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第12話 救いを名乗る者

宿の前に、霧がゆっくりと渦を巻いて立ち上がった。


灯りは滲み、輪郭だけが先に生まれる。人の形が一体。

左右に獣の形、鳥の形が一体ずつ。


ヴェノムは三体だった。


対する側には冒険者が多かった。

宿に滞在していた者たちが、呼吸を合わせるでもなく、それでも自然に列を作っていた。

並び立つ冒険者たちがそれぞれ、盾、槍、剣、術杖を構える。数の利はある。


人型のヴェノムが、片腕を掲げた。

周囲の霧が吸い寄せられ、腕が異様に肥大していく。

肉のように膨れ、骨のように固まり、先端の爪が鋭く伸びた。

霧が“武器”に変わる瞬間の冷たさが、背筋を走る。


「来るよ!」


人型が地面を蹴った。

踏み込みは鋭く、土が抉れ、後方へ吹き飛ぶ。


(速いッ! 真正面で受ければ、持っていかれる!)


フレアが双剣を構えたその時、すぐ横を別パーティの大柄な男が駆け抜けた。

男は大盾を突き出し、ヴェノムの爪を正面から受け止めた。


ガギィン、と鈍い衝撃音とともに空気が震える。

盾の縁がきしみ、男の靴が土に沈む。それでも足は折れず、盾は押し返していた。


「すごい……!」


フレアの胸に、一瞬だけ羨望が刺さった。


(あの一撃を、真正面から……ちょっと、うらやましい)


