A-B-1 名を語るのも憚られる女
前回の屈辱を振り返ってみると、私は恐らく前々回の成功で慢心してしまっていたのだろうと考えざるを得ない。
「きゃっ!」
目の前で突然転んで見せたのはあの暗愚令嬢だ。
髪の色は何をどうしたらそうなるのか理解に苦しむ桃色で、平民共と比べたら見る事が出来ない事も無いが、所詮は比較対象が平民である時点でたかが知れている程度の顔付でしかない辺境の芋男爵令嬢。
それが廊下ですれ違うかどうかと言った距離で突然アクロバティックに、まるで暗殺者がバックステップを踏んで距離を取るかの様に華麗に後ろに吹き飛ぶフリをすると、後方を歩いていたどこぞの伯爵令息にぶつかりながら地に伏して見せた。
「うおっ!?」
「だ、大丈夫か?」
「い、つつ……ご、ごめんなさい! だ、大丈夫です……」
耳を腐らせるような猫撫で声で彼女はそう言い、その伯爵令息の手を借りて立ち上がると此方を睨む。その目には涙が溜まっており、信じられないとでも言うような目つきでこちらを向いていた。
「ど、どうしてこんな事をするんですか!?」
いつもの奴か。
初めのころはその曲芸的な動きに思わず感心した事も有ったけれども、流石にもう見飽きて来ていると言うのが正直な感想だ。まあ、もう何十回と見ているので芸が無いと言うか、その後の台詞も手に取るように分かると言うか。
一つだけ気になるのは、何回やり直しても同じ場面でそれが起きることは稀で、毎回決まったタイミングでそれが起きないと言う事なのだけれども……これは毎回私の行動が違うからなのだろうか。
もはや関心すら示さなくなってしまっていると、突然目の前に安っぽい香水の香りが立ち込め、私の鼻腔を犯し始める。
思わず顔を歪めてしまった所で臭いの発生源を確認しようとすると、目の前に桃色の髪が揺らめいており、私はいつの間にかあの曲芸師に詰め寄られていた事に気付いた。
「ちょっと、サマラ! 聞いてる!?」
「……えっ、私?」
「他に誰がいるんですか? どうして私の事を突き飛ばしたんですか! 謝ってください!」
突然の意味不明な、しかしある意味いつも通りで普段と何ら変わらない妄言が飛び出た所で、私は顔を見合わせた。
「突き飛ばす……? 私が? どなたを? いつ?」
「サマラが! 私を! たった今!」
愚かな桃色が私を指さし、次に自身に指向け、最後に床に指を向けながら反吐の出そうな金切声で叫ぶ。
何と悍ましい。目の前のこの鼠にも劣る生き物がおよそ知的生命体には到底理解し得ない愚劣な存在であると言う事実はもう散々私の骨身に染み渡っているが、この生き物は私の記憶が正しければ腐っても貴族であったはず。人を指さしてはいけないと言う礼儀は平民ですらも理解しているマナー以前の物であったと私は記憶しているが、これはそれすらも分からないらしい。
「何故私がそのような事をする必要が? それを見た方が、いらっしゃるのですか? そもそも貴方は、どちら様ですか?」
「なっ……酷い! どうしてそんなこと言うの!? ねっ、今私が突き飛ばされるの、見たよね!? ね!?」
「えっ……いや、それは……」
完全に貰い事故である伯爵令息は私と【ピー】を交互に見つめ、完全に困惑している。無理もない。絵に描いたような貰い事故だ。内容的にも、何なら物理的にも。あらやだ、そう考えたらもしかしてこのお方……
「ああ、ごめんあそばせ、私としたことが……お怪我は有りませんでした? 私も正直、目の前で突然大道芸を見せられた挙句失敗して貴方がたが貰い事故で転倒されたのをお見掛けして、少々困惑しておりまして……申し遅れましたが私はバガリー侯爵家のサマラと申します。お見知りおきを」
「と、とんでもございません!! 先に名乗らせてしまい恐縮です。俺、じゃない、僕、はミノール伯爵家嫡子のピエスです。僕は平気ですので、お気遣いなく」
彼が怪我をしていないか案じながらも自己紹介をして見せると、彼は恐縮で飛び上がりながらもそう自己紹介を返してくれた。猪のような何かに突然轢かれたと言うのになんと逞しい事でしょう。それに……
「まあ、ミノール伯爵家の方でしたか。ミノールと言うと、確か最近新たに銀鉱山が見つかったとか……」
「そ、そうなんです! 降って湧いてきた様な話で正直領民や父上も含めて未だ浮足立っているのが――」
「ちょっと! なんで私を無視するの!?」
折角殿方と歓談している所で、あの汚物が再度割り込んでくる。本当に貴族とは思えない教養の無さ、それに配慮や気遣いと言う物も見受けられない。親の顔が見てみたいとはこの事か。
「あら、何方か存じませんがまだいたのですか」
