第7話 オルフェンの村
夜明け前の外門には、夜の熱が少しだけ抜けた生ぬるい風が流れていた。
見張り台の兵が襟元の汗を親指で拭い、御者は馬のたてがみを撫でながら虫を払う。
東の空が薄橙にほどけて、積まれた藁束の縁だけが先に明るむ。
道の端では、夜露を含んだ土が馬車の轍を濃くしていた。
「ちゃんと遅れないで来たわね」
声の方に振り向くと、少し大きめの薬品鞄を背負ったキサラが歩いてきた。
「あ、キサラおはよー」
「おはよう」
「ま、時間に余裕をもって行動するのが一流冒険者としてはとーぜんのことだからね〜」
「……寝坊したって言って慌ててギルドに駆け込んできたくせに」
アトラがボソッと言うと、フレアは慌ててアトラの口をふさいだ。
「よ、余計なこと言うなー!」
キサラは呆れた様子で額に手を当てた。
「あら、そういえば、その子が依頼の子?」
アトラと取っ組み合いをしていたフレアは、手を止めてキサラに紹介する。
「あ、そうそう、このガキ……子が依頼人のアトラだよ」
アトラはキサラとフレアを交互に見て、少しだけ背筋を伸ばした。
「あぁ、この人はキサラ。アタシの頼れる相棒だよ!」
「相棒になった覚えはないけど」
キサラは帽子の端をつまんで角度を直し、アトラと視線を合わせる。
「キサラよ。私はオルフェン周辺の植生の研究と採取が目的よ。道中よろしくね」
アトラは遠慮がちに、視線を斜め下に落とした。
「よ、よろしく」
「なんかアタシに対する時と態度ちがくない?」
御者の掛け声が短く響き、乗り合い馬車の扉が開く。
三人は腰をかがめ、木の床に足を置いた。
三人のほかには、木箱を二つ抱えた行商人が一人、深めにフードをかぶった旅人風の人が一人ずついた。
座面は堅いが、馬車は新しい油の匂いがして清潔だった。
* * *
日が昇るにつれ、馬車内から見える景色も広がってくる。
初夏の風が馬車の中を通り抜け、車輪が石畳から土道に移るたびに、ぐらぐらと体が揺すられる。
やがて街の外れが遠ざかり、東の光が馬車の窓を薄金色に染める。
湿った草の匂いと、街道を進む車輪の音が、一定のリズムを刻んでいた。
「ねぇ、アトラ。お兄さんのこと、聞かせてくれる?」
「……名前はオーリン」
「なにか特徴は?」
「髪は、黒に近い茶色で、耳くらいで切ってる。頬に、昔、木から落ちたときについた小さな傷がある。あと、背は……俺は兄貴の胸のあたりまでしかない」
フレアは懐から取り出した紙に、聞き取った内容を走り書きしていく。
「なるほどね。いなくなったのは一週間くらい前だっけ」
「ああ、いつもどおり森に木の実を取りに行くって出ていった。あと、薬に使えそうな葉を少し、って。いつもは昼過ぎには戻るのに、その日は戻らなかった」
「出る前、何か変わった様子は?」
「……なかったはずだ。母さんの具合も、その日は落ち着いてたし」
アトラの視線が、ぐっと落ちる。
膝の上で組んだ両手の指が、白くなるほど強く絡み合っていた。
「話を聞く限りじゃ、特に変わったことはなさそうだね。村もここ最近、何か変わったこととかない?」
アトラは思い出したように顔を上げた。
「そういえば、ここ一月のあいだに……二度、ヴェノムっていう魔物が村の外れの街道に出たって、大人たちが話してるのを聞いた。村から冒険者に討伐を頼んだらしい。オルフェンの周りでは、ほとんど出たことなんてなかったみたいだけど」
フレアとキサラが、顔を見合わせる。
行商人がちらりとこちらを見、また視線を窓に戻した。
(そういえば、前にミストダンジョンに行ったとき、術士がほかの地域の討伐に出払ってるって言ってたっけ……。この辺りにも来てたのかな……?)
