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第4話 ミストダンジョン②

街道脇に口を開けた縦長の霧は、まるで心臓のように脈打っていた。


吸い込まれる風が渦を作り、霧の脈動に合わせて明滅する。

足元の枯れ葉が細かな円を描きながら入口に吸い寄せられ、その縁に触れた瞬間、音もなく姿を消していった。


入口の周囲では、数人の街道警備兵が槍を構えている。

彼らの顔には濃い疲労の色が滲み、首から下げた霧除けの護符もすでに黒ずみ始めていた。


フレアとキサラが近づくと、警備兵の一人が標縄を持ち上げる。


「詰め所から連絡は受けている。気を付けてくれ」


フレアは脈打つ霧の入口に目を凝らした。


内部に続く赤い魔力の流れが、幾筋も絡み合っている。

そのすべてを追うことはできないが、地面に近い位置を這う一本だけが、ほかよりも大きく揺らいでいた。


ヴェノムの魔力である可能性が高い。


「もう一度確認するわ。制限時間は十分。それを超えると私たちが危険になる。帰還方法は大丈夫?」


キサラが護符の刻印を指の腹でなぞった。

淡い青光が瞬き、ひと呼吸遅れて落ち着いた。


「来た道を戻って、内側の入口から脱出する。もし空間が変化して入口に戻れなくなったら、内部の主を倒す」


キサラは小さく頷いた。


「まずは救助して、すぐ戻ることを最優先に!」


フレアは霧が渦を巻く入口を見据えた。


これまで攻略したミストダンジョンでも、内部の形は一つとして同じではなかった。


入口の直後に広大な雪原が続いたこともある。

地上から入ったはずが、古い城の地下に出たこともあった。


入る前に立てた予想が、そのまま通用するとは限らない。


フレアは、腰に下げた二振りの剣を確認した。

鞘の留め具を外し、いつでも抜ける状態にする。


「よし、行こっか」


キサラも魔女帽子を深く被り直し、杖を握った。


「……キサラ」

「なに?」

「ついてきてくれて、ありがとね」


不意の言葉に、キサラの金色の瞳がかすかに揺れた。


「な、何よ、急に……ほ、ほら、さっさと行くわよ」


キサラは帽子のつばを下げ、赤くなった耳を隠した。


二人は並んで、脈打つ霧の縁を越えた。


世界がふっと沈むように、音が遠のいた。


足元の感覚が一瞬だけ消え、身体が深い水の中に沈んでいくような浮遊感が襲う。

視界が闇に閉ざされ、前も後ろも、足元さえも分からない中で、自分の呼吸だけがやけに近く聞こえた。


「キサラ、はぐれないように!」

「大丈夫。ここにいるわ」


背後のキサラが、フレアのジャケットの裾を掴んだ。

フレアは片手を前に伸ばし、一歩ずつ慎重に歩いた。


湿った空気が肌にまとわりつき、墨を落とした水が広がるように、黒い粒が周囲に解けていく。


やがて、視界が開けた。


森だった。


だが、アルテナ近郊に広がるどの森とも似ていない。


草葉は青とも紫ともつかない色を帯び、黒い茎が節くれ立っている。

木々は何かから逃げようとして、その途中で固まったように幹を曲げていた。

枝葉が空を覆い隠しているにもかかわらず、どこからともなく薄い光が差し込んでいる。


腰の高さを漂う紫色の霧から、錆びた鉄に似た嫌な臭いが立ち上っていた。


キサラはフレアのジャケットから手を離し、杖を構えた。


「何度見ても、嫌な場所ね」

「キサラは前にも入ったことあるの?」

「一度だけ。研究素材を持ち帰った冒険者に同行して、入口の近くまでね。ここまで奥に入るのは初めてよ」


フレアは赤い瞳で周囲を見回した。


薄紫の霧の中に、網目のような赤い流れが浮かんでいる。

森を満たす霧の魔力。その奥に、濁った太い流れが一本だけ混じっていた。


フレアは木々の間に続く赤い流れを指した。


「ヴェノムの魔力が残ってる。まだ遠くには行ってない」

「取り込まれた兵士も一緒なら、その痕跡を追えば見つかるかもしれないわね」

「うん。行こう」