けれどすぐに視線を切り替え、速さの利く角度へ身体を滑らせた。

盾が食い止めている間に、敵の背後へ回る。

キサラもフレアに合わせ、魔装をかけやすい距離と射線へすっと位置をずらした。


左右では、獣型と鳥型に別パーティが当たり、すでに火花が散っていた。


後方では術士たちが詠唱を始めている。

霧の中に淡い光が点り、息を潜めた集中が膨らんでいった。


その中で先に声を上げたのはキサラだった。


「フレア! いくわよ! 合わせて! 魔装・雷光(エンチャント・ライトニング)!!」


キサラの声が鋭く走った。


その言葉に、フレアは迷いなく踏み込む。

次の瞬間、双剣に青白い光が絡みつく。


「はああああああ!!」


フレアは左右に持った剣を交差させ、狙いを核の位置へ絞った。

十字に刃が走る。霧の防御膜が裂け、胸元の奥に赤い核が露わになる。


「グオオオオオッ!!」


怒号とともに振り返り、反撃の爪を振り上げる――が。


「させるか!!」


その鋭い爪を再び、盾の男が押さえ込んだ。

盾の縁が地面を削り、男の腕が震える。


ヴェノムの動きがわずかに止まった。


「ナイスだ! 赤い髪のねぇちゃん! 合わせてくれ!」


その声と同時に、反対側から槍を構えた長身の男が回り込んだ。


鋭く狙いを定め、露出した核へ直線に突きを放つ。

槍が突き刺さるのと、フレアの体を回転させながらの二撃目が重なった。


硬いものが砕ける感触が、手に返った。

核を失ったヴェノムは形を保てず、霧の塊に戻って崩れ、風にほどけるように霧散していった。


フレアは槍の男と視線を交わし、無言で頷き合う。


隣では獣型に当たっていたパーティが、術士の魔装を受けて前衛が一気に詰める。

見事な連携で確実に仕留めていた。


「あとは一体!」


フレアが上空を見上げる。


鳥型のヴェノムは速い。

空を切り裂くように旋回し、相手の間合いの外へ抜ける。


対応しているパーティは追い切れず、空振りが続いていた。


キサラが杖を構え、短く詠唱を切る。

魔法で形作られた雷の矢が放たれ、鳥型の胴に直撃した。

鳥型はよろめいたが、霧の防御膜が残っていて、決定打には届かない。


フレアが助太刀に入ろうとした、そのときだった。

宿の建物の左右、霧が再び濃くなり、人型が一体ずつ形を結び始める。


「次から次へと!」


その時、上空の鳥型が動きを変えた。

戦いの中心を離れ、村の家々のある方角へ飛び去っていく。


逃げるのではない。

狙いを変えた飛び方だった。


「フレア! あの方向は!」


「わかってる! あの方向にはアトラの家もある! 追いかけなきゃ!」


鳥型を相手にしていた冒険者が叫んだ。


「アイツを任せてもいいか!? 俺たちじゃ相性が悪い! 俺たちはこっちに現れたやつをやる!」


「任せて!」


フレアは一言だけ残し、霧の道を駆けた。


村のあちこちで冒険者たちが避難誘導に当たっている。

宿に人が多かったことが、今は救いになっていた。

泣き声や呼び声が交じっても、流れは崩れていない。


鳥型が急降下を始めた。

降りる先に逃げてくる人影が二つ見えた。


アトラと、その母だった。


「キサラ!」


「分かってるわ!」


杖から放たれた雷の矢が空を裂き、鳥型の進路を弾く。

翼が霧を散らし、ヴェノムは狙いを外して上昇した。


「アトラ!大丈夫!?」


「あ、あぁ、大丈夫……こいつらは……」


言いかけたそのとき、鳥型が離れた場所へ着地した。

そして周囲の霧を吸収し始める。


翼の輪郭がぼやけたまま膨らみ、胴が肥え、巨きな影になっていく。

赤く光る眼がこちらを睨み、翼を大きく広げた。空気が張り詰める。


「まずい! 伏せて!」


翼がひと振りされた。

黒い暴風が塊になって襲い、土と砂と石が弾丸のように飛んだ。


フレアはアトラと母へ覆いかぶさる。

キサラは前へ出て魔法の防御壁を展開した。


防御壁に沿って土が削られ、飛砂が肌をかすめる痛みが走った。

耳の奥がじんと鳴った。


巨鳥となった鳥型は再び上空へ舞い上がる。


このまま暴れられたら、村が持たない。

避難が終わる前に、火の手が広がる。


「まずは、何としてでもアイツの動きを止める!」


フレアは双剣の片方をロープに巻き、上昇する巨鳥へ投擲した。

刃が翼を貫き、ロープが剣の遠心力で胴へ巻き付く。


巨鳥が空中でバランスを崩した。


フレアはロープの端を両手で掴み、力を込めて全身で引いた。

霧の身体が一瞬だけ軋み、巨鳥が失速する。


巨鳥は上空から地上を狙い撃ちするように口内に魔力を溜める。


フレアは再びロープの端を思い切り引っ張ると、巨鳥はバランスを崩しながらも魔力を解き放った。

バリバリと空気の張り裂ける音が響き渡る。


直撃は避けた。

だが拡散した魔力の弾が村のあちこちに着弾し、遠くで何かが崩れる音がした。煙の匂いが増す。


「キサラ、翼の動きが止まってる! 撃ち抜いて!」


キサラは一瞬の集中の後、杖の先へ魔力を集め、目だけで照準を固定した。


