episode92
祭りは終わり、陽は完全に落ち、静寂と寒気が一帯を覆う夜のこと。
旅館、その女子風呂において。
「いやぁ……温泉っていいわねぇ」
「そうですねー」
戸田と黒崎が温泉を堪能していた。その隣ではアウラもまた湯船に肩まで入っており、一見無表情だがどこか楽しそうだ。
「……なぜ男子と女子で温泉に入る時間をズラす必要があるんだ……」
「男性陣総意の願いであり、原因はあなたですよ室井さん。昨日の風呂で男子風呂に飛び込んで散々迷惑かけたじゃないですか。またそんなことしないための対策ですよ」
「なんだ梨々香ちゃん、少し冷たくはないかい? その気になれば私は無関係なショタを狩りに戦地へ飛び立つぞ?」
「戦地ではなく死地まで殴り飛ばしますよ?」
そんな他愛もない(?)会話が繰り広げられている一方で。
「…………」
柳沢もまた湯船に浸かっていた。絶妙な温度が体を温め、立ち上る湯気が全身を包み込む。
そんな温かい温泉とは反対に、彼女は元気ではなく冷えていた。祭りの時に聞いたあの独白が、未だに心を蝕んでいた。
自分は、何もできない。
それを悟り、でも諦めることができなかった。
彼女は気づいている。自分は彼に執着し、寄りかかっているのだと。
彼という存在が、柳沢の支えなのだ。
足を引っ張るのだと。
彼女は、迷っていた。
自分の心が信じられない。
「……わけわかんない」
思考が混濁に混濁を重ねた結果、自分が何に対してそこまで悩んでいるのかすら、わからなくなっていた。
お湯に顔を埋めた時、不意に肩を叩かれる。見上げると、そこには青島がいた。
「どうした織、お前らしくない暗い顔しやがって。何かあったか?」
彼女は柳沢の横に座り、軽く髪を撫でる。
「……シマちゃん、聞きたいんだけど」
「なんだ?」
「シマちゃんってドラちゃんの幼なじみなんだよね?」
「あぁ。小学校の頃から一緒だったからな……大体10年半だな。……あぁ、振り返るとかなり長いな」
「だったらさ、シマちゃんは知ってるの?」
「何がだ?」
「……『タイガ』って子のこと」
「……!」
青島の顔色が変わった。やはり、そういうことだったらしい。
「……なんで織が知ってるんだ?」
「……今日、ドラちゃんとクロちゃんがそのことについて話してるのを偶然聞いて……」
「あぁ……あいつ、話したんだな」
青島は黒崎を見る。それはどこか遠い目をしており、同時に嬉しそうでもあった。例えるなら我が子の成長を喜ぶ親のように。
「それで、『タイガ』がどうしたんだ?」
「……シマちゃんは、怖くないの? 私たちが今まで接してきたドラちゃんが本当のドラちゃんじゃなかったかもしれないんだよ?」
「本当の……ねぇ。それじゃ1つ聞くが、本当の龍って一体なんだ?」
「え?」
「知ってると思うが、『タイガ』は傷裏の一部から生まれたやつだ。だったら、あいつも十分『傷裏龍』じゃないか。なんてことはない、どっちも本物だ」
「でも……」
「織、お前は何を悩んでるんだ? 龍が『タイガ』を隠していたことが辛かったか?いや、違うだろ。人間なんだし秘密の1つや2つあっても不思議じゃない」
青島は心底不思議そうな顔をする。
彼女は悩んでいない。それは彼……傷裏龍を理解しているからだ。
「私は……わからないの、自分の気持ちが。ドラちゃんが好きなはずなのに……その気持ちがホントかどうか、わからなくなってる。……私が好きなのはドラちゃんなのか、『タイガ』って子なのか……今まで接してきたのがどっちなのか、わからない……」
「……なるほどなぁ」
柳沢の気持ちを聞いた青島は、彼女の頭を優しく撫で始めた。
「まぁ……わからないでもないよ。アタシだって最初は怖かったさ。今までの龍じゃないって不安になった。アタシの知る龍が消えちゃうんじゃないかって思った。今じゃ区別がつくけどさ、昔は龍と『タイガ』の違いなんてわからなかった」
でも。
「途中で気づいたんだ。結局、龍は龍なんだって。龍も『タイガ』も、等しく同じやつなんだって。あいつは変わらない。例え人格が2つに分裂したとしても、どれだけ強い力を持ってても、あいつの優しさは変わらない。あいつらは2人で1人なんだ」
だからさ。
彼女は最後に言う。