馬車は軽い起伏を越え、日差しはすでに白く強い。
遠くの地平は、雲の影にうっすらと縞を作っている。
「オルフェンの森は、どちらの方角に?」
「北西。畑の端から入る小道がある。兄貴は、その道をよく使ってた」
「採る葉は決まってる?」
「えっと……母さんの咳に効くって、苦い匂いの。名前は分からない。兄貴はいつも、葉脈を見て選んでた」
「葉脈ね……帰ったら見せてもらえる?」
頷くアトラの指先が、膝の布地をぎゅっとつまんだ。
* * *
夕暮れ前、街道沿いの宿場に着いた。
平屋の大きな梁に、麦の束が飾りのように吊られている。
戸口は人でいっぱいだった。
馬車を降りると、乾いた草と埃の匂いが一度に押し寄せてくる。
裏手では水桶が並び、馬が鼻先を鳴らした。
「なんか結構人が多いね」
「もしかしたら村の外からも刈り入れの応援を呼んでるのかもね。それだけじゃないのかもしれないけど」
宿の周りにも、冒険者風の者が何人か見えた。
宿の食堂は熱気に満ちていた。
焼いた根菜と塩漬け肉の皿、薄いスープ、粗いパン。
フレアはぱくぱくと食べ、アトラは最初こそ緊張していたが、二口目で目がほどけた。
「お兄さんが心配なのは分かるけど、しっかり食べないとね」
「……分かってるよ」
アトラは顔を隠すように、両手でスープの入ったカップを持ち、飲み干した。
キサラは食べながら、眉間に薄く皺を寄せて遠くの席を眺めていた。
帆布の外套を着た男たち、麦藁帽の女たち。
笑い声の底に、わずかな忙しなさが混ざっている。
「ねぇ、キサラ」
「なに」
「ヴェノムが出たって話、やっぱ気になる?」
「少しね。オルフェンは立地的に、アルテナよりも大陸の外側。霧の濃度だってそんなに濃いはずはないものね」
キサラはスプーンを置き、指先で卓の木目をなぞった。
アスロニア大陸は、中央に寄るほど霧が濃くなり、危険が増す。
特に中心部は濃い霧の魔力が蔓延し、強力なヴェノムが闊歩する「魔境」だと噂される。
アルテナよりさらに外側にあるオルフェンは、本来は「穏やかな側」に属するはずだった。
それでも近ごろ二度、ヴェノムが現れた。
その事実だけが、彼女の眉間に皺を残していた。
短い沈黙。アトラが考え込むように俯く。
「大丈夫だよ! 必ず、手がかりは見つけるからさ!」
フレアが明るい声で言うと、アトラは小さく、しかし確かな力で頷いた。
* * *
翌日、夜明けとともに出発した馬車は、昨日よりも増えた乗客と荷物を乗せ、日が頭上に昇りきる頃に低い丘を一つ越えた。
そこで景色が、ぐわっと開ける。
広大な穀倉地帯、オルフェン。
黄金の波が、地平の向こうまで続いていた。
風が走るたびに、穂先が一斉に伏せ、また立ち上がる。
見渡す限り、畝と畝のリズムが、世界の拍動みたいに繰り返される。
「ほわぁー……すご」
思わず漏らしたフレアの声に、アトラが反応して身を乗り出す。
しばらく進んだ後、アトラは外の景色の中、遠く、ある一点を指さした。
「あそこ、あの小さな道。あれが北西の森に続いてるんだ」
「ん、分かった」
フレアは目を細め、その方角を頭に刻んだ。
昼過ぎ、村の門が見えてきた。
木製の簡素な門柱だが磨き込まれていて、すれ違う荷車のわだちが深い。
馬車が門をくぐり、やがて村人たちが集会で使っているであろう広場に到着した。
御者が「着いたぞ」と短く言い、三人は代金を渡して下車する。
荷台から降りると、麦と土の匂いが広がっていた。
広場の周りにはすでに荷車が列をなし、束ねられた穂が山のように積まれている。
人の声、牛の鳴き声、遠くの鍛冶の音。
村じゅうが動いていた。
「私は宿の手配をしてくるわ。また後でね」
「おっけぃ。後で宿に向かうね」
キサラは薬品鞄を肩にかけなおすと、足早に人の波へ消えた。
フレアはアトラと並んで歩き出した。
村の中心から外れへ。土の道の両脇に、小さな畑と干し草の小屋が並んでいる。
二十数分ほど歩いた頃、アトラがふっと息を止めた。
家の前、戸口の陰にひとりの男がいた。
泥のついた靴、薄汚れた灰色の上着をだらしなく着崩している。
視線が絶えず泳ぎ、戸口と窓を交互にうかがっていた。
「あ、アイツ……!」
こちらに気づいた男はアトラを見て、一瞬だけ睨むように目を細める。
そして、その横に立つフレアの装備に気づいた途端、目を逸らし、肩をすぼめると、そそくさと裏手へ消えていった。
「今のは? 知ってる人?」
「知り合いじゃない。でもアイツ、昼間も働かないでウロウロしてて、村の大人たちからの評判は良くない。今だって、村のみんなは刈り入れで忙しいのに。確か……ラットって名前だった気がする」
「ふぅん……」
フレアは一度だけ、曲がり角の方へ視線を送った。
もう男の姿は見えなくなっている。
