第8話 丘の上の礼拝堂
広場のざわめきが、背中の方へ遠ざかっていく。
丘の上へ続く道は緩やかな上り坂になっていた。
昼下がりの日差しが道沿いの草を明るく照らし、刈り入れを手伝う者や、麦束を載せた荷車が忙しなく行き交っている。
丘を上るにつれ、広場に満ちていた人の声や牛の鳴き声は少しずつ薄れ、代わりに麦の穂を渡る風の音が耳へ届くようになった。
先を歩いていたルルナが、手にしている布袋を胸元へ抱え直した。
フレアは、その背中へ声を掛ける。
「そういえば、ちゃんと自己紹介してなかったね。アタシはフレア・アーシュリー。アルテナの冒険者で、今回は人捜しの依頼でオルフェンまで来たんだ」
フレアは隣を歩くキサラを手で示した。
「それで、こっちがキサラ」
「キサラ・ブランシュよ。私は冒険者ではないけど、オルフェン周辺の植生を調べに来たの。ポーションの調合に使えそうな薬草がないか確認したくて」
「まあ、アルテナからいらしたのですね~」
ルルナが振り返り、深い青色の瞳を瞬かせた。
「刈り入れの時期とは聞いてたけど、まさか宿が埋まるくらい人が集まるとは思わなかったよ」
「ふふ、驚きますよね~。いつもはとても静かな村なのですが、この時期だけは、お祭りのように賑やかになるんです」
「それでも宿が取れなくなるほどだとは思わなかったわ。本当にすごいのね」
キサラの呟きに、ルルナは小さく頷いた。
「普段この村に宿は一軒だけなのですが、この時期だけ、もう一つの建物も開けるんです。例年ならそれで大丈夫だったみたいなのですが、今年はそれだけじゃ足りなかったみたいですね」
「アタシたちの他にも冒険者がたくさん来てるみたいだね」
ルルナは道を行き交う人々へ視線を向けた。
刈り入れのために訪れた者だけでなく、剣や槍を携えた冒険者の姿も少なくない。
「最近、街道や村の外れで魔物が出ることが増えたそうで……。商隊の護衛や、畑仕事をしている方々を守るために、村がお願いした冒険者の方もいらしています」
「やっぱり、例年より多いんだね」
「はい。わたくしも、詳しいことまでは分からないのですが……」
ルルナは少し不安そうに目を伏せた。
その間にも一行は細い坂道を上り、丘の上へ近づいていく。
やがて、小さな鐘楼を備えた白い建物が見えてきた。
「あちらが、十二星神教のオルフェン礼拝堂です」
主神セラハを中心とした星理の神々を祀る十二星神教は、アスロニア大陸の各地で広く信仰されている宗派だった。
大きな町には多くの信徒を収容できる教会もあるが、オルフェンの礼拝堂は村の規模に合った、質素で小さな建物だった。
濃い青色の屋根と白い壁には派手な装飾はない。
それでも、建物の前へ広がる庭は隅々まで丁寧に手入れされていた。
道沿いに敷かれた白い小石はきれいに洗われ、花壇の縁は乱れなく揃っている。
色とりどりの小花の奥では、薬草らしき葉が風を受けて静かに揺れていた。
「うわぁ、きれいな庭だね!」
「花壇だけじゃなく、薬草も植えられているのね。かなり手入れされてるわ」
二人の言葉に、ルルナが嬉しそうに微笑む。
「ありがとうございます~。お祈りに来られた方々の気持ちが、少しでも軽くなればと思いまして」
「これ、ルルナが手入れしてるの?」
「はい。お花や薬草を育てるのが好きなので……」
ルルナは照れたように笑い、頬をほんのりと赤くした。
そのまま礼拝堂の入口へ近づき、敷居をまたごうとする。
「きゃっ」
足先が小さな段差に引っかかって、ルルナは前につんのめった。
手にしていた布袋が小さく跳ね、干し草の香りがふわりと広がる。
「ふぇぇ……また転んでしまいましたぁ……」
(今、何もないところで転んだよね)
(今、何もないところで転んだわね)
フレアとキサラが同時に顔を見合わせた。
ルルナは恥ずかしそうに頬を膨らませながら立ち上がる。
「だ、大丈夫?」
「は、はいぃ……失礼いたしました……」
そして、法衣の裾についた埃を払った。
「で、では、司祭様へお話ししてまいりますね」
ルルナは誤魔化すように布袋を抱え直し、礼拝堂の扉を開いた。
* * *
礼拝堂の内部は、外観と同じく質素で清潔だった。