「貫け!」


剣の投擲で薄くなった霧の防御膜――翼の根元へ、雷の矢が正確に突き刺さり、そして青白い閃光が爆ぜた。

根元から裂けるように片翼が消し飛び、巨鳥は落下を始めた。


フレアは手元に残ったもう一振りの剣を構え、落下地点へ駆けた。


地面が近づく。風が重くなる。


「いくわよ! 魔装・紅炎(エンチャント・フランベルジュ)!」


フレアの剣に赤い線が走り、炎が刃を包む。

熱が手へ伝わり、心臓の鼓動が一段速くなった。


「決めるッ!!」


落下してくる巨鳥の核へ、まっすぐ刺し貫いた。


炎が核を包み砕け散る。

巨鳥はゆっくりと形を崩し、霧へ戻って散っていった。


アトラが呆然と見つめていた。


「……す……すげぇ……」


「ふぅ……アトラ、ケガはない?」


「あ、あぁ……大丈夫……」


フレアはアトラの無事を確認し、アトラの母の手を取る。


「危ないところを、ありがとうございます……」


アトラの母は震える声で、深く頭を下げた。


辺りの霧が、少しずつ薄くなっていく。

キサラは連続で魔法を放ったせいか、息が上がっていた。


フレアはふと、巨鳥の吐いた魔力の拡散を思い出した。


見回すと、ところどころから煙が上がっている。

その中でも、礼拝堂の方角の煙が目についた。

黒く、細く、嫌な立ち方だった。


「アタシ、礼拝堂の様子も見てくる! キサラはアトラ達を広場の方に避難をお願いしていい!?」


「えぇ、わかったわ。無理はしないでね」


アトラが声を上げた。


「待ってくれ! 俺も行く!」


「アトラはお母さんと一緒に避難を――」


「今は兄貴がいないんだ! こういう時は兄貴の代わりに俺だって村の人たちを助けるために動かなきゃいけないんだ!」


真っ直ぐな目だった。

怖さを隠せていないのに、逃げる方へは向いていない。


周囲からヴェノムの気配は消えているが、まだ霧は薄く残存している。

フレアは一瞬だけ迷い、息を吐いた。


「……じゃあ逃げ遅れた人の避難誘導、手伝ってね」


フレアはキサラと目を合わせる。


「アトラのお母さんを広場までお願い」


「えぇ、わかったわ」


キサラはアトラの母を支えながら歩き出す。

フレアはアトラを連れて、逃げ遅れた人がいないかを確かめながら、礼拝堂の方へ駆けた。


道のところどころが抉れており、石が跳ね、踏み外せば足首を取られる。

焦げた匂いが強くなっていく。


* * *


礼拝堂は、近づくほどに壊れ方が異様だった。

屋根の欠け目から霧が吐き出され、前庭の土が内側へ抉れている。


「おーい! 誰かいる!? ルルナ、大丈夫!?」


声を張り上げ、崩れた扉の向こう、穴の開いた壁の奥まで視線を走らせる。

返事はない。霧だけがゆっくり流れ、煙が細く揺れていた。


そのとき、離れの建物の陰から、か細い声がした。


「フレアさん……ですか……?」


フレアは反射的に声の方へ駆けた。


建物の陰で姿勢を低くし、しゃがみ込んでいたのはルルナだった。

顔色は青く、肩が小さく震えている。


「ルルナ! 無事だったんだね!」


「は、はい……警鐘が鳴ったのを聞いてこちらまで逃れてきたのですが……いったい……」


「とりあえず現れた魔物は退治したよ。だから……とりあえずルルナも広場の方に避難を――」


「あ、待ってください! フレアさん、ケガをされているのでは……」


フレアは腕を見た。

鳥のヴェノムと戦ったときにできたらしい切り傷がいくつも走り、薄く血がにじんでいる。

今さら痛みが戻ってきたように、じわりと熱かった。


「あ、まぁ、これくらいなら……」


「少し、待ってくださいね」


ルルナは目を閉じ、両手をフレアの腕にそっと合わせた。

祈りの言葉が、霧の中で小さく震えた。

淡い光が指の隙間から漏れ、傷口へゆっくりと染み込んでいく。


切り傷が、少しずつ塞がっていった。

ルルナは最後に大きく息を吐いた。


「す……すごい。ルルナ、回復魔法が使えたの!?」


「は、はい……ほんの少しですが……」


フレアは腕を握り、伸ばし、痛みが消えていることを確かめた。

皮膚の熱だけが残り、傷はほとんど見えない。


「助かった。それじゃあ広場に――ん?」


ふと、礼拝堂の壁の穴が視界に入った。

床へ向かってひび割れが続き、その先の床の一部も穿たれている。

近づくと、穴の下に暗い空間が覗いた。


「これは……」


「この通路は……今は使われていませんが、以前はご遺体を安置していた地下室へ続く通路だったかと……」


フレアは穴の縁にしゃがみ、暗がりを覗き込む。

通路の奥から、ただならぬ気配がする。霧とは違う、重たい何か――。


「アトラ、ルルナを連れて先に広場に行ってて。アタシはもう少しここを――」


その瞬間、背後から鋭い声が飛んだ。


「そこで何をしている!」


振り向くと、カーゼル司祭が息を切らして駆けてきていた。

額に汗が浮き、肩が上下している。

だが目だけが妙に焦点を結び、こちらを射抜いていた。