「両方好き。それでいいんだよ。あいつがアタシたちとどれだけ違ってても、同じ人間だ。その人のいい部分も悪い部分も、まとめて好きになればいいんだよ」
青島は簡単に言った。
しかしそれは、柳沢にとってとても困難な議題だ。
しかし、青島に言われた途端、心が落ち着いたような気がした。
「なーに話してんの?」
「ひゃぅ⁉︎」
シリアスムードをぶち壊す、唐突なる声と衝撃が柳沢に押し寄せた。見ると、戸田が彼女の体は全身くまなくホールドし、妖艶な手つきが艶やかな肌を舐め回すように触れる。
「織ちゃんさぁ、祭りの後からなんか暗いぞー? ムードメーカーの織ちゃんがそんなのでどうすんのさー? ほら、笑顔笑顔」
「あ、はぃ……ひゅぅ⁉︎」
戸田の言っていることは真面目なのだが、同時に行っている撫で回しがどう見ても官能的危険行為であり、柳沢の思考は全く回らないわけであり。
「それにしても織ちゃんってホント肌は綺麗だしスタイルはいいし顔は可愛いし健気だしって、よりどりみどりよねぇ。ここまでの良質物件はそうそうないわよ」
「そんなこと……ないで……しゅっ⁉︎ ……や、ちょっ……ァメ……」
昨日のデジャヴな気がする光景だ。
青島は救援に入ろうかと考えたが、助けた結果今度は自分が標的になるのではという恐怖に駆られ、前に出ることは叶わなかった。
「ということで聞きたいんだけどさ、織ちゃんってなんで傷裏が好きなの?」
「ふぇ?」
核心を突いた質問だった。
戸田の魔手が止まり、静寂となる。
タイミングが良すぎて、逆に怖かった。
「え、それは……」
「あ、やっぱり恥ずかしかった? ごめんね」
「いえ……それもそうなんですけど…………戸田さん、聞いていいですか?」
「お、私に質問かい?」
「……恋って、なんですか?」
しばらく、時間が経った。
その静寂を作ったのが柳沢であればそれを壊すのもまた柳沢だ。
「あ、あの、すいません……変な質問しちゃって。忘れてください」
「ん? あぁ、いや、ごめんね急に黙っちゃって。あまりにも唐突な質問されちゃったからつい、ね。……なるほど、恋とは何かか。随分とまぁ難題ですなぁ」
戸田はわざとらしく唸りながら頭を捻る。
結果、彼女は答えを導き出す。
「信念……かな」
「信念?」
「そ。深く考えることはないの。あーなんかこの人いいなー、とか、この人と一緒がいいなー、とか、そういうことをちょっとでも思えたら、それはもう既に恋に落ちてるってことなんだと思うわ」
「でも……相手が、自分じゃどうしようもない暗いものを抱えてたり、その人を幸せにできないと思っちゃったら……どうすればいいんでしょうか?」
「そん時はそん時よ。今見るべきは今なのよ。そりゃあ先のことを見据えるのも大事だけどさ、結局未来がどうなるかなんて誰にもわかんないのよ。だったらさ、とにかく今何が最善かを考えれば、それでいいんじゃないかしら?」
彼女もまた、簡単に言ってのけた。
彼女もまた、強い。
柳沢の心は、少しづつ落ち着きを取り戻しつつあった。
自分だけで考えるのではなく、人と寄り添うことで初めて、ちゃんと自分の心を見つめ直すことができてきた。
そこで柳沢は、一同から少し距離を置いて温泉を堪能していた黒崎の元へと移動する。
「クロちゃん……実は私……」
「私と傷裏君の会話を聞いてたこと? わかってる、それは気づいてるから」
「え……そう、なんだ」
「やっぱり驚いた?」
「うん、さすがに……」
「だよねぇ……いきなり僕は2重人格だー、とか言われてもねぇ……」
彼女は自らの手を天井に掲げる。水滴が腕から滴り落ち、彼女の人形のような体の美しさを際立たせる。
「クロちゃんは……怖くないの?自分が今まで接してきたのはどっちだったのか、とか……不安に、ならないの?」
「いや、もちろん考えたよ。色々考えた。でもやっぱ、受け入れるしかないよね。今まで私たちが接してきたのも、別の人格である『タイガ』君も、どっちも傷裏君だし」
あぁ、そうか。
ここでようやく、柳沢は理解した。
自分の心の有り様に。
結局、皆の言う通りだ。
深く考え、悩むことに意味はない。
どうせ自分は馬鹿なのだ。
なら、やれることは限られる。
「自分の心に、決着をつける!」
柳沢は湯船から勢いよく出た。その目は今までの暗いものとは違い、自らの歩むべき道を見出した者の目であった。




