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第5話 青い灯の家

ミストダンジョンから戻って、二週間が過ぎていた。


あれから琥珀の森周辺で大きな異変は確認されていない。


暁の翼の掲示板から緊急依頼を示す赤い札は外され、東門に出されていた警戒も段階的に解除されていた。

街道を行き交う荷馬車の数も元に戻り、アルテナはいつもの喧騒を取り戻している。


今日は、フレアにとって久しぶりの丸一日の休日だった。


朝のうちにガラムから頼まれていた買い物を済ませ、自宅に溜めていた洗濯物と掃除も一気に片づけた。

昼前には一通りの家事を終え、フレアは小さな包みを手にアルテナの外門を出た。


門前では、旅商人が荷車の車輪を確認している。

その横を通り過ぎ、琥珀の森とは別の方角に延びる細い道に入った。


街道を外れると、車輪の音や人々の話し声は次第に遠ざかっていく。


アルテナの外門から少し離れた、小さな森。

その奥に、キサラが一人で暮らす家があった。


木々の間から、灰色の屋根が見えてくる。


蔦の這う壁には小さな窓があり、昼だというのに室内から青い光が漏れていた。

窓辺に掛けられた青い布が、森の風を受けてゆっくりと揺れている。


家の周りには、用途の分からない鉢植えや木箱が並んでいた。


乾燥させているらしい薬草の束が軒下から吊るされ、風に揺れるたび、葉と葉がかさりと触れ合っている。


フレアは慣れた足取りで戸口まで進み、扉を軽く叩いた。


「キサラ、開けて。アタシだよー」


返事はすぐにはなかった。

部屋の奥から、硝子同士が触れ合う小さな音が聞こえてくる。

続いて何かが床に落ちたらしく、鈍い音が響いた。


「……キサラ?」

「今、手が離せないわ。少し待って」


扉越しに返ってきた声は、普段よりも掠れていた。


ほどなくして足音が近づき、内側から鍵が外される。

軋みながら開いた扉の向こうに、キサラが立っていた。


青い魔女帽子は少し斜めに傾き、長い金髪も普段ほど綺麗には整えられていない。


何より目立つのは、金色の瞳の下にくっきりと浮かんだ隈だった。


「なにしに来たのよ、アンタ」

「え~、第一声がそれ? もっとこう、『来てくれて嬉しい』とか言ってくれてもいいのに」

「別に嬉しくなんかないし。で、なに?」


言葉は冷たいのに、扉をもう少し大きく開けてくれる手つきはどこか緩い。


フレアは慣れた様子で家の中に足を踏み入れる。

そして、首をかしげ、口を尖らせた。


「……ねえ、キサラ」

「なによ」

「三日前にアタシがぴかぴかにしたはずの床、どこ?」


室内は、以前にも増して物で溢れていた。


机の上には大小さまざまな試験管とフラスコが並び、青や緑の液体が窓辺から差す光を受けて淡く揺れている。

床には表紙を開いたままの本や、細かな文字を書き連ねた紙束が積み上がっていた。


紐で束ねた乾燥薬草。中身の名前が書かれていない瓶。使いかけの蝋燭。

椅子の背からは白い作業着が半分ずり落ち、辛うじて袖だけで引っ掛かっている。


部屋の隅には、空になったカップが三つ並んでいた。


キサラはフレアから視線を逸らす。


「……忙しかったのよ。区切りがついたら整理しようと思って」

「キサラが一度始めたら、区切りなんてつけれるわけないじゃん。どーせ徹夜してたんでしょ」

「……一晩か二晩くらい、徹夜のうちに入らないわよ」

「思いっきり入るよ!」


フレアは深い溜息をつき、持っていた包みを空いている棚の端に置いて、両腕の袖を捲り上げる。


「はい。まずは空気の入れ替えからね」

「待って。一部の薬品は日光に弱いの」

「じゃあ、どれを動かせばいい?」

「窓際にある青い瓶と、銀色の蓋が付いた試験管。あとは、右端の紙束も直射日光に当てないで」


フレアは言われたとおりに瓶を机の奥に移した。


キサラも資料の山を持ち上げようとする。

その拍子に、壁に立て掛けられていた本が雪崩のように崩れた。


何冊もの本と紙束が、ばさばさと床に落ちる。


フレアは床にしゃがみ込み、落ちた本を一冊ずつ拾い集めた。


「はぁ……キサラってさぁ……」

「……な、なによ」

「私生活マジでダメダメだよね〜」

「う、うるさいわね!」

「家事と料理以外は完璧なのにさ」


フレアはやれやれといった様子で両手を広げて首を振る。


「家事は……その、ともかく、料理は別に下手じゃないわよ! ……ただ、めんどくさいから出来合いのもので済ませてるだけで……」


フレアは拾い上げた本の背表紙を確認し、棚に戻していく。


アルテナ周辺の植生を記した本。

魔法薬の素材と温度管理に関する研究書。

エルフ語で書かれた薬学書。

魔装の術式構築について、細かな図と文字が記された古い資料もある。


そのほかにも、歴史や古代遺跡に関する分厚い本が何冊も並んでいた。


フレアは、そのうちの一冊に目を留めた。


擦れた革表紙に、星を囲むような幾何学模様が刻まれている。


「キサラって、歴史の本も読むんだ?」

「それ?」


キサラはフレアの手元を覗き込んだ。


「古代遺物についてまとめた研究書よ。正確には、現時点で確認されている出土品と、研究者の推測を書き集めたものね」

「古代遺物って、昔の人が作った魔道具みたいなやつ?」

「まあ、全部が魔道具とは限らないんだけどね。日用品っぽいのもあったり、都市設備っぽいものだったり。何か大きな機構の部品なのか、それすら分からない物もあるみたいね」


