その十二
ぼくは何年か振りに海の見える街へ向かった。瑠衣と颯斗の故郷。海沿いを歩きながら、歩き疲れた身体を少し休めようと立ち止まり、何気なく目に入った小さな路面店の列の後ろに列んだ。海のそばで店を開くなんてきっと楽しいだろうなと想像しながら順番を待った。
「いらっしゃいませー」
「あっ、タピオカミルクティーをひとつ」
言いながらぼくはカウンターのメニュー表から俯いていた顔を上げた。
「かしこまりましたぁー」「はい、どうぞ」
買ったものを受け取りながら、ぼくはサングラスの奥で大きく目を見開き固化した。動揺を隠せないままなけなしの小銭を手渡し、すぐに背を向けて足早にその場を立ち去った。
「ありがとうございましたぁー」
後背から懐かしい声が響く。長かった髪をばっさりと切り、メイクも薄くなっている。然りとて面影はあの頃のままだ。一瞬サングラスを上げてしっかり、はっきり、確かめようとしたが、ぼくは自分の顔をさらけ出すことが出来なかった。もし目の前の相手が過去を忘れて、前を向いているのならば、掘り上げるようなことはしたくない。ぼく自身、髪を短くしている。それに大きなサングラスをしている客が「日和だ」なんて気付かれるはずもない。それでいい。しかし、束の間判断に迷ったのは、見逃さなかったからだ。左手の小指の爪にRの文字が入っていたことを––––。何を意味しているのかは、確かめなくてもわかる。
急にタイムスリップしたような出来事に面食らいながら、早い足取りとは裏腹にぼくは必死に自分の気持ちを落ち着かせようと試みた。そして深く息をして、堤防に坐り込んだ。目の前に拡がる砂浜と海を眺めながら、いいんだ、いいんだ、これでよかったんだと自分に言い聞かせた。何より、あれからどうしているか分からなかったその姿を見られてよかった。
茫洋たる海を眺めながら、現実を受け止めることにした。まるでバンドが解散してからここまでの月日が昨日と今日のことのように思えた。失った時間は戻らない。
海の見えるこの場所で––––は眠っている。微かな臨界を描いて海と空は繋がっている。ともすれば海と空は表裏一体であり、一心同体。ならば、死者は海か空のどちらか、いや、どちらにもいることになる。
押し寄せては引き返す漣を生命の行き交う流星に見立てて、ぼくはただじっと視線を動かさずにいた。全ての生命や物事、ましてや始まりの存する宇宙ですら終わりがあるという。ある意味、そうでなければならない。だからこそ、永遠を信じたいのだと思うし、信じることが出来る。だからこそ、今目の前にあるかけがえのないものを大切にする必要がある。
何かをやめた時、また新しい何かが始まる。その繰り返し。人は生まれ、終焉に向かって歩き出し、生きる。そう繰り返される。限られた時間の中で、もがきながら。空虚な時間の中で、せめぎ合いながら。そんな心境で震い付くこの曲をぼくは何百回聴いたかわからない。
ようやく明鏡止水の心境になりかけた時、濤声に紛れて聞こえて来たのは、
「顔のホクロと指!」
という叫声だった。
ぼくは振り向き、サングラスを少し上にずらすと、砂浜の上を歩いて来る美紅の姿が見えた。ぼくはそのままサングラスを外し、目を眇めた。再会を懐かしむ感情に心身が呼応していた。
「知らん顔しちゃって。私の目を欺けると思ったら大間違いよ」
「いや、別に欺いたわけじゃ––––」
「いくら短髪にしたって、化粧を取ったって、ホクロの位置と声は変えられないもんね。それにその指、まだベース弾いてるんでしょ」
参ったな。美紅の観察眼には舌を巻くしかない。
「ここは瑠衣の地元でもあるけど、うちの地元でもあるんだからね」
美紅は蒼穹を見上げた。つられるように見上げると、カラッとした晴空に抱かれているような感覚になった。
「田舎でしょ。最近はどんよりした天気が多くて、一層田舎っぽさを演出していたわよ」
ともすれば今日の天気は幸運なのだろう。天国の怪獣の機嫌が良いのだろうか。いずれにせよ、雨が降っていたら今日ここまでの道程は難儀だっただろう。雨が降らなかったことにぼくは初めて感謝した。明日には薄れてしまうだろう、そんな謝意を抱いた。
「久しぶりだね。本当に」