何かを探すように、家の様子をうかがっていた。
それだけは、確かだった。
戸口の前に立つと、アトラは深呼吸をして扉を開けた。
「母さん!」
「……アトラ?」
部屋は薄暗く、窓には白い布がかけられている。
奥のベッドで横になっていた女性が、アトラの声に気づいて身を起こした。
痩せてはいるが、目の色は澄んでいる。
「心配してたんだよ! ……アンタまでいなくなったら……!」
「ご、ごめん母さん。冒険者にお願いしに行ってたんだ……兄貴のこと」
アトラの後ろに立つフレアは、アトラの母と目が合うと、軽く頭を下げた。
「あ、フレアっていいます。アルテナから来ました。アトラのお母さん、ですよね?」
「まあ……わざわざアルテナから……」
女性は身を起こしたまま、フレアに向かって小さく頭を下げようとした。
フレアは慌てて手を振る。
「ああ、無理しないで! それより、少し話を聞かせてもらえたらと思うんだけど」
短いやりとりのあと、フレアは本題に入った。
「オーリンさんの手掛かりになりそうなもの、見せてもらえる?」
アトラは棚から布袋を取り出し、机に広げた。
小さな刃の手入れ済みのナイフ、麻紐、磨り減った革の手袋、布に包まれた乾いた葉の束。
フレアは葉の束をそっと持ち上げ、光に透かす。
細く走る葉脈が、指先に冷たい線を描いた。
「これが昨日言ってた、いつも採ってた葉?」
「……うん。母さんの咳に効くって、煎じてた」
「なるほどね。キサラに後で見てもらおう」
フレアは包みを丁寧に戻し、母親の方を振り返る。
「いったん、手掛かりになりそうなものはお借りしますね」
「えぇ、お願いします」
女性はそう言ったあと、フレアの顔をまっすぐに見た。
「あの子は……オーリンは、無茶をするような子じゃないんです。それだけは、分かってあげてください」
「はい。しっかり探します」
フレアは小さく頷くと、アトラに視線を戻した。
「それじゃあ宿に荷物を置いてから森の方に行ってくるね。キサラに手掛かりになるものも見せてみたいし」
「……兄貴を、頼む……」
「任せといて!」
フレアは力強く頷くと、アトラの家を後にした。
* * *
村の中心へ戻ると、宿の前でキサラが腕を組んでいた。
普段は無表情な口元が、今日は珍しく困っている。
「キサラー! どうだった? 宿はとれた?」
「どうもこうもないわ。三日後まで空室がないんですって」
「えぇ!? あぁ〜そっかぁ……刈り入れの応援の人たちや冒険者も相当来てるんだね」
「もう一軒、別の宿も当たったけど、こっちも同じ。納屋に雑魚寝なら、って言われたけど、薬品を守れないし」
キサラは視線を落とし、首を振った。
「どーしよー……アトラの家に……いや、そんなスペースはなさそうだったし、村に着いたのに野宿は……納屋かぁ……う〜ん」
フレアが頭を抱えて唸っていると、キサラは薬品鞄の持ち手を握り直し、ため息をついた。
「あ、あのぉ……」
二人の後ろから、恐る恐る、だが澄んだ声がした。
振り向くと、明るい水色の髪が肩のところで綺麗に切り揃えられており、深い青色の瞳を持つ少女が立っていた。
歳は自分たちと同じぐらいだろうか。
両手には布袋。袖口の意匠から、十二星神教の教会関係者だと分かる。
頬は日差しで少し赤く、靴には粉のような小麦の白がついていた。
買い出しの帰りなのだろう。
「あの、冒険者様……ですよね? 何かお困りのようですが、どうかなされましたか?」
少女はおずおずとこちらを伺うように話しかけてきた。
「あ、ええと……うちら、今日この村に着いたんだけど、その……」
「もしかして、宿に……お困りなんですか?」
「そうなの、このままだと最悪、納屋になっちゃうみたいで……ちなみにアナタは、この村の教会の人?」
少女はこくりと頷いた。
「はい、ルルナと申します」
ルルナは胸元で袋を抱え直した。
その仕草に、どこか懐かしい礼儀正しさがあった。
「あの……もしよろしければ、礼拝堂の離れに、今は物置になってるのですが、元々客室として使っていた空き部屋が一つあったと思いますので、そちらでよろしければ……」
風が、広場の麦束をふわりと揺らした。
フレアの胸の奥で、緊張の糸がほんの少しだけ緩む。
「そうしてくれるなら助かるかも!」
「あ、ですが、まずは司祭様に了承を得ないといけません……それからでもよろしいですか?」
「うんうん! ぜひぜひ!」
少女は安堵の笑みを浮かべ、二人を手招いた。
「では、こちらへどうぞ。礼拝堂は、あの鐘楼が目印です」
ルルナが指した先、村の中心から少し外れた場所に、白い壁の礼拝堂と、小さな鐘楼が見えていた。
村人の流れが、斜めに分かれていく。
黄金の午後に、細い小径が一本、真っ直ぐに伸びていた。




