第9話
神官様が我が家を訪れてから一ヶ月。まだ大雨は続いていた。机に座っても、窓から見えるのはどんより曇った空と、叩きつけるような激しい大粒の雨だけで気が重くなってしまう。
『見てください、柚希! あなたの名前、こんなに綺麗に……』
思わず呼びかけて、また現実が蘇った。紙の上には、すっかり描き慣れてしまった柚希の名前。あの日に残してくれたお手本を見て、何度も練習した文字。本当は、誰よりも柚希に見てほしかった。もっと早くに教えてくれれば、あるいは封印なんてされなければ。直接見せることができたのに。
柚希の名前で埋まった一枚を、また引き出しの中にしまう。もう会えないとわかっているのに、捨てることができない。引き出しが完全に閉まるのと同時に、扉の外からメイドの声が聞こえた。
「お嬢様、ティータイムのご用意ができました。お菓子はご希望の通りにチョコレートです」
お母様のチョコレートケーキを一口食べた日、柚希は珍しくわかりやすかった。もしかしたら、一番の好物だったのかもしれない。
メイドがティータイムの用意をしたのは温室で、テーブルには既にお母様が座っていた。
「待っていたわ、ジュリ! 今日のチョコレートは王室御用達なのよ!」
はしゃぐお母様を見ながら、わたしは一つの違和感を覚えた。椅子が、三脚用意されている。
「今日、お父様は領地の視察ではないのですか?」
「私がメイドに用意させたのよ。ユズキさんの場所……」
「柚希が死んだみたいに扱わないでください! 生きてるんです! わたしの中で、まだ……」
大声で叫んでしまって、息が切れた。肩を上下させながら、お母様を思わず睨んでしまう。本当はお母様がわたしに気を使ってくれるのはわかる。でも、今は少しのことでも許せない。そんな自分が嫌だった。
少し気まずい空気の中で、お母様とチョコレートを食べ始める。一粒食べると、口の中に甘さが広がった。きっと、あのケーキに使われていたよりも良いものだ。それなのに、あの日のケーキの方が美味しいように感じる。
「どう? ジュリ。美味しい?」
「……とっても」
お母様の表情が沈んだ。わたしの本心が、わかってしまったのだと思う。……チョコレートが悪いわけではない。ただ、あの日からわたしの舌が少しだけ鈍くなってしまっただけだ。まるで、味覚が半分なくなってしまったように。
「そうだ、ジュリ! 後で庭園を見に行かない? きっと綺麗な……」
「外は大雨ですわ。お母様」
思わず冷たく返してしまった。お母様は、焦ったように次の話題を探している。こんな思いをさせてしまって申し訳ない。
「チョコレート、ありがとうございました。お先に失礼致しますわ」
これ以上、気まずいままお母様を困らせたくなくて席を立った。メイドにわたしの分のチョコは包んで部屋に持ってくるように頼んでおく。
……目的地もなく、屋敷の中を歩き回った。この屋敷の中には、至る所に柚希との思い出が鮮明に残っている。
あの扉を開けると、柚希が酔ってしまった中庭。あの場所で殿下の質問を柚希が答えてしまったから全てが始まった。
メイドが白い布を抱えて入っていくのは食堂。柚希は最初の頃、料理が豪華だと喜んでいた。
その向こうには厨房。夜にお腹が空いたわたしに柚希が夜食を作ってくれた。材料が足りなくてすぐバレてしまって、お母様に怒られた。
少し奥まった場所にはギャラリー。お祖母様の顔を見て、わたしそっくりだと柚希が笑っていた。
手前に戻るとダンスホール。走る以上に回る社交ダンスに、慣れるまで柚希はいつも目を回していた。
……どこに行っても柚希との思い出があって、忘れることができない。苦しい。今はただ、何も思い出さずにいられる場所が欲しい。
やがて、質素な扉の前に辿り着いた。ここは、柚希との思い出がないかもしれない。というか、こちらはほぼ来ない。扉を押し開けると、中には無数の衣服があった。ここは、衣装部屋だ。
基本的にメイドが衣服を持ってきてくれるから、わたし自身がこの部屋にくる必要はない。なんの記憶もないのも納得できる。しかし、ドレス一枚に注目すると思い出でいっぱいだった。髪飾りも、ネックレスも、ブレスレットも。
隅に、隠されるように一枚のドレスが置かれているのを見つけた。裾もほつれて、ところどころ裂けていて、ボロボロの真っ黒なドレス。柚希の色を選んでオーダーメイドで作ってもらった、あのドレスだ。どうしても捨てたくなくて、絶対にもう着れないのに無理を言って残してもらった。
片手を伸ばして布地に触れると、相変わらず良い触り心地だ。このドレスを着て参加した舞踏会では、たくさんのことが動いたと思う。