磨かれた木の長椅子が左右へ並び、壁には祈りの文が控えめに刻まれている。
祭壇の上には主神セラハの女神像が置かれていた。
天井近くに設けられた明かり取りから、淡い色の光が差し込んでいる。
その光に照らされた女神像は、祈りへ訪れる者を静かに見守るような微笑みを浮かべていた。
ルルナは礼拝堂の奥へ進み、廊下へ続く扉の前で足を止める。
背筋を伸ばし、扉を三度叩いた。
「司祭様、ただいま戻りました」
扉の向こうから、低く落ち着いた声が返ってくる。
「買い出し、ご苦労だった。荷物は奥の台所へ運んでおいてくれ」
「はい。あの、司祭様。こちらの方々なのですが……」
ルルナが言い終える前に、扉が静かに開いた。
白い法衣を端正にまとった男が姿を現す。
短く整えられた茶色の髪には、僅かに白いものが混じっている。
目元は穏やかに見えた。
だが、向けられた眼差しには、見知らぬ訪問者を測るような冷たさがあった。
男はルルナの後ろに立つフレアとキサラを順に見た。
「司祭のカーゼルと申します。お祈りに来られた方々ですかな?」
「あ、えっと。アタシたちはアルテナから来た冒険者で……」
「こちらのお二人が、今夜泊まる場所にお困りでして」
ルルナがフレアの言葉を引き継いだ。
「礼拝堂の離れに、以前は客室として使っていたお部屋があったかと思います。そちらをお貸しできればと……」
カーゼルは、二人を見定めるように目を細めた。
「ルルナ。あの部屋は、もう長いこと客室として使っていない」
「ですが……」
「床板には傷んでいる箇所があり、壁も湿気を含んでいる。今は古い書物や荷も置いてある。人を泊められる状態ではない」
穏やかではあったが、きっぱりとした口調でカーゼルはルルナに言葉を返す。
「あ、あの、でしたら、わたくしが片づけを——」
「ルルナ」
カーゼルの短い呼びかけに、礼拝堂の空気が張り詰めた。
「聞き分けなさい」
「……はい」
ルルナは肩を小さく縮めた。
カーゼルはフレアたちへ視線を戻す。
「申し訳ないが、事情もよく知らぬ方々を、建物の安全も確認できていない場所へ泊めるわけにはいかない」
「……まあ、仕方ないか。いきなり来て、無理言ってるのはこっちだもんね」
フレアは不満を飲み込み、小さく頷いた。
キサラも、仕方がないというように息を吐く。
「申し訳ないな、冒険者の方。では、お祈りでないのであればお引き取りを」
カーゼルは僅かに頭を下げ、踵を返そうとした。
「あ、あの!」
ルルナの声が、その背中を呼び止める。
「でしたら、わたくしの部屋を……使っていただいてはどうでしょうか。三人では少し狭いですが、床へ敷物を用意すれば、お二人にも横になっていただけます」
「ルルナ……」
フレアは懸命に訴えるルルナの横顔を見た。
ルルナは次の言葉を探すように、胸元で両手を重ねる。
「いくら冒険者の方とはいえ、女性のお二人が宿の納屋へ泊まるというのは、やはり心配なのです……」
礼拝堂へ数秒の沈黙が落ちた。
カーゼルは厳しい表情のまま、ルルナの顔を見つめている。
やがて、短く息を吐いた。
「……仕方がない」
ルルナの表情が明るくなる。
「ただし、礼拝堂には寄進品や古い書物も保管している。必要のない部屋へは入らないでもらいたい」
カーゼルの視線が、フレアとキサラへ向けられる。
「分かったな?」
「うん。分かったよ」
「私も構わないわ」
カーゼルは二人の返事を聞くと、それ以上何も言わず、執務室の中へ戻った。
ルルナは扉を見つめていたが、やがてフレアたちへ振り返る。
「……あの、お二人とも、すみませんでした。なんだか、勝手に決めてしまって……」
「ううん。ありがとう。すごく助かったよ!」
フレアが表情を明るくすると、ルルナの顔にも安堵が広がった。
「納屋で寝るよりは、ずっとありがたいわ」
キサラも軽く頭を下げる。
「本当にありがとう、ルルナ」
「い、いえ。お役に立てたのでしたら、よかったです」
ルルナは嬉しそうに微笑んだ。
「では、お部屋へご案内しますね」
* * *
ルルナの部屋は、廊下の突き当たりにある狭い階段を上った先にあった。
扉を開けると、柔らかな薬草の香りが流れてくる。
