第10話 焼け焦げた罠
夜が明けるか明けないかの頃合い。
昼間の熱はすっかり夜のうちに引き、頬を撫でる風がちょうどよく涼しい。
フレアとキサラは礼拝堂の台所で簡単に腹を満たすと、明かり取りから漏れる淡い光に見送られて外に出た。
門のところで、ルルナが小さく手を振る。
胸の前で両手の指を重ね、祈るような仕草をした。
「どうか……お気をつけて」
「うん、お見送りありがとう! 行ってくるね」
フレアは軽く手を振り返し、キサラとともに村の小径を進んだ。
東の端に、針金のような光が一本、地平をなぞっている。
森に着く頃には、日はまだ全体を出しきれていなかったが、梢の上面だけが、ひと息分の金色に染まり始めていた。
* * *
昨日つけた麻紐と、葉に残した折り癖を拾いながら、二人は森の奥へと踏み入った。
夜露を吸った土は湿り気を帯び、踏むたびに足音を静かに呑み込んでいく。鳥の鳴き声は短く途切れ、虫の声はまだ糸のように細い。
「昨日の目印の場所から、もう一段奥まで広げてみよう。キサラも足元に気をつけてね」
「ええ、分かったわ。私は植生を見ながらになるけど、何かあったら呼んで」
昨日見つけた目印から奥に進むと、さらに点々と同じような目印が続いていた。
それらを頼りに歩を進めると、小さな果実のなる木や、木の実が採れる木に、同じような布が結ばれていることが分かる。
「この周辺で活動してたのは間違いなさそう」
目印帯の端から、さらに数十歩。
根元に、不自然な結び目が見えた。
落ち葉を跨ぐように、細い縄が輪を作っている。
フレアは膝をつき、葉を手のひら一枚分だけ払って輪を露出させた。
しばらくその形を見つめ、位置を頭に焼き付けてから、ほとんど元どおりに戻す。
「……これ、目印じゃない」
フレアの声が、わずかに低くなった。
「罠だ」
仕掛けは踏み板式のくくり罠。
枝の反発を利用して、一気に締め上げる簡易な構造だった。
ここを勢いよく踏み込んでいたら、片足を持っていかれていたかもしれない。
(そういえば、狩人もこの森に来るって言ってたっけ。……危ない危ない)
フレアは罠の近くにある麻紐に、×印の折り癖をひとつ追加した。
他の目印と区別がつくよう、印を変えておく。
「キサラー! この辺、仕掛けられた罠があるかもしれない! 気をつけてー!」
少し離れた場所で植生を調べていたキサラに、声を張って伝えた。
「わかったわ」
キサラの返事が、木々の間を抜けて返ってくる。
二人は扇状に間隔を広げながら、足元を確かめつつ奥へ進んだ。
草の葉先に朝の光が乗り、風が向きを変えるたび、細かく煌めく。
ややあって、林床の色が一段濃くなった。
「フレア! こっち」
キサラの声は抑えめだったが、緊張でほんの少し張っている。
フレアは音を立てない速度で、声のする方へ回り込んだ。
キサラはしゃがみ込み、指先に黒をつけながら、短い角材の断面を撫でていた。
「……これ、煤ね。燃やしてある」
「向こうに、もっと。見える?」
キサラが顎で示した先、藪をしばらく分けると、箱状の枠が黒く焦げたまま崩れていた。
角材の一部は炭化し、枠の内側には折れた木杭が転がっている。
草の間で、針金の欠片が鈍く光を返していた。
構造を追えば、跳ね出しで杭を飛ばす、簡易な刺杭の罠のようだった。
フレアは慎重に、残材をひっくり返す。
木目の間に、赤黒い斑点が、縁だけ薄く残っている。
雨に一度打たれ、また乾いた——そんな輪郭だった。
「……血だ。完全には落ち切ってない」
「わざわざ燃やしてあるってことは、誰かが痕跡を消そうとしたのかもしれないわね」
キサラの声の温度が、半歩落ちる。
辺りの空気が、急に生温く、湿り気を帯びているように感じられた。
「嫌な空気ね……」
キサラがぽつりと呟く。その言葉が、森の静けさに重く沈んだ。
二人は円を描くように、周囲を絞っていった。
すると、箱罠の残骸から少し離れた場所に、雑に掘られた浅い穴がある。穴の縁に沿って、草葉に散った暗い斑が点々と残っていた。
フレアは箱罠の底板を持ち上げ、穴口にそっと合わせてみる。
寸法が、ほぼ一致しているように見えた。
