episode91
傷裏と黒崎の座るベンチ。
その後ろには、人が1人隠れてもまだスペースが存在するほどの大木があった。
そんな大木に、傷裏たちに背を向けるように、柳沢が背を預けていた。彼女は傷裏を探して歩いていたのだが、偶然見つけたと思えば黒崎と並んで座っていたため、この大木に隠れたのだ。
聞いていた。
黒崎の問いを。
傷裏の独白を。
しっかりと聞いていた。
(……………………2重、人格……? どういうことなの……)
傷裏の過去、別人格の存在、復讐の思い。
全て聞いた。
そして、わからなくなった。
自分は、どの傷裏龍が好きなのか。
優しい傷裏龍、強い傷裏龍、可愛い傷裏龍、どこか間抜けな傷裏龍。
全てが好きだ。
しかし、こうなるとわからない。
柳沢の好きな傷裏龍は、本当に傷裏龍だったのか、わからない。
傷裏龍。
『タイガ』。
2人の存在を聞いた。
2人が元は同一人物だということも聞いた。
だがそれでも、理解が間に合わない。
自分の真意がわからない。
そして。
(私は……気づくことができなかった……)
黒崎が傷裏龍に抱いたとされる違和感。その正体は別人格だった。
だが、柳沢は違和感を覚えなかった。
違いがわからなかった。
これは、想いの違いか。
きっと黒崎もまた、傷裏龍に好意を抱いている。聞くところよると、黒崎は傷裏龍に何度も助けてもらっている。これで好きにならないということはまずない。
となると、黒崎は柳沢より傷裏龍を見ていたということだろうか。
柳沢は、傷裏龍の本質を見ていなかったということだろう。
(……ダメじゃん、私……)
柳沢は凡人だ。これといって特殊な取り柄があるわけでもない、ごく普通の人間だ。
そう、普通。
普通の人間は、好きな相手が2重人格と聞かされ、はいそうですかと割り切ることはできない。自身の感情に不安を抱いてもおかしくはない。
彼女はいい意味でも悪い意味でも普通だったのだ。普通の恋はできるが、普通ではない恋はできない。
(それに……私じゃドラちゃんを幸せにしてあげることはできない……)
これは柳沢の恋愛持論だ。恋とは、互いが互いを幸せにできて初めて成立する。互いを理解して、互いを受け入れ、互いを知る。
だが、ダメだ。
この場合はダメだ。
柳沢は傷裏龍と一緒にいるだけで幸せだ。何をするにしても、何が起きるにしても、傷裏龍がいるという安心感は柳沢の心を抱擁してくれる。
だがその逆はどうか。
柳沢は傷裏龍を幸せにしてあげることができるか。
傷裏龍に何かできないかと、ずっと考えてきた。
だけど、ダメなのだ。
柳沢は、彼を本当の意味で理解することができず、人格の違いに気づいてあげることができず、彼の深い闇を打ち消してあげることもできない。
(じゃあ……ダメじゃん)
個人の主義主張の問題ではない。相互的な幸せを考えなければならない。
柳沢は普通なのだ。物語に出てくるヒロインのように強くもなければ器が過度に大きいわけでもない。
だからブレてしまう。
歪みが生じてしまう。
柳沢は、それを理解してしまった。
黒崎には敵わないと理解してしまった。
(でも……諦めきれない)
傷裏龍への恋慕を。
執着を。
そして同時に、嫉妬する。
傷裏龍に好意を抱かれている黒崎に。
そして同時に、憤怒する。
そんな汚く醜いだけの自らの心に。
(……ダメだ、全然ダメだ)
今は思考がまとまらない。恋慕うんぬんとは別に、様々な事象が一気に脳内に押し寄せ、パンクした。
柳沢は逃げるように、その場から立ち去った。
黒崎は気づいていた。背後でそびえ立つ大木の後ろに柳沢がいたことを。
そしてたった今、彼女が目尻に涙を浮かべて去っていったのことにも気づいた。どうやら傷裏はそのことに気づいていないらしく、顔を両手で覆っていた。
黒崎は聞いた。傷裏の独白を最後までしっかり聞いた。
だから、疑問を投げかける。
「傷裏君……どうして『タイガ』君の存在を皆に秘密にするの?」
