才能と呼ばれた日
第3話
才能と呼ばれた日
飛距離が、伸びない。
足立恭介は、ジャンプ台の下で膝に手をつき、白い息を吐いた。
何度も飛んだ。
何度も転んだ。
怖さは少しずつ薄れてきた。
けれど、春山雅樹との差は、縮まらなかった。
春山は今日も、軽やかに飛ぶ。
助走。
踏み切り。
空中姿勢。
着地。
どこにも無駄がない。
「春山、また記録伸ばしたぞ!」
周囲の声が響く。
恭介は黙って雪を見つめた。
悔しい。
自分だって、毎日練習している。
風を見るようになった。
踏み切りも少しずつ合ってきた。
それでも、飛距離はあと少しのところで伸びない。
「なんでや……」
その日の練習後、コーチは古いビデオデッキを持ち出した。
「恭介、春山。ちょっと見てみろ」
薄暗いクラブハウス。
ストーブの音が、かすかに鳴っている。
テレビ画面に映ったのは、海外のジャンパーだった。
だが、その飛び方が違った。
スキー板を、まっすぐ揃えていない。
空中で、板を大きくV字に開いている。
「なんや、これ……」
恭介は思わず身を乗り出した。
その選手は、まるで空気を抱え込むように飛んでいた。
板と体で風を受け、ふわりと浮かぶ。
落ちるのではなく、空に残る。
「飛距離が伸びてる」
春山が静かにつぶやいた。
コーチはうなずいた。
「海外では、この飛び方を試す選手が出てきとる。板を開いて、揚力を得る。理屈としては面白い」
恭介は画面から目を離せなかった。
今まで教えられてきた形とは違う。
怖い。
不安定に見える。
でも、確かに遠くまで飛んでいる。
「これ、やったらあかんのですか?」
恭介が聞くと、コーチは少し黙った。
「簡単じゃない。姿勢を崩せば危ない。今までの飛び方を全部見直すことになる」
春山は画面を見つめたまま言った。
「でも、遠くへ飛べる」
その言葉に、恭介の胸が鳴った。
遠くへ飛べる。
それだけで、十分だった。
翌日から、試行錯誤が始まった。
最初は、まったく形にならなかった。
板を開こうとすると、体がぶれる。
風を受けすぎて、怖くなる。
踏み切りのあと、足元がばらばらになる。
「うわっ!」
恭介は何度も雪に転がった。
春山も同じだった。
いつも完璧に見えた春山が、珍しく着地を乱す。
雪を払って立ち上がる表情は、悔しそうだった。
恭介は少し驚いた。
春山も失敗する。
春山も悔しがる。
その当たり前のことに、初めて気づいた。
休憩中、恭介は春山に声をかけた。
「なあ」
春山が振り向く。
「お前でも、怖いんやな」
春山は少しむっとした顔をした。
「怖くないわけないべ」
それだけ言って、また板を履いた。
恭介は小さく笑った。
なんや。
同じやん。
その日から、恭介の中で春山は、ただ遠い天才ではなくなった。
追いかける相手。
負けたくない相手。
そして、同じ空に挑む相手になった。
V字の飛び方は、簡単には身につかなかった。
コーチは何度も言った。
「形だけ真似しても駄目だ。風を受ける場所を考えろ」
恭介は考えた。
板を開く角度。
体の前傾。
腕の位置。
踏み切りの強さ。
何度も飛ぶ。
何度も修正する。
ある夕方。
風が、いつもより穏やかだった。
恭介はスタート地点に立った。
木の枝の揺れを見る。
雪の流れを見る。
頬に当たる空気を感じる。
怖さはある。
でも、今日は逃げなかった。
「行ける」
自分にそう言い聞かせ、滑り出す。
助走路を風が切る。
踏み切り台が近づく。
今だ。
恭介は踏み切った。
そして、空中で板を開いた。
V字。
風が、足元から体を支えた。
一瞬、時間が止まったように感じた。
落ちない。
沈まない。
浮いている。
「……飛んでる」
今までより、明らかに長い。
雪面が遠い。
町の景色が少し広く見える。
着地は乱れた。
けれど、転ばなかった。
歓声が上がった。
「恭介、伸びたぞ!」
コーチの声が聞こえた。
恭介は振り返った。
自分の飛んだ跡が、いつもより先にある。
胸が熱くなった。
春山が近づいてきた。
「今の、よかった」
短い言葉だった。
でも、恭介には十分だった。
「お前に追いつくけんな」
恭介が言うと、春山は少し笑った。
「簡単に追いつかせるか」
その瞬間、恭介は初めてはっきり思った。
この男に勝ちたい。
そして、この男と一緒に、もっと遠くへ飛びたい。
後日、小さな大会が開かれた。
恭介はそこで、自己最高の飛距離を出した。
まだ春山には届かない。
順位も一番ではない。
それでも、周囲の大人たちの見る目が変わった。
「足立、伸びてきたな」
「あいつ、感覚がいい」
「もしかしたら、才能あるかもしれん」
才能。
その言葉が、恭介の耳に残った。
うれしかった。
けれど同時に、少し怖かった。
才能と呼ばれることは、期待されることだった。
期待されることは、失敗できなくなることでもあった。
帰り道、恭介は夕暮れの空を見上げた。
V字に開いた板が、風をつかんだ瞬間を思い出す。
あの感覚を、もう一度。
もっと遠くへ。
もっと高くへ。
春山雅樹の背中は、まだ前にある。
けれど、もう届かない背中ではない。
足立恭介は、初めて風をつかみかけていた。
そして、初めて周囲からこう呼ばれ始める。
天才。
だが、少年はまだ知らない。
その言葉が、いつか自分を支え、同時に苦しめることを。
⸻
次回予告
第4話『初めての頂点』
V字ジャンプとの出会いで、恭介の飛距離は一気に伸び始める。
春山雅樹を追いかける日々。
重ねる練習。
そして迎える、少年大会。
「勝ちたい」
初めてはっきり芽生える、頂点への欲。
だが、勝負の空には、努力だけでは越えられないものがある。
次回、第4話
『初めての頂点』
少年は初めて知る。
勝つことの喜びと、勝ち続けることの怖さを。