キサラは本を受け取り、表紙の埃を指先で払った。


「神話では、星理の神々が自らの姿を模して、最初の人々を生み出したと言われているでしょう?」

「うん。十二星神教の神話に出てくる人たちだよね」

「現代では、その最初の人々が古代ノヴァリア人だったんじゃないかと考える研究者もいるの」


キサラは本を開き、挿絵の描かれた頁をフレアに見せた。


「古代ノヴァリア人が遺したとされる遺跡や遺物には、現代の魔術では説明できないものが多いの。そういうところにも、研究のヒントは隠されてるものなのよ」

「ふぅ〜ん……」


フレアはよく分かってなさそうに頁を覗き込んだあと、本を受け取り、元の棚に戻した。


窓際の薬品を移し終え、窓を半分だけ開ける。

森の冷たい空気が、薄暗い室内に流れ込んできた。


薬草と魔法薬の濃い匂いが薄まり、その代わりに湿った土と若葉の香りが部屋に広がる。


フレアは床に積まれた紙束を種類ごとにまとめ、部屋の中央に細い通路を作った。


そして机の端に転がるパンの欠片を拾い上げ、眉をひそめた。


「……ねえ、キサラ。これ、いつの?」

「今朝。……たぶん」

「……もう結構固くなってるんですけど、これ」


フレアはパンの欠片を皿に戻した。

机の周りを見ても、ほかに食事らしいものは残っていない。


「どうせ、まともなご飯も食べてないんでしょ? 何か作ってあげるから」

「お腹空いてないし」


言った直後にキサラのお腹が小さくきゅぅ~と鳴る。

キサラは顔を赤くして目を逸らす。


「うっ……」

「はいはい。美味しいもの作るから、ちょっと待っててね」


フレアは楽しそうに笑いながら、棚の端に置いた包みを取り、小さな台所に向かった。


台所は居間より狭く、その半分近くを調合器具が占領していた。

棚には鍋や食器と一緒に、薬草を刻むための小刀、乳鉢、計量用の匙が並んでいる。

流し台の端には、洗い終えた小型の調合鍋が伏せられていた。


フレアはそれらに触れないよう気をつけながら、調理台の空いた場所に包みを置いて解いた。

中には、角張った形をした淡い褐色の芋が幾つか入っている。

六角芋。表面は硬そうに見えるが、煮込むと柔らかく崩れ、わずかな甘みを持つ食材だった。


「差し入れに持ってきて正解だったね」


フレアは食材の入った籠を覗き込んだ。


「お、レッドボアの干し肉もあるじゃん。これならスープにできそう」


別の籠には、赤いサニーベリーが残っていた。


フレアは使えそうな食材を調理台に並べると、包丁を手に取った。

六角芋の硬い皮を少し厚めに剥き、食べやすい大きさに切り分ける。

鍋に水を張り、細く裂いたレッドボアの干し肉と一緒に火に掛けた。


塩を一つまみ。乾燥させた香草を少し。


鍋が温まる間にサニーベリーを小皿に移し、匙の背で丁寧に潰していく。

赤い果肉に蜂蜜を垂らすと、甘酸っぱい香りが台所に広がった。


匙でスープを少し掬い、味を確かめる。

煮込まれた六角芋の角が少しずつ崩れ、干し肉の旨味が白い湯気とともに立ち上っていた。

鍋を火にかけている間、フレアはキサラの顔を覗き込む。


「キサラ、目、見せて」

「えっ……」


フレアがキサラに顔を近づける。

キサラの猫のような金色の瞳が光に揺れる。