「……深い理由があるわけじゃない。これは僕の自分勝手な欲なんだ。『タイガ』は僕の負の象徴だ。つまり『タイガ』を皆に見せるということは、僕の罪を露見することになる。……それは、耐えられない」
黒崎は理解した。傷裏が自分の精神崩壊によって『タイガ』を生み出し、その上で彼の存在を束縛している自らの愚かさに悩んでいることを。
傷裏は聖人君子ではない。人のために行動することはあるが、全ての人間を守りたいと思っているわけではないし、自分のためのエゴだって持ち合わせている。
エゴ。
今回の場合は『タイガ』の束縛。
間違っているとわかっている。『タイガ』の存在を秘匿することは、彼の存在を認可しないということになる。尊厳の無視だ。
しかし、それでも傷裏は、己の醜さを人に見せるという行為に踏み切れない。
両親を死に追いやってしまった原因である好奇心をベースに生まれた存在を、曝け出すことができないでいる。
「……傷裏君は、『タイガ』君が嫌い?」
「嫌いでは……ないけど、引け目を感じることはある。僕のせいで彼はこの世に生まれてしまい、僕のせいで彼は自由を奪われた」
「それは違うと思う」
「……え?」
黒崎はハッキリと言う。
今の傷裏の言葉には、問題がある。
「傷裏君のおかげで、『タイガ』君が生まれることができたんじゃないのかな? 『タイガ』君だって人並みの幸せを感じることはあるでしょ?好きなものを食べたり、はしゃいだりって。それってさ、生まれないとできないことじゃん」
黒崎は楽しく語る。
傷裏が暗いのは見ていて辛い。
なら、自分が明るくなればいい。
傷裏を明るくできるぐらい元気になればいい。
「本来は存在するはずのなかった。美味しい空気を味わうことも、日の光を浴びて走り回ることも、何もできないはず。でしょ?」
「でも……僕は彼を相棒としては扱ったけど、1人の人間としては扱うことができなかった……。怖かったんだ、彼を直視することが……」
「傷裏君はね、怖がり過ぎだと思うの。自分の心……好奇心を。傷裏君がアタッシュケースに興味を持たなければご両親は近づかずに済んで助かったかも、とか思ってるんだろうけど、実際そんな程度で助かる被害じゃなかったでしょ? 傷裏君が生き残ったのだって完全に偶然だし。むしろ傷裏君が好奇心を持たなきゃご両親はアタッシュケースに近づかずに、多分傷裏君諸共普通に死んでた」
冷たい言い方だと我ながら思った。
でも事実だ。
彼を擁護するのではない。
甘やかすわけではない。
真実を理解し、吹っ切って欲しいのだ。
「……両親の死を糧にしろと、そう言いたいの? だとしたら残酷だよ。人の死を利用しようだなんて……」
「そんなの今更よ。傷裏君も私も、既に人を殺してる。……動物っていうのはね、死を利用しないと生きることができないんだと思うの」
「それはそうだけど……」
「……ねぇ、傷裏君」
ずっと違和感があった。
『タイガ』の存在や傷裏の過去とは別の、異質な違和感が。
「傷裏君ってさ、やっぱり他人と身内の扱いに差があるよね」
「え?」
「いや、赤の他人より見知った知人の方が大事で肩入れしたくなる気持ちはわかる。それはわかるんだけどね、傷裏君の場合は過度なの。なんというか……大事な人っていうカテゴリの重要性が高過ぎるの」
「過度……」
「赤の他人は本当にどうでもよくて……それこそ死んでも何も感じないけど、仲間が死ぬことだけは許さない。それも一種の脅迫観念みたいに」
傷裏は黙った。きっと図星だろう。
この言葉かけは、彼の精神に何か多大な影響を与えるだろう。
だから、優しく語りかける。
「傷裏君、そう固くならなくていいんだよ。もっと気楽に、欲深く、本当の意味で自分の罪を理解して、なおかつ認められるのは自分だけなんだから」
「……………………」
「これは私からのお願いなんだけどね、傷裏君には自由に生きて欲しいの。誰にも、何にも束縛されない自由を」
私が言っても説得力ないけどさ、と黒崎は笑いながら言った。