「……司祭様、ご無事で――」


ルルナが言い終わらないうちに、怒声が落ちる。


「そこから離れるんだ!」


石の割れ目を指差し、カーゼルの声はひどく荒れていた。

怒声が礼拝堂の壁に反響する。


フレアは一瞬迷った。

しかし、あの通路の奥の気配、そしてラットとの会話の中で感じた疑惑、それら全てが胸の中で混ざり背中を押した。


フレアは瓦礫をどかし、地下へ続く通路の方へ足を踏み入れる。


「貴様! そこから離れろと言っているのが聞こえんのか!」


「し、司祭様……一体……」


「お前も何をしている! 早くあの冒険者を止めろ!」


ルルナは困惑しながらもフレアの方へ近づいた。

そのとき、足元のひび割れが嫌な音を立てた。


ミシリ、と床が悲鳴を上げ、二人の足元が大きく割れる。


「きゃあ!」


フレアはとっさにルルナを抱き寄せ、そのまま落下した。

闇と埃。背中に衝撃が走り、口の中に土の味が広がる。


「お、おい! 大丈夫かよ!?」


アトラが叫び、すぐに飛び降りてきた。

着地は荒いが、立ち上がるのは早い。


「なんということだ……! 今すぐそこから出てくるんだ!」


上から聞こえていた怒鳴り声が近づく。

カーゼルが瓦礫を伝い、慎重に降りてくるところだった。

救助というより、追い立てる足音だった。


フレアは手近な灯りをつけ、少し進んだ先に小部屋があるのを見つける。

壁の影が揺れ、空気がさらに冷たい。

淡い光が広がり、埃が宙に舞うのが見えた。


フレアは息を潜め、身を屈めて入る。


小部屋に出た瞬間、鼻を刺す匂いが濃くなった。

甘く、腐った臭い。

霧に混じった鉄の匂いもする。


部屋の中央には、布をかぶせられた四角い箱のような物があった。

両手で抱えられそうな大きさで、黒い金属の角ばった輪郭が布越しに浮いている。


その周囲には、ウサギや犬、羊――大小さまざまな躯が、一枚板の分厚いテーブルに並べられていた。


異様なのは、躯にびっしりと刻まれた術式の文字だった。

墨ではない。皮膚に焼きつけたような黒ずみ。霧が染み込んだような禍々しさ。


「なに……ここは……礼拝堂の地下になんで動物の……」


ふと、部屋の片隅に、棺がひとつ置かれているのに気づいた。

フレアの鼓動が速くなる。嫌な予感が背中を撫でた。


フレアは棺に近づき、蓋へ手をかけた。


「やめろ! それに近づくな!」


カーゼルはやっと地下の通路に降りてきたところだった。


フレアは爪先に力を入れて重い蓋を持ち上げる。

木が軋んで蓋が外れた。


中には、若い男の遺体が横たわっていた。


同じように体に術式が刻まれている。

冷えた肌。動かない胸。閉じた瞼。


「……兄貴……」


アトラの喉から、息の抜ける音がした。


「……えっ……?」


フレアはアトラの方を振り返る。


呟きは、すぐに叫びへ変わった。


「兄貴!! なんでここに!! 兄貴ッ!!」


棺へ縋り、肩を震わせる。


「そ……そんな……」


ルルナも口に手を当て、信じられないものを見る目で棺を見つめた。


その時、背後から、低く冷たい声が落ちた。


「安心しろ……その体に刻まれているのは防腐の術式だ……まだ、間に合う……」


振り向くと、カーゼルが立っていた。

息は整いつつあるのに、目だけが怖いほど落ち着いている。

怒りと焦りと、何か別の熱が混じっていた。


「……私の研究はもうじき実を結ぶ……このまま、失う悲しみを知らずにいればよかったものを……!」


「司祭様……これは一体!?」


「アトラのお兄さん……なの……?」


アトラは棺を揺らすように掴んだ。


「兄貴! 目を覚ましてくれ! 兄貴!!」


「騒ぐな。私の研究が完成したら、君の兄もまた元に戻る」


「研究ってなに!? アトラのお兄さんに何をしたの!?」


「私は何もしていない。事故……そう、事故だったのだ」


カーゼルは部屋の中央へ歩み、布のかかった箱へ手を伸ばした。

そして、布を乱暴に剥いだ。


黒い金属の塊。


四角く、硬く、表面には細密な記号がびっしり刻まれていた。

ところどころが赤く脈動するように輝いている。


「……それは……!?」


「これは……古代ノヴァリア文明の遺した遺物だ。ここには、古代人の言葉……すなわちノヴァリア語で、魔力による魂のつなぎ止めが記されている」


カーゼルが古代遺物を手で摩る。

刻まれた古代文字が、まるで生きているかのように赤い光を脈動させる。


「つまり、私はこれを用いて、失われた彼の命を現世につなぎ止め、彼を元通り蘇らせようというのだ」


「よ……蘇らせるって……」


「私はこの遺物の研究をするにあたり、まずは動物の死体での実験を試みていた……あのラットという男に森で集めさせてな」


「ラット……あの男か……」


「森で動物の死体集めなど、やつにはぴったりの仕事だ。残念ながら、いまだこの遺物は起動するに至ってはいないが……。だが、ある日……動物を仕留めるため、ヤツが森に仕掛けた罠に、不幸にも君の兄がかかってしまったという」