二人は音を立てないように森の奥へ進んだ。


フレアは太い根を避け、枝を持ち上げながら道を作る。


キサラは時折振り返り、通った場所に小さな魔力の灯を残していった。

青白い光は低い枝や石の表面に貼り付き、薄霧の中で静かに瞬いている。


入口に戻るための目印だった。


獣の爪が幹を擦った古傷、泥の浅い窪み、木の根元に点々と乾いた赤黒い染み。

進むにつれ、痕跡は新しくなっていく。


やがて、根の張り出した一本の巨木の影に、人影が見えた。

鎧の肩は大きく抉れ、片足が不自然な方向に曲がっている。

男は背中を幹に預け、血の気の失せた顔を俯けていた。


「聞こえる?」


フレアが小声で呼びかける。


男の肩がかすかに動く。

ゆっくりと顔を上げ、フレアたちの姿を認めた瞬間、その目が大きく見開かれた。


「来るな……!」


掠れた声が、森の静寂を震わせた。


「俺はいい。早く逃げろ……!」

「助けに来たよ。動かないで」


フレアが歩み寄ろうとすると、男は痛みに顔を歪めながら首を振った。


「違う……俺は、餌なんだ」

「……餌?」

「ヤツは俺を殺さず、ここに置いた。追って入ってきた者の命を……まとめて喰うために……!」


巨木の上で、枝が折れた。


フレアが顔を上げる。

赤い線が、一気に膨れ上がった。


「キサラ、下がって!」


巨大な影が落ちると同時に、重い風圧が頭上から叩きつけられる。

紫色の霧が四方に吹き飛んだ。


三メートルを超える巨体。


太い腕の先から、長く湾曲した爪が伸びている。

黒い皮膚の下では赤い魔力が血管のように脈打ち、肩や胸を霧の層が分厚く覆っていた。


鬼のように歪んだ頭部が持ち上がる。


赤く濁った眼光が、フレアを捉えた。


次の瞬間、爪が振り下ろされる。

フレアは身体を低く沈め、横に跳んだ。

爪が地面を抉り、湿った土と枯れ葉が高く舞い上がる。


「っとと!」


着地と同時に二振りの剣を抜き、男とヴェノムの間に滑り込む。

鬼型ヴェノムは巨体を起こし、地面を震わせながら咆哮した。


「……お、俺のことはいい! は、早く、君たちだけでも……!」


フレアは鬼型ヴェノムから視線を外さず、静かに剣を構えた。


「なかなかヤバいのが出てきたね」

「それで済ませる大きさじゃないでしょ……!」


キサラも負傷した兵士の前に立ち、杖を構えた。


「まずは、あの人から引き離す。キサラは治療できそうか確認して!」

「アンタ一人で抑えるつもり?」

「引きつけて時間を稼ぐ。魔装はまだ使わないで」

「分かった。無茶はしないでよ!」

「任せて!」


フレアは斜面側に走り、わざと剣同士を打ち合わせた。

甲高い音に反応し、鬼型ヴェノムの顔が動く。


「こっちだよ、デカブツ!」


赤い眼光が、負傷者からフレアに移った。


鬼型ヴェノムが地面を蹴る。

巨体からは想像できない速度で間合いを詰め、腕を横薙ぎに振るった。


フレアは正面から受けなかった。


右足を半歩引き、身体の軸を外す。

右手の剣を爪の付け根に斜めに当て、左手の剣を肘の内側に滑らせた。


衝撃を止めるのではない。


ヴェノムが振り抜こうとする力の向きをほんの少しずらし、身体を支える軸から外に逃がす。


幼い頃から、育ての父・ガラムに叩き込まれた受け流しだった。

力で受けず、角度で殺す。


爪がフレアの脇を通り過ぎた。


「よしっ!」


フレアは振り抜かれた腕の死角に滑り込み、脇腹に左手の剣を叩き込んだ。


鈍い手応えが返る。

刃は霧の層に食い込んだものの、その奥にある身体までは届かなかった。


「昨日のやつより、分厚い!」


鬼型ヴェノムが反対側の腕を振り上げる。

フレアは剣を引き抜くより早く手首を返し、身体を外側に逃がした。


爪の先が革のジャケットを掠め、端を切り飛ばす。


「くっ……コイツ、巨体の割に素早い……!」


フレアは地面を蹴って距離を取りつつ、キサラと兵士の間に立つ。

