少年、風をつかむ
第2話
少年、風をつかむ
あの日、初めて空に浮いた感覚は、消えなかった。
足立恭介は、朝起きた瞬間からそれを思い出していた。
ほんの一瞬。
ほんの数メートル。
それでも、確かに自分は空にいた。
「……もう一回、飛びたい」
布団の中でつぶやいた言葉は、小さかったが、はっきりとしていた。
その日から、恭介の生活は変わった。
学校が終わると、ランドセルを家に放り投げ、すぐに外へ飛び出す。
向かう先は、決まってジャンプ台だった。
雪を踏みしめる音。
冷たい空気。
白く広がる斜面。
そのすべてが、もう特別なものに見えていた。
「また来たのか、恭介」
コーチが笑う。
「はい!」
息を切らしながらも、恭介はすぐに板を履く。
だが――
現実は、甘くなかった。
助走に入った瞬間、体がこわばる。
踏み切りが遅れる。
空中で姿勢が崩れる。
そして――転ぶ。
「うわっ!」
雪の上に叩きつけられるように着地する。
冷たい。
痛い。
でも、それ以上に――悔しい。
「……くそ」
雪を払って立ち上がる。
もう一度、スタート地点へ。
その繰り返しだった。
一回でうまくいくことは、ほとんどない。
二回、三回、何度やっても、思うようには飛べない。
それでも恭介は、やめなかった。
ある日。
練習場に、ひときわ目を引くジャンプをする少年がいた。
助走は静かで無駄がない。
踏み切りは鋭く、タイミングが完璧だ。
そして――飛ぶ。
ふわり、と。
まるで最初から風に乗ることを知っているかのように。
空中で体がぶれない。
スキー板がまっすぐ前を向いている。
そのまま、すっと距離を伸ばしていく。
「……すげえ」
思わず声が漏れた。
着地も美しかった。
雪面に吸い付くように、静かに決まる。
周りの大人たちがざわつく。
「今の見たか?」
「春山、また伸びたな」
「やっぱりあいつ、別格だな」
その名前を、恭介は初めて聞いた。
春山雅樹。
同じ年頃の少年だった。
だが、恭介とはまるで違う。
怖さがない。
迷いがない。
最初から“できている”。
恭介は、その背中をただ見つめていた。
悔しい。
胸の奥が、じりじりと熱くなる。
「……なんで」
気づけば、つぶやいていた。
「なんで俺は、あんなふうに飛べんのや……」
その日から、恭介の中で何かが変わった。
ただ飛びたいだけじゃない。
負けたくない。
春山雅樹に。
次の日。
恭介は、いつもより早く練習場に来ていた。
誰もいないジャンプ台。
静かな雪の斜面。
「……やるか」
ひとりで助走に入る。
怖い。
昨日より、怖い。
理由はわかっている。
比べる相手ができたからだ。
失敗したくない。
かっこ悪いところを見せたくない。
そんな気持ちが、体を固くする。
それでも――踏み切る。
だが、やはりうまくいかない。
空中でバランスを崩し、着地で転ぶ。
「くそっ!」
雪を叩く。
悔しさが、こみ上げる。
何度やっても、同じだった。
昼頃、コーチがやってきた。
「朝からやってたのか」
「はい」
息を切らしながら答える。
コーチはしばらく、恭介のジャンプを黙って見ていた。
そして言う。
「春山と比べてるな」
恭介は、何も言えなかった。
図星だった。
「いいか、恭介」
コーチはゆっくりと歩み寄る。
「ジャンプはな、“飛ぶ競技”じゃない」
恭介は顔を上げる。
「風を読む競技だ」
その言葉の意味が、すぐにはわからなかった。
「風……?」
コーチは空を指さす。
「見えんだろ。でも、ある」
木の枝が揺れている。
雪が、ふわりと流れる。
「春山はな、あれを感じとる」
恭介は、その光景をじっと見つめた。
「感じる……?」
「そうだ。踏み切りのタイミングも、空中の姿勢も、全部風との対話だ」
コーチは続ける。
「力で飛ぼうとするな。風に乗れ」
その言葉は、すぐには理解できなかった。
だが――胸に残った。
その日の帰り道。
恭介は、何度も空を見上げた。
木の揺れ。
雪の流れ。
頬に当たる風。
「……これが、風か」
次の日。
恭介は、いつもと違う意識でジャンプ台に立った。
ただ飛ぶのではなく、感じる。
助走に入る前に、風を見る。
呼吸を整える。
そして――踏み切る。
ほんの少しだけ。
ほんのわずかだが、昨日より体が軽く感じた。
「……今の」
距離は大きく変わらない。
だが、何かが違う。
その変化は、小さかった。
けれど、確かだった。
その様子を、少し離れた場所から見ている人物がいた。
春山雅樹。
恭介の方をちらりと見る。
何も言わない。
ただ、もう一度ジャンプ台へ向かう。
そして、またあの美しい飛行。
差は、まだ大きい。
埋まる気配はない。
それでも――
恭介は、もう目をそらさなかった。
怖い。
悔しい。
それでも。
「……もっと飛びたい」
その一言が、体を動かす。
夕暮れ。
ジャンプ台の下から空を見上げる。
白い雲の向こうに、薄く光が差している。
風が吹く。
その風は、冷たかった。
けれど――
少しだけ、やさしく感じた。
次回予告
第3話『才能と呼ばれた日』
初めて掴む手応え。
初めて伸びた飛距離。
「お前、すごいな」
その言葉が、胸を熱くする。
だが――
「やっぱり春山は別格だな」
比較される現実。
埋まらない差。
そして、初めて交わる二人の会話。
「お前、名前は?」
才能は、武器か。
それとも、重荷か。
次回、第3話
『才能と呼ばれた日』
“天才”は、ひとりじゃない。