「ここに、埋めてあった……で、間違いなさそう」
その瞬間、頭上で鳥がギャアギャアと鳴き、慌てたように飛び去る音が聞こえた。
フレアは林床に目を落とし、慎重に地面の“乱れ”を確認していく。
草の倒れが二本、平行に揃い、間には擦り傷のような浅い筋が見える。
幅は肩幅より少し狭い。途中で一度、重さが増したように、土のえぐれが深くなっていた。
地表に、ぺたりと貼りつくように落ちている橙色の布。
昨日の目印と同じ色だが、大半が赤黒く変色している。
端を摘むと、乾いた塊がぱりっと剥がれ落ちた。
(——嫌な予感)
フレアの胸の奥で、小さな警鐘が鳴った。
引きずり跡は茂みの手前でいったん細り、緑の色が急に暗くなる。
キサラの声が、低く届いた。
「フレア、その先は危険よ。崖になってるわ」
目を凝らすと、木々と雑草の茂みに覆われていて見えにくいが、すぐ先で道が途切れている。
だが、引きずった跡は、その先の崖の方へと続いていた。
風向きが変わり、下から湿った匂いが上がってくる。
フレアは近くの幹にロープを二重巻きし、腰と胸の二点で固定してから、崖の方へ慎重に歩を進めた。
崖下を覗き込む。
斜面は、およそ五メートル。
途中、飛び出した枝に麻布の裂片が引っかかっているのが見えた。
「ちょっと降りてみる」
「気をつけて」
フレアはロープを片手に、慎重に斜面を下っていく。
途中の麻布を指で摘んで持ち上げた。
「……衣服の一部に見える……」
足場を確かめつつ、落ち葉を払って、さらに下へ。
そこには、人が横たわったように草が人型に潰れた跡があった。
横には、片方だけの靴。
血痕は一面を染めるほどではないが、まとまった染みが二か所。
地面の粒が、血で軽く固まっていた。
フレアは、その場にしばらく立ち尽くした。
喉の奥に、鉄のような味が滲んだ気がする。
少し遅れて、キサラが魔法で浮力を生み出し、崖下へゆっくりと降りてきた。足元の様子を見て、わずかに眉を寄せる。
「……体を引きずって来て、誤って崖下に……? それとも、引きずり落とされて……?」
「いずれにしても、これだけの出血だとしたら、自分で体を動かすのは容易じゃないはずよ」
キサラの声は落ち着いていたが、フレアの顔を一度だけ、確かめるように見た。
二人はしばらく、周囲を探索した。
すると、柔らかい土に二本の線。
車輪の轍だった。幅は肘から手首ほど。縁は浅く、荷重は一人分+αほど。
手押しの荷車でも引けるくらいの重さに見えた。
「ここから何かを運んでる……いよいよきな臭くなってきたね」
「状況から見て、アトラのお兄さん……だとは思いたくないけど。誰かが怪我をして動けなくなったのを、荷車のようなもので運んでいったのかもしれない」
「とにかく、この轍を追っていこう」
フレアが辿ると、轍は茂みでいったん消え、別の角度で再び現れた。
獣の足跡と交差し、やがて風の跡に紛れて見えなくなる。
「うーん……ここで途絶えたかぁ」
「この先は茂みになっているから、地面から痕跡を追うのは難しそうね」
フレアはしばらく考え込み、ため息を漏らした。
「しばらく歩いてきたから、いったん現在地を整理しよっか。ねぇキサラ、上空から今ここがどの辺りか見ることってできる?」
「ええ」
キサラは杖に魔力を通すと、ぱしゅっという音とともに杖が箒に変化した。
箒にまたがったキサラの身体がふわりと浮き、梢の上へと抜けていく。
少しのあいだ、風と木々の層を確かめ、やがてゆっくりと降りてきた。
帽子のつばを軽く押さえ、乱れた前髪を直す。
「今通ってきた道の通り、まっすぐ進むと村の裏手側の方面に出るようね。このまま、まっすぐ進んでみましょうか」
二人は崖を回り込み、森の浅い帯を横切っていく。
小さな段差を越えるたび、足裏に伝わる土の密度が変わった。
やがて視界がふっと開け、遠くにオルフェンの裏門が見えた。
畑は少なく、岩と雑草が斑に広がっている。
裏門から延びる細い道は、街道へ向けて一本の線を描いていた。
「一旦村に戻って、今日の手掛かりを確かめよう」
「ええ、そうね」
二人は、どちらからともなく足取りを速めた。
* * *