アトラは茫然とした表情でカーゼルの話を聞いている。


「そう、まさに不幸な事故だ。ヤツが罠を確認しに行ったときには、彼は致命傷を負っており、間もなく事切れてしまったのだと言う」


「そんな……そんな……!」


アトラの声が震え、拳が白くなる。


「だから私はヤツに遺体をここに運ばせて、まずは遺体が傷まないよう、術式を刻んだうえで、蘇りの研究を急いでいたのだ」


ルルナの唇がわずかに震えた。


「で、では……あの日の夜、礼拝堂に運ばれてきた荷物って……あの麻袋の中には……」


「そうだ。私が指示をしてヤツに運ばせた」


「――!!」


ルルナは言葉を失い、その場にへたり込んだ。


カーゼルは拳を握りしめ、声を絞り出す。


「本来であればこれは禁術に近しいものだ。もしも命を繋ぎとめるための力が……星理の神々と対立する、暗霧の神々の用いた手段……つまり偽りの命の創造を以って行うものだとしたら、我々が行ってよい物ではない……!」


握りしめた拳を机にたたきつけ、カーゼルは声を荒げる。


「だが! 祈りでは人は救われぬ! 教えを守り生きてきた者の最期が! 懸命に生きてきた者がこのような悲しみを背負うことのなんと理不尽な事か! だからこそ私は禁術と言われようが、この研究に心血を注いできたのだ!」


「でも……こんなのは……」


フレアは言葉を失い、喉の奥が苦くなった。

机の上の躯の文字が、灯りに照らされてぬめりを帯びる。


アトラは俯き、歯を食いしばっていた。

棺から目を逸らせない。


「分かったらここから出ていくのだ。禁術の研究を行ってしまった以上、私は最期の審判において罰を受けるだろう」


カーゼルは古代遺物に向き直り、手元に古代語の書かれた羊皮紙を広げる。


「だが、それでも構わぬ! 人々の救済のためなら私は喜んで地獄の業火に焼かれよう! そして、まだ解析は不完全ではあるが、起動を試みる。そして、私の仮説が正しいのだと……今ここで証明して見せることで、後の世において希望の光を見出すのだ!」


