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第6話 小さな祈り

昼下がりの光が傾きはじめ、ギルドの窓に柔らかい縁取りをつけていた。


フレアは執務室の片隅で、父から渡された依頼書の控えを束ね、印を押す場所に赤い紐を通していく。

紙の乾いた匂いとインクの匂い。いつもなら単調な作業も、今日は妙に手が進んでいた。


——ざわ、ざわ。


受付の方が少し騒がしい。


執務室の扉を半分だけ開けて、様子をのぞき込む。

カウンターの前で、背の低い影が食らいついていた。


「これだけ頼んでもダメなのかよ!」


受付嬢のリーナ・フェルディアが困ったように眉を下げ、何やらなだめている。


フレアは扉から顔を出した。


「リーナ、どしたの?」

「あ、フレアさん」


リーナは振り返り、事情を説明する。


「こちらの方がオルフェンの村からいらっしゃったみたいなのですが……えぇと、依頼を申し込みたいと……」

「ふーむ?」


受付前の少年は、日焼けした腕でカウンターの端をぎゅっと掴んでいた。

目は真っ直ぐだが、焦りの熱で潤んでいる。


その時、大扉がバァンと開いて、大男が入ってきた。


「おー! どうしたどうしたー!? 随分と騒がしいじゃねぇかぁ!」


昼飯を片手に、アーダンが戻ってきた。

フレアは呆れたように腰に手を当てる。


「アーダンおじちゃんの方が騒がしいと思うけどー?」

「やっぱそうか!? ガーハッハッハ!」


リーナは苦笑しつつ、小声で続けた。


「あの、どうやら行方不明者の捜索だそうです。ただ、その……依頼料が……」

「依頼料?」


受付に置かれた布袋から、小さな硬貨が幾つか並べられている。

フレアが覗き込むと、ルナ銀貨が五枚、あとはルクス銅貨が十枚と少し。


宿一泊と食事一回でルナ銀貨が数枚は飛ぶことを考えれば、馬車代と滞在費を差し引いた時点で、手元にはほとんど何も残らない金額だった。


「さすがにこれでは受けてくださる冒険者が……」

「あー、うん、確かに」


少年は両手をぎゅっと握りしめ、絞り出すように声を上げる。


「なぁ、頼むよ! 俺にはこれ以上は……でも本当に困ってるんだ!」


フレアは少年と目線を合わせるように少し屈み、問いかけた。


「ねぇねぇきみ、誰か大人とは一緒じゃないの?」

「いねぇよ! 俺ひとりだ!」


少年は苛立った様子で答える。


「えぇと、家族は? ひとりでオルフェンからここまで来たの?」


少年は唇を噛み、反射的に顔を逸らした。


「……父さんはいない。俺が小さい頃に亡くなった。母さんは体が弱くて村からは出られない。ここまでは俺一人で馬車に乗って来たんだ!」

「オルフェンから? 馬車代はどうしたの?」

「御者のおっちゃんに頼んだ……。休憩の時は馬に水やりや餌やりをやって、夜は馬車と馬の見張りもした。それで、ここまで乗せてもらったんだ」


少年はカウンターに置かれた布袋へ目を落とした。


「持ってきた金を、馬車代で減らしたくなかったから……」


フレアはもう一度、受付台に置かれた硬貨を見た。


目の前の少年は、考えなしに村を飛び出してきたわけではない。

自分にできることを探し、働き、持っている金を一枚でも多く残して、ここまで辿り着いたのだ。


「そこまでして、オルフェンから馬車で……その歳ですごいねぇ……」


フレアが感心していると、少年はますます苛立ったように睨みつけながら続ける。


「さっきから聞いてりゃ、お前! 家では動けない母さんに代わって、俺と兄貴が家を支えてるんだ! 子ども扱いすんじゃねぇ!」

