第13話 冷たい祈り
崩れた礼拝堂の周囲には、黒い霧が立ち込めていた。
夜の闇をより深く滲ませ、息をするたびに喉の奥をざらつかせる。
鉄を舐めたような生臭さが鼻をついた。
フレアは眼前の異形から目を逸らさず、双剣を構えたまま立っていた。
目の前にいるものは、もはやかつての司祭ではなかった。
黒い霧が全身を包み、輪郭はヴェノムのようにおぼろげに歪んでいた。
二つの目だけが赤く光る。息を吐くたび、その赤が瞬き、身体のところどころが脈打つように明滅した。
礼拝堂の影の中で、異形の翼がじわりと広がる。布の裂け端。司祭服だったものが、翼の付け根に絡みつき、風に揺れていた。
「ドケ……ソノ者ヲ……スクワネ、バ……スクウ……ノダ」
声は言葉になりきれず、途中で割れ、濁っていた。
けれど、音の芯には確かにカーゼルが残っている。
それが何より、フレアの胸を沈ませた。
異形は指を伸ばし、ゆっくりと示した。
倒れているルルナの方角だった。
外套に包まれた小さな身体が、土の上に横たわっている。
血は止まりかけているのに、色だけが暗く残り、肌は冷えたままだった。
フレアは無言で双剣を握り直した。
握りの革が汗で滑る。指先が痺れるほど強く、柄を締めた。
(……近づかせない)
その一念だけが、胸の中で燃えていた。
「愚カ者メ……!」
カーゼルだったものが、両腕を前へ突き出した。指先が尖り、爪のように変形していく。
突き出した腕の真下へ霧の魔力が集まり、渦を巻き始めた。
地面に円が描かれ、紫がかった光が、その内側で揺れる。
円の中央から、首のない人型がせり上がってきた。
「な……!?」
フレアの喉から、息が漏れた。
現れた首のない人型は、黒い結晶でできたような剣を片手に持ち、身体は影を固めたように痩せている。
顔の代わりにあるのは、首の断面だけだった。そこから霧が細く噴き出し、風に散っていく。
「ワタシノ……ジャマ、ハ……サセヌ」
首無し剣士が地面を蹴った。
足音は軽いのに、迫る圧だけが重い。
フレアはルルナへ背を向けないまま、半歩だけ距離を取った。
離れすぎれば、ルルナを守れない。
近すぎれば、戦いに巻き込んでしまう。
(ここで受ける。ここで止める)
首無し剣士が鋭い突きを放った。
フレアは攻撃の軌道を読み、双剣を交差させる。
刃で受け止めるのではなく、剣の腹を斜めに当てて滑らせた。
ギャリギャリと削れるような衝撃が両腕へ伝わる。
フレアは力の流れを殺さず、そのまま横へ逃がした。
敵の動きへ合わせて身体を半歩だけ回し、空いた腹部へ蹴りを叩き込む。
固く詰めた布袋を蹴ったような、鈍い感触が返ってきた。
痛みを訴える様子はない。それでも首無し剣士の体勢が崩れる。
フレアはその隙を逃さず、胸部へ剣を叩きつけた。
刃が触れた途端、霧幕が波紋のように揺らいだ。
鈍い手応えとともに、フレアの剣が弾き返される。
首無し剣士は倒れず、剣を構え直そうとした。
フレアはもう一度蹴りを叩き込み、強引に距離を作った。
背後で、赤い光が走った。
首無し剣士のさらに奥から、魔力で形作られた槍が飛来する。
紫とも赤ともつかない光を帯び、フレアの胸を一直線に貫こうと迫る。
カーゼルが放ったものだった。
フレアは上体を反らし、双剣を交差させて軌道を逸らした。
魔力槍が右肩をかすめる。
焼きつくような痛みが、遅れて走った。
皮膚が熱に裂け、骨の近くまで痺れが沈む。
「つぅ……これは少しまずいかも……!」
魔力槍は地面へ落ちることなく、直線のまま進み、空中で霧散した。
残されたのは、焦げた匂いと肌を刺す瘴気だけだった。
幸いにも、首無し剣士もカーゼルも、ルルナを直接狙う様子はない。
邪魔するフレアを先に排除しようとしているだけなのか。
それとも、カーゼルだった頃の心が、まだどこかに残っているのか。
フレアには読み取れなかった。
呼吸を整え、意識を研ぎ澄ませる。
霧の中を走る魔力が、赤い流れとなって視界へ浮かび上がった。
だが、首無し剣士の胸には何もない。
ヴェノムなら必ず見えるはずの霊核が、どこにも存在しなかった。
(違う。コイツはヴェノムじゃない……!)