裏門をくぐり、二人はアトラの家へ向かった。
日脚は傾き、屋根の影が長く伸びている。
前方から藁束を抱えた少年が歩いてくるのが見え、フレアの声に顔を上げた。
「アトラ!」
藁束をその場に横たえ、アトラが駆け寄ってくる。
呼気が早い。
「ど……どうだった……!?」
期待と不安が、ない交ぜになった目だった。
「あのね、アトラ、落ち着いて今から見せるものを見てほしい」
フレアは腰のポーチから血で染まった目印布と、破れた麻布の裂片を取り出した。
アトラはそれを受け取ると、しばらく言葉が出なかった。
喉仏が一度、大きく上下する。
「……兄貴の……兄貴ので、間違いない……。なぁ、兄貴は——」
「いや、まだ見つかってはいないんだ」
フレアは、アトラの目をまっすぐに見て言った。
「だけど、布の近くに血痕と片方の靴、それから荷車の轍があった。……もしかしたら、だけど、お兄さんは何か事故に巻き込まれて、そのあと誰かが運んだ可能性が——」
そこまで言うと、アトラが堰を切ったように叫んだ。
「なんでだよ! ……なんで、兄貴が……!」
アトラは拳を握り、唇を噛んだ。
肩が、小さく震えている。
フレアはしゃがみ、少年の視線の高さに合わせた。
「アトラ。明日も引き続き捜してみるから。アタシは最後まで諦めない。だから——アトラも気をしっかり持って」
アトラは数拍の沈黙のあと、力強く頷いた。
濡れた目を、乱暴に袖でこする。
「……頼む。兄貴……」
横で、キサラが声を柔らかくした。
「アトラ、お母さんの様子は?」
「今朝の薬のあと、咳はあまり……たぶん、落ち着いてると思う。少し楽そうだ」
「今日の分、また作るわね」
二人は家に入り、アトラの母にも状況を簡潔に説明した。
言葉を選びながら、血痕や靴のことはまだ伝えないでおく。
キサラは薬草を刻み、薬液を量り、煮詰めて小瓶に継ぎ足した。
湯気に混じる香草の匂いが、薄暗い部屋を一段明るくするようだった。
家を出る頃には、夕闇が影を長く伸ばしていた。
生ぬるい風が、ゆっくりと肌を撫でていく。
森で見たものの重さが、フレアの胸の底にまだ沈んだままだった。
* * *
二人が礼拝堂に戻ると、門のところでルルナが小さく手を振った。
「遅くまでお疲れ様でした。中へどうぞ~」
部屋の中には、ふわりと甘い香りが漂っていた。
小さな皿には、果実と木の実の焼き菓子が並んでいる。
昨日フレアが渡した“おみやげ”が、別の形に焼き直されていた。
「ふわぁ……甘くていい匂い」
「昨日フレアさんからいただいた果実が、とても香りよくて……お口に合えば」
フレアはひとかじりした。
やさしい甘さがほどけ、木の実のほどよい歯ざわりが追いかけてくる。
「おいしい~!」
「ええ、本当に」
キサラも一口齧り、小さく頷いた。
「よかったです~。お二人、少しお疲れの顔をされていたので……」
甘いものが喉を通ると、胸の奥で固く結ばれていた糸が一本だけ緩んだ気がした。
「ん~、手掛かりはいくつか見つかってるんだけどね……ただ、アトラのことを思うと……」
フレアは湯飲みを両手で包みながら、視線を落とした。
「そうでしたか……アトラさんのお兄様、早く見つかるといいのですが……」
湯気が落ち着いた頃、キサラが湯飲みを置いて少しだけ言いにくそうに切り出した。
「そうね……あ、明日には宿の部屋が空くみたいだから、明日には私たちはそちらに移るわね」
ルルナは一度瞬きをしてから、小さく会釈する。
「そうだったのですね。狭い部屋ですが、お役に立てたならよかったです~」
「すっごく助かったよー! ありがとう、ルルナ」
「本当、一時はどうなることかと思ったけど助かったわ」
「はわ……そんなに喜んでいただけるなんて。わたくしの方こそ、お二人とお話しできて楽しかったです~」
言葉のあとの微笑みが、甘い香りといっしょに部屋に満ちた。
皿の焼き菓子はいつのまにか半分になっていて、敷物の端はきちんと揃え直されている。
三人の話は、明日の段取りの再確認から、宿の朝のパンの噂話にまで寄り道した。
窓の外では虫の声が重なり、礼拝堂の夜は静かに、けれどいつもより少しだけ長く更けていった。