「だ……だめです! 司祭様! 考え直してください!」


ルルナがよろよろと立ち上がり、一歩前へ出た。

震えているのに、それでも声は真っ直ぐだった。


「どんな形であれ、魔力による命の研究は……やはり続けるべきではありません!」


「黙れ!」


カーゼルは乱暴にナイフを取った。


「貴様らなどには分かるまい! 私がどれだけこの研究に心血を注いできたか! どんな思いで……この研究の実現を願ってきたか!」


カーゼルは静かに呼吸を整える。


「大切な者を理不尽に失う悲しみは……どれほどの絶望か、私は知っている……」


刃が灯りを反射し、冷たく光る。


「……だから私の邪魔はするな。それ以上、近づいてみろ。タダでは済まさぬぞ……!」


一瞬、空気が固まった。

霧が重く垂れ、灯りが揺れる。


その沈黙を破ったのはルルナだった。

ルルナが駆け出し、カーゼルへ飛びつくようにして抑え込む。


「お願いです! フレアさん! 今のうちに古代遺物を――!」


「貴様ッ……! ええい! どけ!」


カーゼルがルルナを振り払う。

動きが乱れた。


手に持った刃が、意図せず――ルルナの胸を貫いた。


「……あっ……」


ルルナが驚愕の表情とともに、一歩、二歩と後ろに下がる。


フレアの視界が白くなった。


「ル……ルルナ!!」


カーゼルの顔から血の気が引く。


「……! しまった……!」


ルルナの口の端から血が一筋、つうと滴り落ちる。

膝が折れ、後ろに崩れ落ちる身体をフレアが抱き留めた。


「ルルナ! ルルナぁ! しっかりして!」


「……フ……レア……さん……」


刺し傷から血が溢れ、フレアの指の隙間を伝い、床に血溜まりを作っていく。

フレアは歯を食いしばり、怒りを押し殺せないまま叫んだ。



「カァァァゼルッ!! 貴様ァーーー!!!」



「な、なんてことだ……だがしかし、これは人類を悲しみから救う研究なのだ……尊い犠牲なのだ……」


カーゼルの声がどこか乾いていた。

自分に言い聞かせるように言葉を反芻している。


「いや、まだ間に合う! まだ救えるぞ! 私の仮説が正しければ、今から読み上げる詠唱で起動が行えるはずだ」


カーゼルの目がわずかな灯かりに照らされ、血走っているのが見える。

その表情には普段の冷たさはなく、ただ狂気に染まっていた。


「そうだ……急がねば! 救いは結果だ。結果が全てなのだ……! 教義ではないッ!」


カーゼルはナイフを放るように机に置く。

乱暴に置かれた血の付いたナイフは一回転して、刃先が古代遺物に当たった。


その瞬間、刃の血が吸い込まれるように消えた。


フレアには一瞬、古代遺物が刃に付着した血を飲み込んだように見え、背筋が凍った。


古代遺物が赤く光り始める。

脈打つように、強く、強く。


「な……なんだ……まだ私は読み上げては……いや、こんな機能はどこにも記述が……」


次の瞬間、古代遺物から魔力が溢れ出した。

空気が重く沈み、灯りが押し潰される。霧が黒く染まり、床を這って渦を巻く。


フレアは肌でそれを感じ取った。


ヴェノムが生まれるときの気配とは違う。

もっと濃い。もっと深い。もっと禍々しい。


「……!! これは……!! いけない!」


フレアはアトラの肩を掴み、棺から引き剥がす。


「早くここから出て! アトラ! はやく!」


アトラは振り返りながらも、異様な気配に足が動いた。

出口へ駆け出す。呼吸が乱れ、涙が頬に残ったままでも走った。


カーゼルは古代遺物に縋るように立っていた。


「ダメだ……ここでやめるわけには……! 私はなんとしてでも……!」


カーゼルの目が明滅する赤い光に照らされている。


「早く! それから離れて! それは危険――」


フレアが叫んだ瞬間、魔力が爆ぜるように地下室を満たした。

黒い霧が一気に膨れ、視界が塗り潰される。


黒い霧の魔力は、ねっとりと肌に絡みつくような感触で、古代遺物を中心に渦を巻き噴き出している。


フレアは急いでルルナを抱え、霧を掻き分けて走った。

背後でカーゼルの叫びが聞こえる。


「な、なんだ!? やめろ……! 私の中に……入ってくるな!!」


黒い霧の中、必死にもがくシルエットだけが見える。


「ぐああああ……!!」


声が歪む。

肉が軋むような音が混じり、人の叫びではなくなっていく。


黒い霧がカーゼルを包み込んだ。

影が膨れ、輪郭が歪み、骨が軋むような音がした。


フレアは必死に出口へ――崩れた床の裂け目へ辿り着き、瓦礫を踏み越え、礼拝堂の外へ飛び出した。

冷たい空気が肺に流れ込み、咳が喉を突く。


「ルルナ! しっかり!」


フレアはポーチから包帯を取り出し、止血を試みた。

だが腕の中で、ルルナの体温が少しずつ失われていく。

肌が冷えていくのが、手のひらに分かった。


そのとき。


霧の奥から、悍ましい咆哮が轟いた。

同時に、肌を刺すような瘴気が溢れ出す。

空気がざらつき、喉の奥が痛む。


黒い霧は内側へ収束していった。

中心に何かが形を結び、角が伸び、翼が生え、刺々しい輪郭が現れる。


やがて霧の中から出てきたのは、二本の角と黒く尖った翼を持つ、悪魔のような魔物だった。


フレアは背中が粟立つのを感じながら、魔物から視線をそらさず、アトラへ声を絞り出した。


「……アトラ、広場に走って……絶対に振り返らないで!」


「あ……あっ……」


「はやく!!」


フレアの声に引きずられるように、アトラは走り出した。

足音が遠ざかり、霧に溶けていく。


魔物が口を開いた。

声は途切れ途切れで、言葉が歪んでいた。


「スクイ、ヲ……ワタシ、ガ、スクイヲ……アタエル……ノダ……!」


フレアの胸が沈む。

あれは――カーゼルの声の断片だった。


「……なんて……こと……!」


よく見ると黒い翼の付け根に、司祭服の裂けた布が絡みついていた。


「キサマ、二……ジャマハ……サセヌ!!」


叫びと同時に、魔物の周囲へ膨大な魔力が集中していった。

地面を這う霧が引き寄せられ、空気が鳴り、礼拝堂の影が震える。


赤い光が、さらに強く脈動した。


フレアは自身の外套でルルナを包む。


ルルナは瞼をわずかに開けるも、焦点が定まっていない。


「……わ……私は……もう……逃……げ……」


「ルルナ、しっかりして……今、助けるからね……!」


フレアはルルナの体を、前庭のまだ原形をとどめている箇所に静かに寝かせた。

それから庇うように両手で剣を構え前に立つ。

喉の奥が焼けるようにひりつく。


赤黒く脈動する、禍々しい光を放つ翼がゆっくりと広がった。

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