目の端には充血が見られた。


「……う~ん、これはひどい。せっかくの美人さんが台無しですねぇ。栄養とって、ちゃんと寝ること。いいね?」

「心配しなくても、一段落ついたらちゃんと寝るわよ」

「さっきの『区切り』と似たようなもんでしょ?」


鍋がふつふつと音を立て、青みを帯びた光の中に温かな湯気が重なり、薄暗かった室内の空気が、少しずつ柔らかくなっていった。


フレアはパンを軽く温め、潰したサニーベリーのソースを塗る。


器にスープを注ぎ、二人分の食事を小さな卓上に並べた。


「はい、完成!」


フレアは得意げに両手を広げた。


「六角芋とレッドボアのスープ。それから、サニーベリーの甘パン!」

「……美味しそう」

「でしょでしょ~? 冷めないうちに早く食べよ!」


キサラは匙を手に取った。

湯気を軽く吹き、一口分のスープを口に運ぶ。

金色の瞳が、かすかに見開かれた。


「……ちゃんと美味しい」

「『ちゃんと』って何?」


フレアは頬を膨らませた。


「これでも、暁の翼の酒場でアタシの料理は評判いいんだからね」


フレアも自分の器を引き寄せ、スープを口に運ぶ。


「うん。我ながら、よき味付け! 六角芋がいい感じに溶けてる。もう一杯あるよ」

「……いただくわ」

「ふっふっふ。たーんとお食べ♪」

「……だれ?」


フレアは上機嫌でキサラの器にスープを注ぎ足した。


食事を進めるにつれ、青白かったキサラの頬に、少しずつ血色が戻っていく。

フレアはその様子を確認しながら、甘パンを齧った。


「それで、今回は何を調べてたの?」

「ポーションの配合の再検証よ」


キサラはスープの器を両手で包み込んだ。


「温度帯と撹拌の回数によって、沈殿の出方が変わるの。同じ材料と分量でも、温度を上げるタイミングがほんの少しずれるだけで、成分の混ざり方が変わるわ」

「へえ……」

「特に境目の数秒が面白いのよ。見た目には同じでも、効果の持続時間に差が出る可能性が……って聞いてるの?」

「き、聞いてるよ。頭から煙が出そうだけど」


研究内容のこととなると饒舌になるキサラに対し、フレアは若干引き気味に口の端を小さく引き攣らせる。


それでも研究の話を遮られたことが嫌だったわけではないらしく、口元にはかすかな笑みが残っている。


「でもさ、ほんとはアタシが来て嬉しかったでしょ」

「……さっきも言ったけど、別に嬉しくなんかないし」


言い切るキサラの耳たぶが、ほんの少し赤い。

フレアはにやっとして、わざとらしく両手を広げる。


「素直じゃないなぁ。フレアお姉さんが、よしよししてあげよう」

「やめなさい。スープがこぼれるでしょ」


キサラは器を守るように両手で抱えた。


「それに、アンタの方が二つも年下じゃない」


二人の声が、森の静けさに混じってほどよく響く。

食事を終え、食器を洗い終えたフレアは、机の上に空いた場所を作った。


資料の内容までは分からないため、順番を崩さないよう注意しながら、倒れそうな山だけを積み直す。


「ふぅ~、この間片付けたばっかりなのに、もうこれだもんなぁ。毎回のことながら、キサラの生活が心配だよ」

「研究に全振りしてるだけ。……生活は外部委託してるから」