今にして思えば、殿下に初めて違和感を抱いたのはあの舞踏会だったし、何より誘拐されて初めて、柚希との融合が表層に現れた。その融合のせいで柚希は封印されてしまったのに、それがなければあの場所を乗り越えることもできなかった。
「あら、お嬢様?」
衣装部屋に、メイドが一人入ってきた。当然だ、ここにある全ての管理もメイド達の仕事の一つだ。
「このドレス、部屋に運んでおいてくれる?」
「え、こ、このドレスをですか?」
「着るわけではないわ。ただ……」
「……かしこまりました。お運びしておきますね」
メイドにまで気を使わせてしまった。わたしの調子がおかしいことは一ヶ月でだいぶ屋敷に広まってしまっているらしい。
メイド達がドレスを運び出すのを眺めながら、わたしも部屋の外に出た。もう行くところもなくなってしまったし、ドレスより遅くに到着するように自室へと戻る。
……部屋に戻ると、ドレスはトルソーに着せられていた。わたしの身体と同じ大きさのトルソー。そこに、柚希の色のドレスがある。女性物のドレスに、足も顔もない身体。全然違うのに、柚希がそこにいるように錯覚してしまう。その胴体に、片手を触れた。
「柚希……」
あの日、柚希から聞こえた本音が忘れられない。どうして、わたしは二人とも助かる方法を見つけられなかったんだろう。どうして、柚希があんなことを選ぶのを、止められなかったんだろう。
まだ、柚希と話したかった。まだ、柚希のことを知りたかった。きっと、柚希だって色々なものを食べたかったはずだ。きっと、自分の足で歩きたかったはずだ。
いつの間にか、両腕をトルソーに回していた。もう二度と自分の意思以外で動かない両腕で。自分と同じ高さの肩を抱いた。
……柚希に、生きていてほしい。この世界のどこかで。一度そう思ったら、ドレスを涙が濡らしてしまう。思い出すだけで胸が痛んで、傷が塞がらない。柚希との思い出が見える限り、息苦しさが続く。
今更になって気付いてしまった。わたしは、柚希のことが……好きだった。でも、もう遅い。あの時に気付けたら何か変わったかもしれないのに、今はもう何もできない。……できないんだ。
一度気付いてしまったら、もう足に力を込めることもできなくなった。ただ、トルソーの腰元に縋り付いて泣いた。泣いて、泣いて、気付いたら雨が止んでいた。窓の外はまだ雲に覆われている。
時計は既に深夜を指していて、夕飯の時間を飛ばしてしまったらしい。意識したら急にお腹が空いた。何か食べに行きたくてドアを開けると、白のトレーがあった。端にはメイドに頼んでおいたチョコレートの余りが包まれていて、中央には銀のクロッシュが被せられている。誰かがわたしの夜食を用意してくれたようで、中にはいい匂いのするスープが入っていた。
「美味しい、ですわ」
……誰かの、優しさの味だ。そう、いつまでも部屋に閉じこもっていたって屋敷のみんなに迷惑をかけるだけだ。まずは、自分のできることを探そう。書庫に行けば何かわかるかもしれない。それでもわからなければ両親に頼ろう。わたしは一人じゃないんだ。……絶対に、柚希を助け出そう。
やることが決まれば、後は行動するだけだ。スープを少々お行儀悪く飲み切って、チョコレートを口いっぱいに頬張る。お腹が膨れて、やる気が溢れてきた。一人ではないけれど、最初から人に頼ってはダメ、何かあったら助けてくれる柚希はいない。自分で考えて動かないと。そして、それがダメだったら初めて人の力を借りる。
その決意を胸に書庫へと辿り着いた。真っ暗な暗闇を、指に灯した炎の魔法だけが照らしている。禁書は、わたしが見なかったことにして隠した場所に変わらず鎮座していた。誰かに取り出された様子もなく、他の本と同じくきっちりと並んでいる。
ひとまず、禁書をその棚から引き抜いた。タイトルはやはり【戦術魔術書 上】だ。この本をもう一度使えば、柚希を呼び戻せるだろうか? ……いや、あくまで異世界の魂を呼び出すものだから、わたしの中にいる柚希は無理かもしれない。そもそも、来る魂を指定することはできない。実行して関係ない魂が来てしまったら大惨事になってしまう。しかし、上巻なら少なくとも下巻があるはずなのにこの書庫にはない。あるかもしれないけれど、柚希と二重の確認でも見つけられなかったものをわたしが見つけられるとは思えない。
無闇矢鱈に全ての棚を確認するくらいならば、切り口を変えてみよう。禁書を傍に置いて、神官様が調べた時代の歴史書を集める。この禁書が頻繁に扱われた時代について調べれば、何かわかるかもしれない。
ある程度の数を机の上に集めて、一冊目を手に取った。指に火を灯したままでは危ないので、蝋燭に火を移す。中を見ると、戦争に参加した一般兵の手記を読みやすく改稿した物らしい。集中して読み進めていると、頭上から突然、声が降ってきた。
「ジュリ」