代わりに、首無し剣士の胴から一本の赤い線が伸びていた。
線は背後のカーゼルへつながり、さらにその先、礼拝堂の地下へと延びている。
細い線でありながら、脈打つたびに周囲の霧を押しのけ、暗い光を走らせていた。
(この首無しは、カーゼルが魔力で生み出した人形……。でも、霧幕はヴェノムみたいに硬くて分厚い……)
首無し剣士が再び飛びかかってきた。
フレアは振り下ろされた剣を受け流し、勢いを殺さないまま身体を半回転させる。
側面へ斬撃を叩き込む。
霧幕が刃を弾き、ボンッと鈍い音が耳の奥へ残った。
(剣の技術は大したことない。動きも単純。問題は霧幕の硬さと……)
フレアが追撃へ踏み込む。
そこへ二本の魔力槍が同時に襲いかかった。
フレアは追撃を捨て、踵に力を込める。
後方へ飛び退くと、二本の槍が直前まで立っていた場所へ突き刺さった。
土を巻き上げ、すぐに霧散する。
残された焦げ跡が、じゅっと音を立てた。
(近距離と遠距離の連携が厄介……。早くしないと、ルルナが……)
視界の端で、ルルナを包む外套の裾が風に揺れた。
それだけで胸が痛む。
カーゼルが両手を掲げる。
足元へ再び紫色の渦が巻いた。
周囲の霧が吸い込まれ、地面を這う冷気が強まっていく。
「逃ゲ場、ハ……ナイゾ……!」
渦の中から、二体目の首無し剣士が姿を現した。
二体はフレアを挟み込むように左右へ分かれ、同時に飛びかかってくる。
左右から迫る刃。正面には硬い霧幕。
背後には、動かないルルナ。
フレアは、自分の攻撃だけで首無し剣士へ決定打を与えるのは難しいと判断した。
双剣の構えを変える。
左右から迫る剣の動きを見据えた。
一見、同時に見える。
だが、右の首無し剣士の踏み込みが、ほんの一呼吸だけ早い。
フレアは右から迫る刃へ、剣の腹を斜めに合わせた。
衝撃を受け止めず、呼吸とともに横へ流す。
ガラム仕込みの『軸断ち』。
手首を返し、身体の回転を重ねることで、敵の勢いをそのまま左の首無し剣士へ向けた。
受け流された剣が軌道を変え、もう一体の霧幕へ叩きつけられる。
硬い膜が一瞬だけ大きく揺らぎ、そのまま剣が胴へ深く刺さった。
二体の首無し剣士は絡み合うように崩れ、足元をもつれさせる。
体勢を立て直せず、互いの身体が邪魔になっていた。
(今だ!)
フレアは地面を蹴り、一気にカーゼルとの距離を詰める。
だが、カーゼルの周囲へ魔力の球がいくつも浮かび上がった。
赤い脈動へ合わせるように球が膨らみ、離れていても肌を焼くほどの熱を放つ。
それらが一斉に放たれた。
「くっ!」
フレアは走る軌道を変え、横へ身体を投げ出すように回避した。
魔力弾が地面へ着弾する。
赤い閃光とともに爆ぜ、空気を引き裂き、土を抉った。
巻き上げられた砂礫が身体へ降り注ぐ。
遅れて響いた爆音が、耳の奥を殴りつけた。
先刻対峙した巨鳥の魔力弾とは、比較にならない威力だった。
フレアが攻めあぐねている間に、二体の首無し剣士が立ち上がる。
何事もなかったかのように剣を構え直した。
胴へ刺さっていた刃は、霧幕が膨らむ動きに押し出され、地面へ落ちた。
裂けていたはずの身体も、すでに輪郭を取り戻し始めている。
(魔力の流れを断てれば……!)
