間達の事です。


 ‘ 信用経済 ’などと言われる一見、よい理論で動いてそうな経済システムで、そういった人間が蔓延っています。


 これを個人の資質というのは間違いではないでしょう。


 けれど、そういった人間が蔓延れるくらいに、労働者を護る法が骨抜きにされてしまっているのが、日本の現状です。


 競争相手がブラック国家だからしかたない。

 それがグローバル化というものだ。


 そういう意見が‘ 双頭の鷲戦略 ’によって世界中で広められ日本も同調したのです。


 日本では属米政治屋によって‘ 労働者派遣法 ’でグレーゾーンだった労働者派遣業を禁止ではなく認め、‘ 労働基準法 ’を骨抜きにした。


 1985年、 田中角栄が事実上政界から引退し、ロナルド・レーガン政権との関係を中曾根内閣が「ロンヤスの仲」と強調した冷戦時代の末期の事です。


 ペレストロイカでソビエトが経済での敵となると考えての長期戦略。


 言い換えれば、共産主義を大義名分にした敵が消え、民主主義を仮想敵とした‘ 権威主義者 ’が民衆の団結や余裕を奪おうとし始めた時代でした。


 翌年には、外国弁護士特別措置法などで、グローバル化を促進させました。


 同時に、米国を中心とした軍産複合体の一員として、日本の企業を組み込むための手段ではないかという批判に対抗したのか。


 グローバル化とは共存の理屈だというマスコミの宣伝も始まります。


 けれど、交渉で、Win&Winの関係を築くという考え方は、損をするものをなくそうという共存の考え方ではありません。

 

 勝利と勝利で両者が得をするという考えである以上、敗者を別の企業に押し付けるための理屈。

 軍事型経済同盟という争いの理屈です。


 紙幣経済から始まった信用経済とは、多くの物語で語られるように、暴力なしには成り立たないシステムです。


 なぜなら、紙でしかない紙幣を価値あるものにしているのは、‘ 国家の権威 ’だからです。


 人類全体を一つの共同体として考える共存思想から見ると、国家とは暴力で一部の人間征服するためのシステムで、争いあう事で成立する‘ 権威主義 ’なしには成り立たないシステムだという事ですね。


 信用経済は“ ‘ 権威を護る争い ’で、勝つために創られたシステム ”です。



軍事力と経済力が同等となった近代で、国家が紙切れを価値あるものと認めさせる事で、暴力と脅しによる負の連鎖の文化の一員として、征服した全ての人間を強制的に‘ 共犯者 ’にする紙幣経済システムを造りました。


 国家に依存しない巨大利権や‘ 利己主義者 ’達は、紙幣の売り買いや株式の売り買いという虚構の富を使う賭博システムで、国際市場を創り国家すら買い利権を造りました。


 つまり、“ 権威に従うものの価値を、争いあう事で獲得した紙切れの所有量で決定する階級システム ”を‘ 権威主義者 ’達は、広めたのです。


 そのために貨幣の数量は、実在の富を大きく上回り、権威の弱い国家の貨幣には価値すらなくなり、大恐慌が起こると経済以外の物理的暴力が振るわれ戦争が起こります。


 “ 権威主義による金銭階級制度 ”が造る実態を持たない経済こそが、戦争の原因だという事ですね。



 そのシステムの中で生れたからといって、それに服従するかどうかは別の話ですから。


 その事に気づいて糾そうとした人間は、“ 金銭への執着は悪 ”だという考え方を広め。


 システムに服従し欲望の奴隷である事を選んだ人間は、「世の中は力とカネが全て」とか「世の中はカネとコネ」だと皮肉りながら受け入れていきました。

 


 農業商人が、穀物メジャーと呼ばれるような巨大利権となり、争いを巻き起こすようにもなり、日本の農家の文化である「和の文化」も変質していきます。

 



  知っていてやっているのなら、それを止めるのは難しい。


 けれど、知らないでやっているのなら気づかせてあげたいものです。


 その結果、未来を憂うことをせずに、今さえ好ければ、会う事のない自分の子孫や誰かや自分以外がどうなってもいいと、利己的に生きるのか?


 自分も、また人が創りだした精神文明の一員であると自覚して、少しでも、世界を善い方向へ変えたいと願って、そのためにできる事を探すのか?


 それはその人次第ですが。


 あるフィクションでは「無邪気」が世界を滅ぼすと語られたように、何も考えない事は最悪の結果を招きます。



 現実やフィクションの犯罪者が、よく口にする台詞。


「知らなかったんだ、僕は悪くない」


「悪気はなかったんだ。そうするしかなかった」


「あいつが悪いんだ。全部、あいつのせいだ」


 責任というものが何かを知らない子供の理屈です。


 マスコミなら責任というものを何か知らない身勝手な犯行と取り上げそうな話です。


 けれど、社会的責任をとらない政治屋に官僚に企業のように、対象が個人でなくなると、間違いを指摘しても、そういった組織を、甘ったれた子供の集団だとマスコミは責めません。


 個人より優遇される法人という不老不死の法的には人と同様の財産権を持つ存在が、社会的責任を取れない幼児性を持つ事を当然だとしているのです。


 フィクションの政治屋や官僚や企業の有力者は、甘ったれた理屈で動く組織を正そうとした人間に言います。


「だから、オマエは世間知らずの甘ちゃんなんだ。世の中はカネとコネと力なんだよ」


 自分自身の甘えに気づかずに、口にするなら滑稽で。

 気づいていてやっているのなら、恥知らずな犯罪者思考。


  正しさを貫けなくても、少しでもマシな生き方をしたいと思えるのなら、自分を甘やかす誤魔化しの理屈で生きる事だけは、やめたいものです。


そうしなければ、自分が間違った事にすら気づかずに、延々と自分や誰かを不幸にする自覚すら持てないままに、死や不幸をばら撒く共犯者とされてしまいますから。


 


 世の中カネとコネとか、力と金が全てだとかいうけど、紙幣は紙だから、カネじゃないよね?


 

 どんぴこからりん、すっからりん

 

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