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その十四

 Rock Trip。すべて捨てたはずなのに、変わらないものが変わらずにそこにあるということにぼくは初めて謝意を抱いた。扉を開けると鳴る鐘の音も変わらない。そこには開店前の店長が一人、グラスを拭う姿があった。


「ごめんなさーい。うちまだ開店ま、え––––」


 店長の瞠目した表情が確かにぼくを捉えた。それをしっかりと見て取ってからぼくは軽く会釈した。


「日和、か」


「ご、ご無沙汰してます」


「よく来たな。どうしてるのか気になってたぞ」


 店長の優しげな声が心に沁みた。ぼくはすぐに店内の壁に飾ってある数枚の写真に釘付けになった。往時のぼくら四人が破顔している。そこには記されたままの瑠衣のサインがあった。有名になったら使おうとしていたものだ。古くなり色褪せつつある写真の中で、油性の白いインクだけは鮮明に刻まれたままだった。実際に瑠衣の手によって書かれた文字に、まるで彼の魂が宿っているような気がした。


 そういえば、サインに使ったその白いマーカーは、瑠衣と颯斗が張り出していたメン募の「ベース」の部分に二重線を引くために買ったものだった。


 懐旧と、もうそこには戻れないもどかしさが激しく混在し、胸を詰まらせた。やがて、込み上げてくる激情を抑えられず落涙しそうになるのをぼくは必死に拒んだ。ロックスターになった颯斗単体の写真はどこにもない。


「懐かしいよな。お前らがここでライブやってたのも、もう昔話になりそうだ」


 店長が変わらないのは風貌だけじゃない。その声音、いつもぼくらを見守ってくれていた眼差し。気になっていた、とは言うものの突っ込んだ話をして来ない。それが店長なりの忖度であることがぼくには分かっていた。


「ほら、こっち坐って飲めよ」


 店長はグラスにコーラを注ぎ、差し出した。少し緊張気味に腰かけると、そこからの風景も妙に懐かしく思えた。


「元気にしてたのか」


「はい」


 答えたぼくは店長の手元へ目を移した。


「あれ、店長、それ」


「ん、あぁ、これか。まぁ俺もいい歳だ。女をいつまでも待たせるわけにもいかねぇからな。バーなんかやってると心配だから、必ずしとけってうるさくてさ」


 店長の左手薬指には銀色の指輪が、ぼんやりと昔日のバーベーキューを思い出させた。


「おめでとうございます」


「おう、ありがとう」


「店長にはあんなにお世話になったのに、お祝いのひとつも出来ずすみません」


「馬鹿言うな、こうやって逢いに来てくれたことが何より嬉しいよ。またお前の顔見られたことが、一番のお祝いだよ」


 店長は昔と変わらない破顔で云った。その言葉を聞いて、どうしてもっと早くこの場所へ来なかったのか、ぼくは少しだけ臍を噛むような思いだった。しかし、この機会でなければ来られなかったのもまた事実だ。


「懐かしいですね。本当に––––」


 時の流れを感じながら、呟くようにひと言絞り出すと、自分でも驚くほど、堰き止めていた思いが溢れ出すようにあれからのこと、つい最近の颯斗との出来事がすらすらと言葉になって流れ出した。店長は頷きながら聞いてくれた。


「ヘブモンをやってた頃は本当に濃い時間を過ごせました。でもその反動で、解散して何もなくなってから、ふと人生ってまだ続くんだって思ったんです。あれから希望も持てずに、ただ惰性で生きて来たようなもんなんです」


 ヘブモンとして駆け抜けたあの頃が正に青春の絶頂だった。だからこそ、あんなに熱い時間はもう過ごせないと諦めていた。その後はニュートラルにギアを入れた車のようにただ坂道を下るだけだった。もちろん、上り坂は走れない。どこか厭世(えんせい)的になっていた。


「お前、あれが本当の颯斗に見えるか?」


 ぼくの話を黙って聞いていた店長が静かに口を開いた。


「どういう意味ですか」


 颯斗の見た目は多少の変化はあるものの昔と然程変わっていない。まだ長髪にメイクを施してステージでギターを弾いていることを鑑みれば、むしろ彼だけが変わらない。ともすれば店長の言いたいことは精神的な部分を基準にした話になってくる。ぼくだって本当はどこかで分かっていたことだ。


「実は颯斗な、あいつ義理堅いやつでよ。今も時々お忍びで呑みに来るんだよ。って言っても、あれからしばらくはお前らと一緒であいつも全く顔出さなくなってたんだけどな。ここのバイトも辞めてな」


 店長は棚からもうひとつグラスを取り出し、自らコーラを注いでひと口飲んだ。


「でもある時、確かインディーズでデビューして少し経った頃かな。また顔出すようになってさ。決まって誰もいない閉店後にこっそりとな。酔っ払っては云ってたよ。『ここだけは変わらない場所であって欲しい。だから俺のポスターは貼らないで欲しい。お店の宣伝になれずに申し訳ないです』って。きっとあいつもあいつなりに苦労したんだろう。手の平返しとか、業界の嫌な部分も見ただろうし。だからあいつが今もここへ来るのは、きっとハングリーだったあの頃とか、お前らと走っていた頃とか、大切なことを忘れないためなんだろうな。だってよ、酒が入ると『本当はもう一度ヘブモンで音を出したい』っていつも決まって口にするんだよ。メジャー行ってからもずっと、な」