赤い線は、礼拝堂の地下からカーゼルへ流れ、そこから首無し剣士へ届いている。
魔力の大元は、おそらく地下の古代遺物。
あの黒い金属の塊だ。
そこから流れる力を断てれば、勝機はある。
しかし、地下へ向かえばルルナの傍を離れる。
ここで目を離せば、ルルナは。
二体の首無し剣士が、じりじりと距離を詰めてくる。
カーゼルは赤く脈打つ翼を広げ、上空へ舞い上がった。
見上げなければ捉えられない頭上から、遠距離攻撃を狙うカーゼル。
地上では、痛みも恐れも持たない剣士が二体。
視線を上へ向ければ、地上から斬られる。
剣士へ集中すれば、魔力弾が降ってくる。
「このままだと、まずい……」
喉の奥がひりついた。
右肩の熱が、脈を打つたびに疼く。
「キエロ……!」
カーゼルが上空から魔力を放とうとした、その刹那だった。
夜の闇を切り裂き、一筋の青白い雷撃がカーゼルへ突き刺さった。
まばゆい閃光とともに、破裂音が轟く。
空が白く染まり、地上の影が一斉に裏返った。
直撃を受けたカーゼルの身体が痙攣する。
翼が歪み、そのまま地上へ落下した。
同時に、二体の首無し剣士の動きが止まる。
赤い線が揺らぎ、脈動が大きく乱れた。
「フレア! 大丈夫!?」
霧の向こうから、キサラが駆けてきた。
杖を握り、肩で息をしている。
それでも金色の瞳は鋭く、戦場の中心を見据えていた。
「キサラ!」
「いったい、あの化け物はなんなの!?」
「話はあと! ルルナが刺されたの!」
「……!?」
キサラは周囲を見回し、倒れているルルナを見つけた。
足が止まる。
言葉を失ったように目を見開き、それでも次の瞬間には駆け出していた。
「ルルナ!」
キサラはルルナの傍へ膝をつき、腰からポーションを抜いた。
栓を外し、胸元の傷へ静かに注いでいく。
液体が残った血と混じり、ぬめりを帯びて肌を伝った。
傷口を覆うように薬液が広がる。
しかし、ルルナは反応しない。
「ルルナ! しっかりして!」
キサラは頬へ触れた。
続いて手を取り、冷えた指先を包み込む。
大きく息を呑む音がした。
「……フ、フレア……」
その声だけで、伝えようとしていることが分かった。
それでも認めたくなかった。
フレアはルルナの傍へ膝をつき、頬へ触れた。
冷たい。
触れた指先から、自分の温度が奪われていく。
胸の動きはない。鼻元へ手を近づけても、呼吸は感じられなかった。
震える手を左胸へ当てる。
何も伝わってこない。
鼓動は止まっていた。
「……ルル……ナ……」
叫びは喉の奥で詰まり、声にならなかった。
涙が出るより先に、背後の空気が震えた。
霧と舞い上がる砂塵の中で、カーゼルが立ち上がる。
焦げた身体の表面から黒い靄が剥がれ落ち、赤い目が再びフレアたちを捉えた。
「ジャマ、ヲ、スルナ……!」
両手へ魔力が集まる。
足元に渦が生まれ、周囲の霧が吸い込まれていった。
その中心から、三体目の首無し剣士が姿を現す。
剣を引きずるように立ち上がり、首の断面から黒い霧を吐き出した。
悲しむ時間など、どこにもなかった。
フレアは立ち上がり、双剣を構えた。
右肩の痛みが、今は遠い。
胸の中にあるのは、冷たい怒りと、燃えるような焦燥だけだった。
「キサラ……お願い。力を貸して……」
「当然よ!」
キサラが立ち上がり、杖の先端へ魔力を集める。
霧が震え、赤い線が再び脈を打つ。
首無し剣士たちが一斉に動き出す気配が、土を伝って迫ってきた。
静けさが砕け、二度目の戦端が開かれた。