傷裏は黙った。きっとそれは苦悩の証だ。
「……俺は」
傷裏は呟く。
黒崎に違和感を与えながら、呟く。
「俺は、未だに自分を許せない。この2年間の苦悩は、そう簡単に払拭できるものじゃない。そんな浅かったら、こうも悩んでない」
「……うん」
「でも」
逆説が唱えられた。
彼は黒崎を見つめる。
真っ直ぐな目だ。
黒崎が惹かれる、純粋な目だ。
「それは今まで『タイガ』と向き合ってこなかった僕の責任でもある。だから……俺は、向き合いたいと思う。彼を認められるような人間になりたい。それでね……」
彼は一旦目を背けた。抵抗があり、責任があり、心配があった。
だがすぐに、彼は視線を戻した。
覚悟を決めた目を向けた。
「そのための力を貸して欲しい。僕が挫けそうになった時は手を差し出して欲しい。俺だけじゃどうしようもない時は助けて……ほしい」
告げた。
力を込め、顔を赤らめながら、精一杯の力で告げた。
今までとは違うエゴを出した。
はたから見ればそれは愛の告白ともとれる言い回しだった。現に当事者である傷裏は言った直後にそれを理解し、顔を赤らめていたのだ。
だがそれとは反対に、黒崎は清々しい笑顔を見せた。
「うん、わかった! 傷裏君がそうしたいなら、私はそれにつき合う。なんだって協力してあげる。傷裏君がそう言ってくれるのを待ってたよ!」
彼女は興奮のあまり傷裏に勢いよく抱きついた。当然傷裏にとってそれは過剰な喜びと異常な羞恥を与えるものであり、頭から蒸気が生じるレベルに顔を赤く染めた。
「……あ、ごめん!」
しかし自分の行いの突飛さに気づき、黒崎はすぐに離れて目を背ける。彼女もわずかだが顔を同色に染め、若干テンパっていた。
「……あ」
それでも思考は正常に回っており、黒崎はその間に違和感の正体に気づいた。
「……ねぇ、傷裏君?」
「……何?」
「傷裏君の一人称ってさ……『俺』だっけ?」
「え?」
彼にとって、それは想像もしていなかった問いかけだっただろう。なぜなら傷裏の基本的な一人称は『僕』だからだ。
「いや……俺の一人称はぼ……え?」
彼もまた気づいた。
無意識に、知らぬ間に、傷裏の一人称に変化が生じていたことに。
そして思い出す。
この短い時間の中で、彼は度々自らのことを『俺』と称していたことに。
これもまた、無意識に。
「……あれ? なんで?」
「それにね、傷裏君。さっきからなんか表情とか姿勢が変だよ? 目はたまにキリッと怖くなるし、背筋がたまに猫背になるし」
わからない。全くわからない。傷裏は生まれてからずっと『僕』口調だ。人は年齢を重ねることで口調や
一人称が変わることはあるが、これは違う。『僕』と『俺』が交差し、不規則にバラバラに生じている。
そして目と姿勢のズレ。これは傷裏の性質ではない。
なんだ?
「…………まさか。……いや、でも、さすがにそれは……」
「傷裏君?」
頭を掻き毟る。こんな単純で意味がなさそうな事実が、不意に今までの点でしかなかった事象同士を線として結んでいく。
「……黒崎さん、1つ……いい?」
「どうしたの?」
「僕の精神は、今日の朝から異変があったんだ。本来は自由に出入りできるはずの僕と『タイガ』のリンクが断絶して、不規則に僕たちが入れ替わってたんだ」
「あ、だから今日は『タイガ』君がよく出てたんだ。なるほど」
「それでね、1つ聞きたいんだ。今日『タイガ』は、きっと悟られないために僕のマネをしていたはずなんだけど、俺のマネは自然だったかい?」
自身の一人称にまたブレが生じたことに気づくこともなく、傷裏は真剣に問いかける。
だから黒崎もまた、真剣に答える。
「朝には違和感があった。でもね、お祭りの途中からは、なんだか自然に感じた。正直に言えば、あの時は違和感なんてなかった」
違和感がなかった。
それは決定的な証言だった。
ゆえに傷裏は口にする。
自身の推論を、口にする。
「……僕と『タイガ』が…………1つに戻ろうとしている?」