男の声だった。しかし、期待した柚希の声ではない。それよりも、ずっと昔から聞き慣れた声だ。
「お父様、お帰りになられたのですか?」
「ああ、玄関からこの部屋がわずかに開いているのが見えてね、様子を見に来た。まさかジュリだとは……」
言外に、今日も部屋にいると思っていた、と告げている。それはそうだろう。昨日まで一ヶ月間も沈み込んでいた娘がいきなり深夜に書庫にいると想像できる人間なんていない。
「わたし、いつまでも泣くだけで動かないのはやめましたの。もう一度会うために、自ら動く事にしましたわ」
「そうか、何か必要なものがあったら言っておくれ。できることは協力するよ」
「……よろしいのですか?」
「もちろん。生きていることが最優先だけれど、生きていれば不幸ではかまわないわけではないんだよ。ジュリにとって、一番幸福なのはユズキという少年といることなのだろう? もし、混ざらずに二人が共存する道があるのならば、その道を応援するよ」
わたしの恋情は、お父様にも漏れていたらしい。自分自身よりも先に両親に気づかれていたなんて、実は柚希も気付いていたのならとても恥ずかしいのだけど。顔から火が出そうな程に頬が熱くなっても、お父様はわたしの頭を撫でた。手の温もりが懐かしくて、わたしの心がほぐれていく。
ずっと手を動かしていたお父様の視線が、机の角に置かれた一冊の本……禁書に向けられた。
「ジュリ! この本はどこにあったんだい!?」
「書庫にありましたけど……?」
お父様の様相が、明らかに変わった。考えてみれば、そもそもここはネフェルティーナ公爵家の書庫なのだ。お父様は何か知っているのかもしれない。
「こちらの本に、何かありますの?」
「……昔、商人から購入した直後、中身を確認する前に使用人が盗み出したんだ。持ち逃げされたと思っていたのに、まさか書庫に隠されていたとは」
我が家に隠されていた、とかではないのか。もしかして、お父様はこの本が禁書であることも知らないのだろうか? ……まとめて一括購入とかしそうだし、あり得ないとは言い切れない。
「……この本が王家の定める禁書だということは、知っていますか?」
「何!?」
本当に知らずに購入していたとは。まあ、知っていれば購入してすぐに厳重保管して王家に献上していただろう。最後のページに刻まれた印がお父様に見えるように本を開いた。
「この通り正真正銘、これは禁書ですわ。そしてこの本で、幼いわたしは、無意識に柚希を召喚してしまったのです」
「……その真実は、今夜、知ったのかい?」
「いいえ。最近であることは事実ですが、柚希がいる頃からわかっていましたわ」
「ではなぜ、そのことを伝えてくれなかったんだ!!」
お父様が大声で怒鳴った。肩が少し跳ねる。わかっている、本当ならばわたしはこの事実をすぐに報告しなければいけなかった。でも……。
「……本当はわかっている。ジュリも禁術を無意識に行使してしまって、不安だったんだろう。だから、自分一人の、いや、自分とユズキ二人の秘密にした。違うかい?」
何も違わない。わたしは自分の未熟さ故に柚希を呼び出してしまい、その上融合しかけているだなんて報告できなかった。
「とにかく、この本は速やかに王家に献上する。良いね?」
大丈夫だと思う。手記の内容は実体験と一致している部分も多くて覚えているし、異世界から魂を召喚しても柚希を助けられない可能性が高い。
「しかし、王家の禁書か。……【戦術魔術書 上】、ジュリはもしかして下巻を探していたのか?」
「は、はい。しかし公爵家の書庫にはなく」
「それはそうだろう。今までに買い集めた書物の中で自ら手放したものを除き、内容も所在が不明になっていたのはこの一冊だけだ。そして禁書は通常、王家が管理するもの。下巻も王家にあるのではないか?」
……言われてみれば当たり前のことだった。書庫に上下巻が揃っていなくて、手元の上巻が禁術なら下巻も禁術の可能性が高い。そうなれば当然、保有している可能性が高いのは王家だ。もちろん、下巻も上巻が我が家に来たように物流によっておかしなところにある可能性も捨て切れないけれど。しかし、王家にあるのでは観覧する方法がない。
思わず考え込んでしまったわたしに、お父様が救いの一言をくれた。
「……一刻も早くこの上巻を献上したいが、国王陛下に謁見をする時間がない。よって、陛下に便りを出して王太子殿下を遣いによこしてもらうつもりだ。潔白を証明するために、書庫を確認いただくように依頼するだろうな」
それは、わたしが殿下に協力を要請する機会を作ってくれるということだ。やっと見えてきた、まだ糸のように細い、柚希を助けられる可能性。
いつの間にか雲が少なくなってきたようで、月明かりが書庫に差し込んだ。