室内には、小さなベッドと机、椅子、それから簡素な書棚が一つずつ置かれていた。
窓辺には小さな鉢植えが並び、緑色の葉が午後の光を受けている。
机の上には読みかけらしい本と、途中まで書かれた紙が整然と置かれていた。
床は丁寧に掃き清められ、敷物の端もきれいに揃えられている。
「少し狭いですが、がまんしていただけたらと……」
「十分だよ、ありがとね、ルルナ!」
「えぇ、助かるわ。ありがとう」
「では、わたくしは買い出しの荷物を台所へ置いてまいりますので」
ルルナは二人へ軽く頭を下げ、部屋を出ていった。
扉が静かに閉まる。
フレアは外套を脱ぎ、荷物を床へ置いた。
「……歓迎はされてなかったね」
「仕方ないんじゃないかしら」
キサラは薬品鞄の留め具を確かめながら答える。
「私たちは今日初めてこの村へ来た、武器を持った他所者よ。そんな人間を、いきなり礼拝堂の中へ泊めろと言われても、警戒するのが普通でしょうね」
「まあ、それはそうなんだけどさ……」
フレアはカーゼルの冷たい眼差しを思い出し、僅かに口を尖らせた。
そして、すぐに何かを思い出したように荷物へ手を伸ばした。
「そうだ。キサラに見てほしいものがあったんだ」
フレアは布に包んだ乾燥葉を取り出した。
アトラの家から借りてきた、オーリンが母親のために採っていた葉だった。
「これ。アトラのお兄さんが、いつもお母さんの咳止めに使ってたらしいんだ」
キサラは葉を受け取り、窓辺へ移動した。
腰のポーチから単眼のルーペを取り出し、光へ透かす。
細い葉脈と葉の縁に並ぶ小さな鋸歯。
乾燥しても僅かに残っている苦みのある香り。
キサラは指先で葉の表面を撫で、鼻先へ近づけた。
「……星涼草ね」
「せいりょうそう?」
「ええ。乾燥させた葉を煎じれば、咳や喉の痛みを和らげる薬になるわ」
キサラは葉を裏返し、走っている葉脈を確認する。
「星涼草は背の低い植物で、日当たりのいい草原にはほとんど生えないの。湿り気の残る斜面や、林の奥、大きな木の陰に群生することが多いわ」
「じゃあ、アトラのお兄さんは森の奥まで入ってたのかな」
「そうかもね」
キサラは葉を布の上へ戻した。
「自生している場所を見つけられれば、依頼人のお兄さんが立ち寄った範囲を絞り込めるかもしれない」
「なるほどねぇ」
フレアが布を丁寧に畳んでいると、扉が三度、柔らかく叩かれた。
「戻りました~。お茶を淹れましたので、よろしければどうぞ」
フレアが返事をすると、盆を手にしたルルナが部屋へ入ってきた。
机の上に、白い陶器のカップが三つ。
湯気の向こうで、緑の葉と小さな白い花びらが浮かんでいた。
「庭で育てているハーブを使ってみました。歩き疲れている時にも、飲みやすいと思います」
「ありがとう、ルルナ!」
「何から何まで悪いわね」
「いいえ~。わたくしが好きでしていることですから」
ルルナはフレアたちの向かいへ腰を下ろした。
湯気に混じって、青い葉の爽やかな香りが広がる。
フレアは両手でカップを持ち、一口含んだ。
ほのかな苦みのあとから、花の柔らかな香りが鼻へ抜けていく。
「おいしい。なんか落ち着くね、これ」
「はい。わたくしも、この香りが好きなんです」
ルルナは嬉しそうにカップへ視線を落とした。
そのまま一口飲んだあと、少しだけ表情を曇らせる。
「あの……もしかして、フレアさんが捜していらっしゃる方というのは、アトラさんのお兄様でしょうか」
フレアは身を乗り出した。
「えっ、何か知ってるの?」
勢いよく近づかれたルルナが、驚いて肩をすぼめる。
「あ、いえ。行方をご存じというわけではないのですが……」
ルルナは胸元へ手を当て、呼吸を整えた。
「アトラさんと、兄のオーリンさんは、お身体の弱いお母様に代わって、とてもよく働いていらっしゃると村でも評判でした」
「ルルナも会ったことがあるの?」
「はい。祭事の際には、礼拝堂のお手伝いもしてくださいましたので。何度かお話ししたことがあります」
ルルナは悲しそうに目を伏せた。
「一週間ほど前にオーリンさんが行方不明になった時には、村の方々が何日か捜索されていました。ですから、フレアさんが人捜しで来られたと聞いて、もしかしたらと思ったのです」