美紅は改めて再会を懐かしむように云った。その表情はあの頃よりもどこか大人びて見えた。
「本当に。でも驚いたよ。美紅が店員だったなんて。店は大丈夫なの?」
「うん、店長に休憩もらって来た。店長っていっても今の彼なんだけどね」
「そっか」
俯いたぼくは美紅から視線を外し、
「瑠衣のことはもう––––」
「忘れるわけないじゃん! 忘れられるわけないじゃん。瑠衣のことも、みんなのことも」
美紅の声が波風を突き抜けて響いた。
「あぁ、ごめん。だよね。じゃなきゃ爪に瑠衣の頭文字なんて入れないよね」
ぼくは軽率だった自分の言葉を詫びた。
「女はね、寂しい生き物なのよ」
美紅の表情が一瞬翳った。
「それにしても相変わらずの洞察力だね。さすがベーシスト」
まるで既視感のようにどこかで聞いた台詞にぼくはフッと笑ってしまった。
「二人して同じこと言うんだな」
「ん、何の話?」
「いや、ベーシストは関係あるかって話。それに観察眼に関しては美紅も人のこと言えないだろう」
「鼻の横のホクロはメイクでも隠せていなかったもんね」
「そう––––だな」
「––––瑠衣はさ、ずるいのよ。私のこと置いて行ったのは瑠衣の方じゃない」
ぼくは何も云わなかった。云わないのか、云えずにいるのかはわからない。でも多分、後者の方だ。
「颯斗は凄いよね。瑠衣の分だけじゃない。きっと日和や忍の分も背負ってるのよ。ヘブモンのみんながいるから、過ごした時間があるから、颯斗だって走って行けるんだよ」
ぼくは遠く海を見つめた。例えそれが真実だったとしても、あえて言葉にされると少し真実味が薄れるような気がした。あぁ、そうか。真実はいつも心の中にあるのだ。でも、その心はこんなふうに捻くれて、ちょっと我儘だから困ったものだ。
ぼくは瑠衣と颯斗との出逢いから過ぎ去った今日までの日々をなぞるように振り返った。美紅は何かを話している。その声が段々と遠くなる。
「––––瑠衣はね、そんなふうに言ってくれた」
美紅の声と交差するようにぼくの脳内で回想の速度が早まる。スタジオでの出逢い、キャンパスでのゲリラライブ、Rock Tripでのコピバンライブ、作曲活動にライブハウス。美紅の声が流れている。束の間、懐旧に浸っていたぼくは話を聞き取れなかった。そんなぼくを置き去りにするように美紅の言葉は続く。
「プレゼントってさ、自己満足だよね。相手の喜ぶ姿が見たくて、考えて考えて、本当は選んでいる時の自分がワクワクしてそれに浸っているだけよ」
肝心の冒頭を聞き逃したせいで、話の脈略が掴めない。段々と頭の中で過去と現在がぐるぐる回り始めた。美紅は何が云いたいのだろう。何を伝えたいのだろう。季節は変わったというのに––––。
そうだ、あの時もそうだったじゃないか。あの時、何が云いたかったのだろう。何を伝えなかったのだろう。
〝瑠衣は何を想い––––歌っている?〟
そう想起した時、いつもなら頭を抱えていたが今は違う。目の前の海に瑠衣はいる。そしてようやく美紅が云っていることの主旨が理解出来た。いや、理解出来たつもりでいるだけなのだ。
「弾き語りでさ––––ってねぇ、聞いてるの?」
パズルの欠片を合わせると、どうやら昔瑠衣が書いた小夜曲の話をしているようだ。
「あっ、悪い。一瞬のうちに物凄い考え事してた」
「もぉー、せっかく人が話してるのに」
美紅は口を窄めた。
「ところで、日和はあれから何か見付けられた?」
ぼくがありのままを話せば美紅を暗然とさせてしまうだろう。嘘を吐くことも出来る。自分を擁護するために。美紅を落胆させないために。誰かを傷付けないための嘘や何かを守るための嘘なら、それは嘘ではなくてむしろ優しさなのではないか。
何か大事なものを賭けて真剣につく嘘なら、上辺だけの軽薄なおべっかよりマシだろう。それでもあの頃の仲間に嘘は吐きたくない。そんな自問自答に、ぼくはこれまでずっと狼狽し続けて来たのだと初めて気が付いた。だからこれまでの日々を断ち切るために遊泳出来なかった日々をありのままに話した。あれから何も見付けられずに来てしまったことを––––。
美紅は黙って聞いた後、海を見ながら口を開いた。