キサラは兵士の状態を確かめ、折れた足に簡単な添え木を当てていた。


「キサラ!」

「大丈夫。傷もすぐに命に関わる状態じゃない。でも、一人では歩けないわ!」

「じゃあ、アイツを倒すしかないね!」

「時間がないわよ!」


キサラが首元の護符を見る。

淡い青色だった刻印に、すでに黒い染みが浮かび始めていた。


「魔装の準備、できる?」

「時間を稼いでくれるならね……!」


キサラは兵士を巨木の陰に下がらせ、杖を両手で構えた。

祈るように目を閉じ、魔装の術式を組み上げ始める。


魔力が杖先に集まり、足元の霧を細く押し退けた。


鬼型ヴェノムが両脚を沈めた。

胸から肩に向けて、赤い魔力が一気に流れ込む。


「来る!」


巨体が跳んだ。


上から叩き潰すように振り下ろされた爪に、フレアは二振りの剣を交差させる。


刃が触れる直前、腕の角度を変えた。

力を真正面から受けず、斜め下に滑らせる。


爪が地面を抉った。しかし、完全には流しきれない。

衝撃が両腕に伝わり、足元の土が深く沈んだ。


「くっ……!」


その時、キサラの杖先に集まっていた魔力が、赤い光に変わった。


「フレア、合わせて!」


キサラの声が飛ぶ。


「魔装・紅炎(エンチャント・フランベルジュ)!」


圧縮された魔力が二筋の光となり、フレアの双剣に吸い込まれる。

刃の中心に火が灯った。

次の瞬間、二振りの剣を包むように紅蓮の炎が広がる。


フレアは地面を蹴った。


斜めに踏み込み、鬼型ヴェノムの核の位置目掛けて、二振りの剣を交差させて叩き込む。

炎をまとった刃が、分厚い霧幕を切り裂いた。


黒い霧が爆ぜる。


しかし、刃は霊核まで届かなかった。

鬼型ヴェノムが、胸の前に太い腕を差し込んでいた。


核を狙った双剣は、その腕を肩口から斬り飛ばす。

黒い霧を纏った腕が宙を舞い、湿った地面に落ちる前に輪郭を崩した。


「くっ……防がれた!」


魔装の炎が急速に弱まり、火の粉となって消えていく。


鬼型ヴェノムの切断面に、周囲の霧が音を立てて吸い寄せられた。

失われた腕の付け根から、霧が肉の繊維のように伸び始める。


「再生……!?」


キサラの護符が、さらに黒く染まった。


彼女は腰のベルトから小さな試験管を抜き、栓を親指で弾き飛ばす。

中のマナポーションを一気に飲み干した。


「もう一度、魔装を組むわ!」

「いけるの?」

「やるしかないでしょ! 時間を稼いで!」


キサラは荒くなった呼吸を整え、再び杖を構えた。


鬼型ヴェノムが咆哮する。


切断された腕を再生しきる前に、残った腕で地面を掻き、フレアめがけて突進した。

長い爪が横薙ぎに迫る。


フレアは再び攻撃を流そうと剣を合わせた。


だが、先ほどまでとは速度も重さも違う。

怒りによって赤い魔力が膨れ上がり、霧幕もさらに厚さを増している。


刃に伝わった衝撃が、腕から肩、背中へ突き抜けた。


「つっ……!」


完全には流せない。


フレアの足が地面から離れた。

身体が宙に浮く。


「しまっ……!」


鬼型ヴェノムの肩が回る。

横薙ぎにした腕を引き戻し、その勢いのまま拳を突き出した。


空中では踏ん張れない。

フレアは身体を捻り、二振りの剣を重ねて拳を受けた。


しかし、衝撃を殺しきれず、身体が後方に吹き飛んだ。


曲がった木の幹に背中から叩きつけられる。

肺の中の空気が、一気に押し出された。


「かはっ……!」


双剣が手から離れ、湿った地面に転がった。


「フレア!」


キサラの叫びが森を走る。フレアの視界が赤く滲んだ。


鬼型ヴェノムは、倒れたフレアに身体を向けた。

その後ろでは、キサラが魔装の再構築を続けている。

さらに離れた巨木の下には、動けない兵士がいる。


(――駄目だ。このままじゃ、全員……!)




――ドクン――




胸の奥で、何かが強く脈打った。

鼓動が、耳の奥に響く。




――ドクン――




(——まただ……また、あの感覚が……!)