「ぐ……!」


フレアはちょっとだけカチンと来つつ、口元を引き攣らせながら笑みだけは崩さないよう取り繕う。


「そ、それじゃあ、そのお兄さんは一緒じゃないのかな?」


少年の喉が震えた。


「……兄貴が……行方不明なんだ……一週間前、森に出たっきり……」

「他の人には?」

「言ったさ! 何人かで探してもくれた! ……でも結局見つからなくて……でも、今は村総出で刈り入れの時期なんだ。これ以上周りの大人に頼ることもできない」


オルフェンはグランベルクでも有数の小麦の産地で、村の外れから地平まで穂波が続く広大な穀倉地帯だ。


例年ちょうどこの時期、村じゅう総出で大規模な刈り入れが行われる。

刈り取られた小麦は荷馬車の隊列となり、このアルテナを経由して王都に運ばれていく。


「話はだいたい分かった」


執務室からガラムが出てきた。太い腕を組み、少年と机上の硬貨を順に見やる。


「だが確かに、これだけだとちと厳しいな。一番下の等級で依頼を出すにしても、必要な経費に届かねぇ」

「そ、そんな……」


少年の肩が落ちる。

フレアは一歩、前に出た。


「それならさ、アタシが行ってこようか?」

「お前がか?」

「こんな時のためにアタシって、お父さんの手伝いである『職員』としても、手が回らない時に依頼もこなす『冒険者』としてもやってるワケでしょ? フットワークの軽さなら任せてよ!」


フレアは冒険者として依頼を受ける一方、依頼のない日はガラムの執務を手伝っていた。

固定のパーティは持たず、人手の足りない依頼や急な案件へ加わることも多い。帳簿や書類の整理に走り回り、時には併設酒場の手伝いまでこなす。


いわば、暁の翼の「何でも屋」だった。

だからこそ、こうした急ぎの頼みにも身軽に動ける。


「しかしだなぁ」


ガラムが低く唸る。


「オルフェンまで馬車で一日半。旅費や、捜索中の滞在費はどうする。俺だって何とかしてやりてぇが、ギルドの仕事は慈善事業じゃねぇ。現実的には厳しいぞ」

「それは……うーん、村に着いてから村のえらい人に交渉するってのはどうかな?」

「えらい人ってお前……とても上手くいくとは思えんな」

「だってさ、子どもが一人、わざわざここまで来たんだよ? さすがにこのまま帰すわけにはいかないじゃん。……それに!」


語尾に力を込めて、フレアは少年の方を振り返る。


「こういう時こそ! アタシみたいに頼れるオトナがついて安心させてあげないと、だよね~?」


フレアは胸に手を当て、余裕たっぷりの笑みで、ふふんと鼻を鳴らした。


少年は拳を握りしめ、俯いた。


「……俺だって、これっぽちの金額じゃ現実的じゃないことは分かってるんだ……。本当は“ちゃんとした”冒険者に頼みたかったけど……贅沢なんて言わねぇ……!」

「んな!? アタシが“ちゃんと”してないっての!? こんのーーー!!」


フレアは顔を真っ赤にして地団駄を踏む。


「ガーハッハッハ! このガキ、なかなか言うじゃねぇか!」


アーダンが膝を叩いて大笑いする。


「さっきから生意気なぁ!」

「フレア、ムキになるな。そういうところだぞ」

「ぐぬぬ……」


少年は力のこもった視線を向ける。


「ていうか! さっきも言ったけど俺を子ども扱いするな! 俺にはちゃんとアトラって名前があるんだ!」

「アトラ、ね。覚えた。——むしろ覚えとけよマジで」


アトラは顔を上げ、まっすぐに言葉を紡いだ。


「……もし……もし、受けてくれるなら……何年かかってもちゃんと依頼料は支払う。兄貴は、何も言わずに家を空けるようなやつじゃないんだ。大切な、家族なんだ……だから……!」