「今立っているここはね、瑠衣と颯斗がロックスターになろうって約束し合った場所なんだ。不思議でしょ。っていうより、びっくりしちゃった。日和がここで足を止めていたことに」
少し強い海風が大きくぼくらを包み込んだ。美紅は乱れた髪を押さえながら、遠く海の向こうを見つめ瑠衣を待っているようだった。
「日和、何か意味があるはずだよ。今話した偶然が運命とも取れるように、その病気にも、瑠衣のことも––––」
今ここに、出逢う前の瑠衣と颯斗の足跡があった。この場に二人とも立っていた。その時二人はどんな顔をしていたのだろう。きっと勇ましく笑っていたに違いない。大学の食堂に乗り込んで来た時の二人の姿がぼくの脳裏一杯に甦った。下を向いて足元を確認することが出来なかった。涙が迫って来ていることを美紅に知られたくなかったからだ。
「日和、生きなきゃ駄目よ。生きて、生きて、生き抜いて。あなたたちヘブモンは私にとっての宝物なんだから」
美紅はそう告げると踵を返し、静かに歩き出した。彼女の短くなった髪は毛先が綺麗に揃えられていたが、色はかつての瑠衣と同じだった。その後ろ姿を見届けていると、美紅の頭上に艶やかな蝶が鼓吹するように舞っていた。
その時、ぼくの目にかつての長い髪の美紅が重なり、その隣に番い鳥のように寄り添う金髪で巻き髪の見慣れたもうひとりの姿が見えた気がした。海風も蝶もまるで瑠衣が今でも美紅の、そしてぼくらのそばにいることを報せているようだった。
すると美紅は突然振り返って、歌った。瑠衣の詩を、ヘブモンのメロディーを。その声が一瞬、瑠衣の声が重なって聴こえた。
「負けんなよ! 日和!」
美紅はあの日ステージのぼくらに向かって突き上げるように拳を向けた。彼女なりの激励だ。ぼくは大きく頷いて、左手で天高くメロイックサインを作った。ぼくもステージに向かって見せるかのように応えた。柔らかな海の芳香が優しくぼくらを包んでいた。
「死んだら天国のロックスターに挨拶に行くんだ」
最期にそう言って微笑った瑠衣はロックスターに逢えたのだろうか。生き急いでいた瑠衣は今だったらどんな言葉をかけてくれるのだろう。
何のために生まれ、何のために生きて行くのか。きっとその答えを探すために生まれて、見付けるために生きて行くのだろう。ぼくにはまだその答えは見付からないが、ここに来てようやく抱いていた希死念慮から解放された気がした。そしてその答えはきっと瑠衣と過ごしたガラクタの日々の中にあるのだろう。
ぼくは自分自身の変化を確かに感じることが出来ていた。直接言葉は聞こえなくても、瑠衣はきっと今もぼくに何かを教えてくれている。ぼくは凪いだ海に向かって問いかけた。
ぼくたち、生まれ変わったらもう一度出逢って、また一緒にヴィジュアル系をやろう。
その時は今度こそ、ロックスターになろう。
最悪だったあのライブも、あの観客も蹴散らしてやろう。
だから天国で練習がてらそのまま歌っていてよ。
空模様で機嫌を判断するからさ。
ぼくは最後まで、この世界を生きることにするよ。
どんなにボロボロになっても、どんなに惨めだったとしても、きっと明日がある。今はそう思える。生きることの意味を見付けられたのは一緒に奏でたロックの中だけだから、死ぬことよりも生きることに決めたのだ。
〝きっと瑠衣はそれを教えてくれるために爆音の会場の中でぼくを呼んでここまで連れて来てくれたんだろう?〟
涙で滲んだ煙がやけに綺麗に映じた。
〝どうかや安らかに眠って欲しい。あの頃のすべてを抱いて。いつかこの花が海を渡って瑠衣に届くように〟
再び花びらが舞った。ぼくは何の枠もない空を見上げた。この景色が観たかった。探していた。今この瞬間、颯斗も忍も一斉にそれぞれの空を見上げているような気がした。
「ガラクタの日々の宝石」
瑠衣がよく口ずさんでいたその歌詞は遺書ではない。彼がぼくらだけに置いていった遺産だ。
颯斗のギターソロが聴こえる。二分三十二秒から始まる五十五秒間にすべてが詰まっている。その歪んだ音で何度立ち上がって来られたか。その物の音は今もぼくに生きろと叫んでいる。
「一秒前の時間は戻らない過去だ。今この瞬間から出発だ、生きろ」と。