「外部委託って、アタシのこと? まったくしょうがないなぁ」


フレアは名案を思いついたように、指を立てた。


「それじゃあ料金は『アタシとまた一緒に冒険する』ってことでいいかな?」

「アンタといると碌でもないことに巻き込まれるけどね……」


そう言ってキサラは、口元をほんの少し緩ませる。


「まあでも、ふふ。考えておくわ」

「今笑った。かわいい〜」

「笑ってないし」


お腹が満たされたせいか、キサラの瞼が重くなってうつらうつらし始める。


「ほら、ちょっと寝よ。ベッド……って、ベッドも資料で埋まってるじゃん」

「ん……一時的な置き場よ」

「一時的(永続)ね……」


フレアはベッドの片づけを諦め、居間のソファに目を向けた。


「もうソファでいいや。毛布どこ?」

「そこ、引き出しの二段目」


キサラをソファに座らせ、毛布を引っ張り出して、その肩にふわりとかける。

それから、キサラの帽子をそっと外した。


「自分でできるわよ」

「寝そうな人は黙っててください」


キサラは最初こそ目をこすって抵抗していたが、スープの温かさと毛布の柔らかさに押されるように、次第にまぶたが落ちていく。


「三時間経ったら起こして……残り……確認しないと……」

「大丈夫だよ、ちゃんと起こしてあげる」


声が次第に小さくなる。

やがて、ほとんど閉じた瞼のまま、キサラが小さく口を動かした。


「……フレア」

「なに?」

「……ありが――」

「聞こえないな〜?」


フレアがわざとらしく耳に手を当てる。


「もう。……ありがと」

「はーい、どういたしまして」


キサラの瞼が完全に閉じる。

ほどなくして呼吸がゆっくりと整い、静かな寝息に変わった。

フレアはしばらく、その寝顔を見つめていた。


「……ふぅ、頑張り屋さんだなぁ」


フレアは毛布の端を直し、キサラの肩が冷えないように掛け直した。

それから机に戻り、途中まで整理していた資料の端を揃える。


窓から差し込む昼の光が、青い布を通して淡く室内に広がっていた。

青や緑の液体を満たした瓶が光を受け、棚の上に小さな灯を落としている。

薬草の匂い。森から入る若葉の香り。昼食に作ったスープの、温かな残り香。


それらが静かに混じり合っていた。


フレアは椅子に腰を下ろし、大きく伸びをする。


「ふぁ……」


朝から家事と買い物を済ませ、森の道を歩いてきた。


食事を作り、部屋を片づけたことで、フレアにも遅れて眠気が訪れていた。

キサラの寝息を聞いていると、瞼が自然に重くなる。


「アタシも、少しだけ寝ようかな」


毛布の端をもう一度直してから、隣のソファに体を沈める。


外では、小鳥が一声鳴いた。

遠くからは、アルテナに向かう荷車の車輪が、街道を軋ませる音がかすかに届いている。


ほどなくして、部屋には二人分の寝息が重なり始めた。


窓辺の青い布が、森の風を受けてゆっくりと揺れる。

そのたびに室内の青い光も形を変え、眠る二人の上を柔らかく行き来した。


穏やかな昼下がり。


アルテナの町外れにある、散らかった魔女の家。

二人の静かな時間が、青い灯の下でゆっくりと流れていった。

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