「そっか」
フレアはカップを机へ戻した。
「アタシたちは、これから北西の森へ行ってみるつもりなんだ。今日はもう遅いから入口の周りだけだけどね」
「私も同行するわ。星涼草のある場所の辺りを捜しに行くんでしょ?」
「うん、着いてきてくれると助かるー」
ルルナは立ち上がり、窓の外へ視線を送る。
「北西の森は、ぬかるんでいる場所が多いと聞きます。草の深いところでは、急な段差や崖が見えにくくなっていることもあるそうです」
「分かった。気をつけるよ」
「暗くなる前にお戻りになった方がよろしいかと思います……」
「そうだね。今日は下見だけにするよ」
フレアは残っていた茶を飲み干すと、腰を上げた。
キサラもカップを机へ置き、薬品鞄の留め具を確認する。
ルルナは二人を礼拝堂の入口まで見送った。
外へ出ると、午後の日差しはすでに傾き始めていた。
村の方角からは、麦束を積み上げる掛け声と、荷車の車輪が石を噛む音が聞こえてくる。
「お二人とも、お気をつけて」
二人は北西の森へ続く細い道へ向かって歩き出した。
背後を振り返ると、礼拝堂の庭先でルルナが小さく手を振っていた。
その姿は、咲き並ぶ小花と午後の光の中へ、静かに溶け込んでいた。
* * *
北西へ延びる小道は、道というよりも獣道に近かった。
膝へ触れるほど伸びた草の間に、細い土の筋が続いている。
ところどころ地面が抉れ、雨水が流れた跡も残っていた。
人の往来は多くないのだろう。
踏み倒されたはずの草もすでに立ち上がり、足跡らしい痕跡はほとんど消えている。
やがて二人は森の手前へ辿り着いた。
西日が低く差し込み、斜面の草先を金色に縁取っている。
フレアが森へ一歩踏み込むと、光は木々の枝葉によって細かく切り分けられた。
肌を撫でる空気から熱が薄れ、湿った土と落ち葉の匂いが濃くなる。
森の中は思っていたよりも静かだった。
小鳥の短い鳴き声の後に、枝から枝へ移る羽ばたきが聞こえてくる。
地面はルルナが話していたとおり、所々ぬかるんでいた。
落ち葉の重なった場所は足を置くと滑り、草に隠れた窪みも多い。
「手掛かりを探すのも簡単じゃなさそうだね」
フレアはしゃがみ込み、地面へ指先を触れた。
表面には小さな獣の足跡や、落ちた木の実が転がったらしい細い筋が混じっている。
だが、人間の靴跡と断定できるものは見つからない。
「一週間も経ってるもの。この辺りは地面も柔らかいし、雨や風で足跡が崩れていてもおかしくないわ」
「何か目印でも残ってればいいんだけどなぁ」
フレアは立ち上がり、周囲を見回した。
キサラは近くの木に手を当てて、森の奥の方を覗き込んだ。
「この辺はまだ木々がまばらだから、星涼草を探すなら、もっと奥に入らないといけないかもね」
風が枝葉を揺らした。
フレアもキサラの視線を追うように、森の奥へと目をやった。
その時だった。
ふと、フレアは背中越しに絡みつくような嫌な視線と気配を感じ、振り返った。
茂みの奥、静かな幹の列の向こうには誰の姿もない。
木の上から、葉が一枚、くるくると揺れながら落ちてきた。
目で追うと、木の上のリスが尻尾を揺らして、幹の割れ目の巣穴に身体を滑り込ませるところだった。
「どうしたの?」
キサラが足を止める。
「ううん……なんか、誰かに見られてたような……いや、気のせいかな」
フレアはしばらく森の奥を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
空を見上げれば、枝葉の向こうに見える光は、すでに夕暮れの色へ変わり始めている。
「暗くなる前に、いったん戻りましょう」
キサラの提案に、フレアはもう一度だけ周囲を見回し、短く頷いた。
「そうだね。今日のところは、入口と足場を確認できただけでも十分かな」
「明日は朝から入って、もっと奥まで探しましょう」
「うん。本格的な捜索は明日からだね」
二人は来た道を引き返した。
踏んだばかりの足跡も、湿り気の上に薄く残るだけで、風が吹けばすぐ消えそうだった。
フレアは先ほど感じた視線が気にかかりながらも、キサラと歩調を合わせ、暮れなずむ空の下、足早に村へ戻っていった。