「……アトラ……」


短い静寂。ガラムが重い息をひとつ吐いた。


「——しっかり、準備だけはして行け、フレア」

「……え!?」


アトラが驚きの表情に変わる。


「お父さん……!」

「忘れ物するんじゃねーぞ! ガハハ!」


アーダンが親指を立てて笑う。


「うん!」


アトラの目が大きく見開かれ、やがて潤み、ぎこちなく頭を下げた。


「あ……ありがとう…ございます……!」


その日は準備に充て、翌朝に出発することが決まった。

宿泊費の心配をするアトラに、ガラムはぶっきらぼうに顎をしゃくる。


「今日はギルドの客間を使え。規定外だが、まぁ特例だ。飯は下の厨房で分けてもらえ。礼は兄貴を見つけてからでいい」

「……はい!」

「ま、アタシがついてるんだから大船に乗った気でいなさいな! 少年!」


フレアがわしゃっとアトラの頭を撫でた。


「頭撫でるんじゃねぇ! お前こそ、寝坊で遅れたりするなよな!」

「なんだとーーーー!?」


やれやれといった様子で、ガラムがため息をついた。


* * *


夕刻。フレアは外門を出て、小さな森の小径を抜けた。


窓辺の青い布が揺れ、薄暗い家に灯りがともっている。

フレアは戸口をノックした。


「キサラー、いるー?」

「いないわ」

「もー、いじわるだなぁ」


扉が開き、キサラが顔をのぞかせる。

今日は、わりと血色がいい。


「今日は? 何しに来たの?」

「実はさ、ポーションの補充のお願いに……って、また散らかってきてるー!」


フレアはキサラの後ろに広がる光景に眉をひそめた。

机の上には新しい紙束が積まれ、床にも数冊の本が転がっている。


「こんなの散らかってるうちに入らないわよ」

「いや、入るわ!」


フレアは肩をすくめながら、室内の通路を確保するように紙束を端に寄せた。


「すぐこうなるんだから~! ご飯は? ちゃんと食べてる?」

「そんなに心配しなくても平気よ。ちゃんと昨日だって食べたし」

「……今日は?」


キサラは口を噤んだ。


「はぁ……まったくも~、明日からアルテナを少し空けるのに、これじゃあ心配だなぁ」


フレアは手を付けられた様子のないキッチンを見ながら、ため息をついた。


「ん? アンタ明日からどこか行くの?」

「ちょっと依頼を受けてオルフェンまでね。まぁ、個人的に受けたやつだから、ポーションはギルドの在庫からじゃなくて、キサラから買っていこうかなーって」

「オルフェン?」


キサラの目が、わずかに細くなる。考え事をする時の目だった。


「オルフェンと言えば、ちょうど今が小麦の刈り入れの時期よね? 農作業の手伝いでもしに行くの?」

「あ、違う違う。人探しなんだよね。村の子が直接、依頼に来てさ」

「へぇ……」


短い沈黙。

キサラは書棚に視線を泳がせ、言葉を選んだ。


「あの辺りは小麦の他にも、周辺の植生がなかなか面白いのよ。あの辺りにしか自生しない薬草もある。……ついでに私もついて行こうかしら」

「え、もしかしてまたタダ働きを期待してる?」


キサラは棚に手を伸ばしたまま、フレアを横目で見た。


「人聞きが悪いわね。アンタは人探しをするんでしょ? 私は村の周辺で植生のサンプル採取と薬草採りをするだけよ。あの辺りなら、別に護衛なんて必要ないわ」


フレアはにやにやと笑いを堪えながら、キサラの顔を覗き込んだ。


「ふむふむ、なるほど? つまり護衛は必要ないけど、このフレアちゃんと道中一緒に行きたいということだね?」

「は、はぁ!? なんでそうなるのよ!」


キサラは持っていた小瓶を、危うく取り落としかけた。


「照れるな、照れるな。かわいいやつめ♪」

「調子に乗るんじゃないわよ、バカ」


キサラは戸棚を開け、整然と並ぶ小瓶を幾つか取り出した。

琥珀色、翡翠色、乳白色。光を受けて、柔らかく揺れている。


「回復(ライト)三本、解毒一本、疲労回復(マナ)一本。あと火傷と切創の外用も一本ずつね」

「助かる〜! んじゃ、これ支払いね」


フレアが小袋を差し出す。

キサラは中の硬貨を数え、静かに頷いた。


「出発は明朝?」

「うん、夜明け。乗り合い馬車の初便に乗るつもり」

「そう。じゃ、私は開門直後に外門のところで合流するわ」

「おっけぃ〜」


フレアはポーションの詰まった袋を背に回し、扉に向かう。


「じゃ、明日ね、キサラ」

「えぇ。寝坊するんじゃないわよ」

「もー! キサラまでー! 大丈夫だってばー!」


二人の笑い声が青い布にやわらかく跳ね、森の匂いに混じって消えていった。


* * *


夜。ギルドの客間で、アトラは借り物の毛布に包まれながら、静かに目を閉じていた。


天井の木目を、ぼんやりと目で追う。


遠く、積み下ろしの荷車の音がかすかに響く。

扉の外を通る足音が、一つ、二つ。どれも短く、急いでいた。


――兄貴を見つけたら、何て言おう。


そんなことばかり、頭の中を巡っていた。

持参した乾パンの残りが、鞄の底で小さな音を立てた。


(兄貴。待ってろ。絶対——)


言葉にならない祈りが、少年の胸の奥で、小さく灯り続けていた。

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