白い飛行線
第1話
白い飛行線
北海道上川郡下川町。
冬になると、町は音を吸い込むような雪に包まれる。
朝、家の屋根には厚く雪が積もり、道路の端には大人の背丈ほどの雪山ができる。吐く息は白く、空気は頬を刺すほど冷たい。けれど、少年・足立恭介にとって、その寒さは嫌なものではなかった。
むしろ、胸が高鳴る合図だった。
「恭介、手袋忘れとるよ!」
玄関先で母の声が飛ぶ。
「わかってる!」
そう返事をしながら、恭介はもう外へ飛び出していた。
雪を踏むたび、きゅっ、きゅっと音が鳴る。
その音を聞くだけで、彼はうれしくなる。
下川の冬は長い。
だが、恭介にとって冬は、閉じ込められる季節ではなかった。
空へ近づく季節だった。
町のジャンプ台が見える場所まで走ると、恭介は足を止めた。
白い斜面。
まっすぐ伸びる助走路。
そして、その先に広がる空。
小さな町の景色の中で、そこだけが別世界の入り口のように見えた。
「……すごい」
何度見ても、そう思う。
大人たちがスキー板を履き、助走路を滑り降りる。
次の瞬間、体がふわりと宙に浮く。
鳥のように。
紙飛行機のように。
雪の町から、空へ線を描くように。
恭介はその姿を、息をするのも忘れて見つめていた。
「人って、飛べるんだ」
それが、足立恭介の最初の記憶だった。
学校では、彼は特別目立つ子ではなかった。
走るのは速い。運動もできる。けれど、口数は多くない。
友だちが雪合戦で騒いでいても、恭介はふと空を見上げることがあった。
「恭介、何見てんの?」
「風」
「風なんか見えんべや」
友だちは笑う。
だが、恭介には見えている気がした。
木の枝についた雪がさらさら落ちる方向。
煙突の煙が流れていく角度。
頬に当たる冷たい空気の強さ。
そのすべてが、空からの合図のように思えた。
ある日、父に連れられて、恭介は初めて本格的にジャンプの練習場へ行った。
目の前で見るジャンプ台は、遠くから見るよりずっと大きかった。
「……これ、ほんとに飛ぶの?」
恭介がつぶやくと、父は笑った。
「飛ぶんじゃない。飛ばせてもらうんだ」
「誰に?」
「風に」
その言葉は、少年の胸に深く残った。
最初のジャンプは、飛ぶというより、転がるに近かった。
助走で怖くなり、体がこわばった。
踏み切るタイミングも合わず、雪の上に尻もちをついた。
周りの子どもたちが笑う。
恭介は悔しくて、唇をかんだ。
父が近づいてくる。
「怖かったか?」
恭介は少し黙ってから、うなずいた。
「うん」
「もうやめるか?」
その問いに、恭介はすぐには答えなかった。
雪まみれのまま、ジャンプ台の先を見た。
そこには、青白い冬の空が広がっていた。
怖かった。
でも、嫌ではなかった。
怖いのに、もう一度やってみたかった。
恭介は小さく首を振った。
「もう一回」
父は何も言わず、ただうなずいた。
二回目も失敗した。
三回目も転んだ。
四回目は、ほんの少しだけ体が浮いた。
一瞬だった。
けれど恭介には、その一瞬が永遠のように感じられた。
雪の音が消えた。
風の音だけが耳に残った。
地面が足の下から離れた。
ほんのわずか、ほんの数メートル。
それでも、彼は確かに空にいた。
着地して転んだあと、恭介は雪の上に大の字になった。
空が見えた。
真っ白な雲の切れ間から、薄い光が差していた。
「……飛んだ」
誰に言うでもなく、恭介はつぶやいた。
その日から、彼の毎日は変わった。
学校が終わると、ランドセルを置いて練習場へ走る。
雪の日も、風の強い日も、寒さで耳が痛くなる日も、恭介はジャンプ台に向かった。
転んだ。
泣いた。
悔しくてスキー板を投げそうになったこともある。
それでも、次の日にはまた板を履いた。
母は心配した。
「そんなに転んで、痛くないの?」
恭介は膝の青あざを見ながら答える。
「痛い」
「じゃあ、少し休んだら?」
「でも、飛びたい」
その言葉に、母は何も言えなくなった。
恭介の目は、もう子どもの遊びの目ではなかった。
冬の夕暮れ。
練習を終えた恭介は、ジャンプ台の下から町を見下ろした。
小さな家々の明かり。
白い道。
遠くの山。
そして、空。
コーチが隣に立った。
「恭介」
「はい」
「お前、怖がりだな」
恭介はむっとした。
「怖がりじゃないです」
「いや、怖がりだ」
コーチは笑った。
「でもな、怖いってわかってるやつの方が、強くなることもある」
恭介は黙って聞いていた。
「怖さを知らんやつは、いつか大きく失敗する。怖さを知って、それでも飛ぶやつが、本物になる」
その言葉の意味を、幼い恭介はまだ全部は理解できなかった。
けれど、胸の奥に残った。
怖くても、飛ぶ。
やがて、町の小さな大会の日が来た。
恭介にとって、初めての本番だった。
緊張で手が震える。
スタート地点から見下ろす景色は、練習の時よりずっと遠く見えた。
下には父と母がいる。
友だちもいる。
コーチも見ている。
逃げ出したくなるほど怖かった。
だが、恭介は空を見た。
風が、頬をなでた。
父の言葉を思い出す。
飛ぶんじゃない。
飛ばせてもらうんだ。
スタートの合図。
恭介は深く息を吸った。
そして、滑り出した。
助走路を風が切る。
目の前の景色が流れる。
踏み切り台が近づく。
怖い。
でも――
飛びたい。
恭介は、思いきり踏み切った。
体が浮いた。
今までで一番長い時間、空にいた。
町の景色が下に見えた。
雪が光っていた。
風が体を支えていた。
着地は少し乱れた。
それでも、転ばなかった。
歓声が聞こえた。
恭介は振り返り、ジャンプ台を見上げた。
自分が、あそこから飛んだ。
胸の中に、言葉にならない熱が広がった。
その夜、家に帰った恭介は、窓の外を見ていた。
雪が静かに降っている。
母が温かい味噌汁を出しながら言った。
「今日はよく頑張ったね」
父も静かにうなずいた。
「いいジャンプだった」
恭介は照れくさそうに笑った。
だが、すぐに真顔になった。
「もっと飛びたい」
父と母は顔を見合わせた。
「もっと遠くまで」
恭介は窓の外の暗い空を見上げた。
「いつか、世界で飛びたい」
小さな町の、小さな家の中で、少年は初めて夢を言葉にした。
北海道上川郡下川町。
長い冬と、深い雪と、厳しい寒さの中で、足立恭介の物語は始まった。
まだ誰も知らない。
この少年が、何度も挫折し、何度も失い、それでも空をあきらめず、やがて世界中が見つめる大舞台へ戻ってくることを。
ただこの夜、恭介だけは知っていた。
自分は、空が好きだ。
そしてたぶん、一生、あきらめられない。