目の前の景色から色が失われ、代わりに霧の中を走る魔力だけが鮮明な赤となって浮かび上がる。


鬼型ヴェノムは今まさにフレアに止めを刺そうと、長い爪を振り下ろす。

視界の端でキサラが何かを叫んでいる。


 


『——霧の先兵を滅ぼせ——』


 


次の瞬間、フレアの赤い瞳が、燃えるような光を帯びる。


世界の動きが、急激に引き延ばされる。

振り下ろされる爪が遅い。

宙を漂う霧の粒さえ、一つずつ数えられるほど遅い。


「遅い……」


フレアの呟きが、自分の声ではないように聞こえた。

爪が落ちるより先に、身体は動いていた。


踏み込んだ足元で土が爆ぜる。


フレアは地面に転がっていた二振りの剣を掴み、一歩で攻撃の範囲を抜け、鬼型ヴェノムの側面に回り込む。


巨大な爪が、誰もいない地面を叩いた。

遅れて土と枯れ葉が高く舞い上がる。


フレアの燃えるように赤く光る瞳には、胸の奥にある霊核と、その周囲を覆う霧の流れが、道筋のように見えていた。


「フレア、大丈夫!?」


キサラの声が遠くから響く。

再構築された魔装の術式が、杖先で紅く輝いていた。


「もう一度いくわよ! ……フレア!?」


フレアは答えなかった。

赤い瞳は、鬼型ヴェノムだけを捉えている。




『——霧の先兵を滅ぼせ——』




キサラは一瞬だけ迷い、それでも杖を振り抜いた。


「……時間がない! いくわよ、魔装・紅炎!」


紅い光が空間を走り、フレアの双剣に吸い込まれる。


火が刃に落ちた瞬間、足場が爆ぜるほどの加速でフレアは跳んだ。


鬼型ヴェノムが残った腕を胸の前に差し出す。

だが、今度は盾にならなかった。


炎に包まれた双剣が交差する。


その軌跡は、鬼型ヴェノムの腕ごと胸の霧幕を破り、奥で脈打っていた霊核まで届いた。


赤黒い核に亀裂が走る。

一瞬遅れて、内部の光が弾けた。鬼型ヴェノムの巨体が大きく仰け反る。


森を震わせる咆哮が上がり、全身から黒い霧が噴き出した。








『——滅ぼせッ!!——』








「ああああああああああッ!!」


霧散し始めた巨体に、フレアはなお剣を振るっていた。

消えるはずの影を斬り続ける。霧が切り裂かれ、地面が浅く刻まれていく。

キサラは膝をつきかけながら、必死に声を投げた。


「フレア! もう終わったの!」


その声が、フレアを覆っていた赤の膜を破った。


彼女の目から鋭い光がふっと抜け、肩から力が落ちる。

前のめりに倒れかけた身体を、キサラが慌てて支えた。


「大丈夫!? 私が分かる?」

「う……ん。た、倒せ……た?」

「えぇ……。アンタ、覚えてないの……?」

「えっと……敵の攻撃を必死に捌いてたのは覚えてるんだけど……それからちょっと、記憶が……」


キサラは何かを言いかけたが、首元の護符に目を落とした。

刻印の大半が黒く染まり、残った青い光も弱々しく瞬いている。


「時間がないわ。今は脱出が先よ」

「うん……」


二人は巨木の下に戻った。

負傷した兵士は、怯えた目でフレアを見上げていた。


「き、君たち……無事だったのか」

「うん。何とかね」


フレアは笑おうとしたが、身体に力が入らず、口元がかすかに歪んだ。


「さっきの化け物は……?」

「倒したわ」


キサラは短く答え、男の添え木と包帯を確認した。


「ここから出る。立てる?」

「片足なら、何とか……」


フレアが男の前にしゃがみ込む。

キサラは男の反対側に回り、その腕を肩に担いだ。


三人で立ち上がろうとした、その時だった。


周囲の景色が大きく歪んだ。

まっすぐ立っていた木々が、水面越しに見るように揺らぐ。


青とも紫ともつかなかった葉から色が抜け、地面を漂っていた霧が逆向きに流れ始めた。


「さっきのが……このダンジョンの主だったのかな」


フレアが周囲を見回す。


遠くの木立から、景色の輪郭が失われていく。

幹が薄くなり、葉が霧に溶ける。

地面に刻まれていた傷も、血の跡も、初めから存在しなかったように消えていった。


やがて空間そのものが力を失い、森の姿は白い霧に溶けていった。


一瞬だけ、何もない白い空間が広がっていく。

次の瞬間、足元に硬い地面の感触が戻った。


フレアが目を開ける。


三人はミストダンジョンの入口があった街道脇に立っていた。

背後では、縦長の霧が音もなく縮んでいく。


入口の縁は白い糸となり、朝風に解かれるように散っていった。