 ぼくは脳天を撃たれたような感覚に俯いて思わず自分の後頭部の髪をギュッと掴んだ。


「この曲を世の中に出すために俺はロックやってんだよ!」


 瑠衣の言葉は今でもぼくの脳内に響いている。ヘブモンで作った曲を大切にしていたからこその言葉だ。そして、それが実現出来るのは残された者だけだった。継承したのは颯斗、ただ一人。先頃レコード会社の会議室で決意を披瀝した颯斗の姿が脳内で蘇った。


「少なくともあいつは、お前と忍を影のままにしておこうなんて気持ちは毛頭ないよ」


 ぼくは顔を上げ、店長に視線を戻した。


「日和、悔しかっただろう? 何もかも失って、大変なもんまで背負って、辛かっただろう? ならもう一回、ロックンロールすりゃいいよ。全部ロックにぶつけちまえよ。ロックは全部受け止めてくれる。それにお前はまだまだ若い」


 悔しかった? 悔しかった––––。悔しかった。そうだよ、悔しかったよ。何で瑠衣はいなくなったんだ。何でバンドは解散したんだ。何で自分だけこんな病気を背負ったんだ。何でこんなに金の心配をしなきゃならないんだ。何が将来だ、何が社会だ。未来なんてどこにもないじゃないか––––。


 刹那、ぼくの心は叫んでいた。あの時と同じだ。キャンパスの時と。何かが吹っ切れた。またバンドをやりたい。まだバンドがやりたい。そんな止め処ない熱情が沸々と込み上げている。人生を賭けて成し遂げるのはこれだというものにすでに出逢っている。そのことに改めて気付いている。あの頃と変わらず、これまでの人生のすべてを賭けるに値するものだということに、そしてずっとその気持ちに変動などないことに––––。


 ただ何となく生きて、何となく死んで行く人生を否定し、今再び大事なものを取り戻すべく、あの頃漠然と考えていたものがぼくを奮い立たせ、もう一度生きろと脈打っている。大切な想い出の中の自分自身とメンバーたちがそう教えてくれている。


 本当は全部わかっていた。これまで千々に乱れていた心を収められるたったひとつの方法。まだやりたいこと、なりたいものがあったということに明確に気付いている。もう一度、必ずやり遂げる。その想いが沸々と(せい)への意欲を掻き立て、抑えきれない胸中の鳴り響きとともに、心は今また少年に戻っていた。まるでその決意は頭上に蒼穹が拡がったような感覚だった。颯斗、忍、店長、美紅––––。それぞれの声も表情も、あの曲の序奏と同じ、一瞬であの時代に引き戻してくれる。


「日和、何かにつまずいた時や何かを失った時こそ、大切な何かに気が付く時だ。そこで気が付けなかった人間は弱さや傲慢に駆られたままだ。逆にそこで自分なりの答えを見付けられた人間が、強さとか、優しさとか、謙虚さを知って、人望を集める人間に成長していく。起き上がる時にこそ、本当の強さを得られるんだ。だから諦めんなよ。人生一回切りだ。お前は男に生まれたんだ。最高じゃねぇか、ヴィジュアル系!」


 そうだ。あの日レコード会社の会議室で見た丸時計だって、長針の方が少しばかり長いから上手く回っているのだ。人もきっと同じだろう。長所と短所があって、何かひとつでも長けたものがあれば人生は動かせるだろう。ぼくにはベースがあるじゃないか。しばらく間を置いて、ぼくは息を整えてから真っ直ぐに店長を見直した。


「店長、もう一度輝いて見せます。見ていてください」


 微笑んだ店長がまるで油絵のように滲んで見えた。


 Rock Tripを後にしたぼくはビルの一階にある呉服店を見つめた。まだ灯りの点いている店内には藍染された着物をまとったトルソーが佇んでいた。以前と同じ着物なのかどうかはわからなかったが、ぼくは納得して歩き出した。新たな一歩を踏み出す前にどうしても乗り越えなければならないことがある。もう一度過去を想い出として受け容れるために必要なこと––––。


 小路は華やかな装飾に照らされ、化粧をした街はすっかり夜の姿に変装していた。ヴィジュアル系が化粧を施し衣装をまとうことで本来の姿になれるように、この街にとっては、この夜の表情こそが正装なのかもしれない。


 客を見送るドレス姿が散見される中で、沸々と想起させられる何かをぼくは感じていた。颯斗からの電話から始まったあの頃を彩った戦友たちとの再会。店長の言葉。そして瑠衣のいる海。それはヘブモンの再開を意味している。そんな一連の流れを締め括ろうとしているのは、あの時の幻影だった。


 ぼくはビルの向かいの路地まで歩を進めた。雑多な繁華街のど真ん中にも関わらず、ここだけは妙に空気が澄んでいるように感じた。しばらく待っていると、ハンドバッグを片手に向こう側を歩く人影があった。すぐにあの時の彼女だということに気が付いた。彼女は立ち止まり、こちらを一瞥した。確かに目が合った。