やがて、そこには何も残らなくなった。


周囲にいた警備兵たちが、一斉に駆け寄ってくる。


「戻ったぞ!」

「救護班を呼べ!」

「担架を!」


負傷した兵士が、駆けつけた仲間たちに引き渡される。


その姿を見届けた瞬間、フレアの肩から力が抜けた。

キサラも杖を地面に突き、ようやく息を吐いた。


* * *


仮設の詰め所に戻ると、すでにアルテナからの増援が到着していた。


暁の翼をはじめとする各ギルドの冒険者たちが警戒線を引き直し、外に溢れていたヴェノムの残党を掃討している。

街道の脇には複数の馬車が並び、動けない負傷者が順番に町に運ばれていた。


その中心で、大きな声が響く。


「東側の見回りは二人一組だ! 霧の濃い場所には一人で近づくんじゃねぇぞ!」


聞き覚えのある声だった。

フレアが顔を上げる。


巨大なバトルアックスを背負ったアーダンが、集められた冒険者と警備兵に指示を出していた。


少し離れた場所では、マーティンが複数の術士とともに、霧の流れを調べている。


杖先から淡い緑色の光が地面に広がり、街道脇の草や木々を細く揺らしていた。

光に触れた草の葉が同じ方角に傾き、残された霧の流れを示している。


やがて、マーティンが顔を上げた。


フレアたちの姿を見つけ、静かな表情に安堵を滲ませる。


「戻ったか」


その声にアーダンも振り返った。


「おお! フレア、キサラ! よく無事だったな!」


フレアを見つけたアーダンが、ドスドスと地面を揺らすような足音で駆けてくる。


「負傷者はどうした?」

「今、救護班に引き渡したよ。鬼みたいな大きいヴェノムがいたけど、何とか倒した」

「鬼型だと?」


アーダンの表情が険しくなる。

マーティンも二人の前に歩み寄り、黒く変色した護符に目を落とした。


「随分と濃い霧にさらされたようだな。二人とも、身体に異常は?」

「私は大丈夫。でも、フレアが……」

「何があった」


フレアは軽く息を吐き、力なく笑った。


「帰ったら詳しく、ね」


疲労の色が濃いフレアを見て、マーティンは軽く頷いた。


「分かった。今は休め。よく状況を伝えてくれた。ご苦労だった。後はワシと、この単細胞に任せるがいい」

「おう!後始末は任せとけ!お前らは戻って休め! 大手柄だったな! ガハハハ!」


アーダンは背中のバトルアックスを親指で示した。


マーティンはフレアの肩に手を添えた。

掌から淡い緑色の光が広がる。

温かな魔力が身体を巡り、強張っていた筋肉を少しだけ和らげた。


「これは応急処置だ。帰ったら必ず休め」

「あ、ありがと」


フレアは軽く笑うと、キサラとともに仮設の詰め所を後にした。


* * *


昼を少し過ぎたころには、周囲を漂っていた霧も薄れ始めていた。

空の色が澄み、街道を抜ける風が軽くなる。


帰還用の馬車には重傷者が優先して乗せられたため、フレアとキサラは歩いてアルテナに戻ることになった。


砂利を踏む靴音が、一定の間隔で続いている。


「ふぅ……今回はドキドキだったね」

「はぁ……アンタに巻き込まれたおかげで、こっちは散々だったわよ」


キサラは肩を落として、呆れたように深くため息をついた。


「えー、でもアタシとキサラのコンビは最強だと思わない?」

「……勘弁してよ。アンタといると命がいくつあっても足りないわよ」


フレアは両腕を頭の後ろで組み、空を仰いだ。


「にひひ。今日こそ、帰ったら甘いもの食べようよ」

「アンタのおごりならね」

「一緒に来てくれるならいいよ~?」


二人の声が、街道に明るく響く。


しばらく歩いてから、フレアは足を止めずに背後を振り返った。


ミストダンジョンの入口があった場所には、もう何も見えない。

木々が風に揺れ、その下に明るい日差しが落ちている。


(――あの時、誰かの声が聞こえた気がする……。なんだったんだろ)


胸の奥で、鼓動が一度だけ強く鳴った。


フレアは隣を歩くキサラに視線を向ける。

金色の瞳は前だけを見ていたが、横顔には隠しきれない疲労が浮かんでいる。


それでも、フレアと歩く速度を合わせてくれていた。


「ふふ……ありがとね! キサラ」

「はいはい、どういたしまして。今日はたくさんおごってもらうからね」


フレアの表情が明るくなる。


二人の笑い声が、薄くなった霧の空へ溶けていった。

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