〝やっぱり君だったんだろう? ライブハウスで見た奇跡の女の子は––––。そうだったんだろう。背中を押してくれたんだろう?〟


 ぼくは声なき声を心の中から呼びかけた。彼女は何かを察してか軽く会釈すると、あの時と同じ真っ直ぐな視線を向けてからエレベーターへ乗り、中からもう一度こちらを振り返った。ぼくが一歩前に踏み出しかけた時、扉が閉まった。


 その時、頭の中で考えさせられている「何か」が今やっと分かった。もう一度、病院に行こう。失ったものが多過ぎて何から取り戻せばいいのかわからないが、これだけは明々白々だった。


 選んだのは精神科と心療内科を併設する町の病院。電話予約し、受付を済ませた。妙にしんとした待合室で、ぼくは坐ったまま両肘を太腿の上に乗せ、俯き両手を結んだ。


 治るのだろうか。自分に合う効果的な治療法があるのだろうか。また無駄足になってしまうのだろうか。様々な不安が過ぎった。しかし一生この強迫性障害という厄介事に付きまとわれることだけは拒絶していた。このままではまともな社会生活どころか、まともな日常生活すら送れない。普通の人ならすぐに終わらせられるだろう作業に反復行為で大幅な時間がかかってしまう。必然的に行動を起こすことに対して億劫になり、行動範囲も狭まり、日常生活の些細なことにもいちいち大きな心労を伴う。さらに言えば酷い時は何もしていなくても、常に頭の中に張り付いた画を払拭出来ずに神経が擦り減った。おそらくまたヘブモンでの活動を再開すれば治るのかもしれないと思ったが、出来ることをやっておきたい。せめてもう少し楽になれれば––––。


 これまでなぜぼくは治療という選択をしなかったのか。なぜだろう。自分でもよくわからなかった。薬は毒を以て毒を制すように思えて抵抗があったのは事実だ。行動療法以外に具体的な治療方法がないのもあった。なぜ、病院に来ようと思ったのがこんなに遅くなったのだろうか。どこかで信じれば治ると思っていたからなのか。


 いや、それも違う。決して向き合わなかったわけではない。むしろ向き合い続けて来たことだけは、誰が何と云おうと確かだ。その向き合い方が少しずれていたのかもしれないが、いずれにせよ苦痛に耐え続けて来た。天国の怪獣たちに少しばかり嫉妬されていたのかもしれない。いや、それも違うだろう。総じて、運命というものを受け容れよう。去来する心の中でぼくはそう何かを覚った。


 今は服薬でも行動療法でも何でもいいから治したい。おそらく薬への抵抗がなくなったのは音響外傷による耳鳴りの件があったからだろう。REMEMBERという一曲を通して瑠衣がぼくをそんなふうに導いてくれたのではないだろうか。


 ふと周囲の人たちが気になった。どんなものを抱えているのだろう。


 やがてスタッフに呼ばれ、奥の部屋へと案内された。まずはカウンセリングが行われるようだ。目の前には白衣を着た医師が坐っていた。恐る恐る今までの経緯を話したぼくは最後に希望を言葉にした。


「この病気を克服したいです。せめて、まともな日常生活が送られるようになりたい」


 云いながらこの病院選びはまた失敗に終わるのではないかという不安が付きまとった。


 頷きながら聞いていた医師は、


「強迫性障害を病気ではなく、習慣と捉えてみてください」


「は、はぁ」


 柔らかな口調で落ち着いた声で云う医師に、ぼくは曖昧な相槌を打った。


「確認行為、反復行為、これを止める方法はズバリ、確認行為や反復行為をしないことです」


「でもやらないと不安に駆られたり、気持ち悪さがあるのですが」


「その不安や気持ち悪さに慣れてください。一回きりで止めること、それ以上は繰り返さないことです。先程申し上げたように、病気ではなく習慣、謂わば癖なので、習慣や癖は止めようと思えば必ず止められますし、改善出来ます」


 気持ち悪さに慣れる––––。一度きりで止める––––。


 心の中で反復したその瞬間、確かに目の前に一条の閃光が音速で走り過ぎた。そうか。当たり前のことじゃないか。それなら必ず止められる。ぼくは強く確信めいたものを感じた。奇しくもこのカウンセリングによって、ようやく自分自身を取り戻せそうな気がした。


「日記を付けるのもひとつの方法です。一日のうちに何回、何が原因で強迫行為をしてしまったのかを記録していくのです。そうして昨日より今日、今日より明日と、段々数を減らすように心がけてみてください」


 なるほど、確かに回数を記録すればいくらか気分が楽になるかもしれない。とにかく上手く付き合って行くしかない。その積み重ねで克服出来る気がした。


 この病院を選び、この先生に受信出来たことは幸運だった。天の差配なのかもしれない。病院を出るともう薄暮が迫っていた。


「瑠衣なんだろう? 助けてくれたんだろう?」


 返事がないとはわかってはいても、思わずその雲間に向かって問いかけずにはいられなかった。

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