「私はどうして突き飛ばしたんですかって聞いているんです! 答えてください! あと私の事はベティと呼んでって言ったでしょ!」
……どうしてもこの頭卑猥色は私が突き飛ばしたと言う事にしたいらしい。冗談じゃない。
確かに最初の数周はそんな事をしたかも知れないが、私はもう可能な限り二度とこの獣には触れないことを心に誓っている。ええ、絶対に触る物ですか。こんなのに触れたら私が発狂してしまう。
それに、そもそもこの周回ではこれが初対面のはずだ。何故なら私は徹底的に鉢合わせないよう過去の経験から統計的にこの怪物が湧いて来る場所を確認し、視界にも入れないようにしていたのだから。故に私はこのモンスターの名前を知らないことになっている。勿論目の前にいるこの名前を言ってはいけないあの人の本名は嫌と言うほど脳裏に刻み込まれてはいるが。
「ええと、私たち初対面のはずですが……以前何処かでお会いしたことが?」
「えっ……あ、そ、そうだっけ!!?」
深いため息をついて、その事実を彼女に指摘すると彼女は目に見えて狼狽して見せる。先ほどどなた様と言った事をもう忘れているのだろうか。鶏でも三歩ほど歩くまでは記憶を保持していると言うのに、歩いてもいないのに忘れるとは最早鶏にも劣ると結論付けざるを得ない。
「私はベティ・トレイソン。ベティって呼んでね!」
「そうですか――ちょっ、触らないでくださいませ!」
全く、と辟易していた隙に彼女に手を掴まれ、その手が振り回される。慌ててその手を振り払い、二・三歩程後退し距離を取ると、彼女はガラス玉のように安っぽい目を大きく見開き、再び叫ぶ。
「酷い! どうしてそんなこと言うの!? 謝ってよ!」
「ああ、手が痺れてしまいましたわ……何と恐ろしい怪力……」
「何よそれ! 酷い、酷すぎるわ!」
穢れた手で掴まれてしまった。ああ、汚染されてしまった……と涙を浮かべたいのは此方の方だ。大体その身体のどこから出ているのか分からないような高音でそう叫ばれると耳までキンキンとしびれにも似た感覚に襲われる。どこまでも無礼な麻痺撒き猿め。
「謝ってよ! そもそもどうして私を突き飛ばしたの!? どうしてここまで酷い事をするの!?」
「あの~……」
ようやく会話に入ってきたか、とうんざりしながら振り返る。
私が先ほど顔を見合わせた相手だ。
「何よ! アンタ誰!?」
「私はパルテ侯爵家次女のネールと申しますわ。僭越ながらも私ネールは、パルテ侯爵家に誓ってその様な行いは無かったと証言いたしますわ。彼女は私と教室を出てからずっと行動を共にしていたのですから、そのような事をされていれば私が見ていないはずがありません」
この国にはいくつか侯爵家があるが、ネールはパルテ侯爵家の令嬢だ。
彼女には二つほど離れた姉がおり、次期当主にはその婿養子が就任される事となっている。なお婿養子はソニン伯爵家と言う鉄鋼業の盛んな家の次男であり、名をローと言う。
ちなみに彼女の領には有名なロゼのワインの産地があり、彼女のご先祖さまにメーガン・パルテと言う方がいる。その彼女が創り出したワインの品種こそが、私が前回呑んだ毒杯に使用された。
曰く、その娘が王家に以前嫁いだことからコネクションがあり、今もたまに王家に卸しているのだとか。
そんなネールだが、彼女は入学当初から私の友人として頻繁に行動を共にしている。今回は私がネールと歩いていたところにヤツが現れたと言う事だ。
私がネールと歩いていたのは、何かあったときに証人となってもらうためだ。
……今までは自らの脇の甘さで、ある事無い事を全方位に吹き込まれ、何度も奴にやりたい放題されてきた。
だが今回はそうはいかない。徹底的に証拠で武装し、付け入る隙を無くす。独りでは絶対に出歩かない。
「っ、く……何よ、それ。権力を傘にそういうことを言うんだ。あんまりだわ!」
うわ~ん! と聴くに堪えない鳴き声を上げながら嵐が去っていく。その後ろ姿を見ながら私とネール、そしてピエスがお互いに視線を交わす。
「今のは一体、何だったのでしょう」
「さあ……私には分かりかねますわ」
「世の中には我々の想像もつかない物が溢れているとは聞きましたが、まさにそれですわね」
ピエスが茫然とした様子で呟く。天変地異を具現化したような存在が何を考えているかなど分からないし分かりたくもない。そう思い言葉を返すとネールが横で眉間に皺を寄せながら彼に返した。
大変残念なことに、想像の付かない物に接し過ぎてしまったせいで、想像が付くようになってしまった事が非常に悔やまれる。
そして私はこれから想像し得ない物を想像しその対処をしなければならないのだ。おえっ。
その事実に盛大な溜息を零しそうになるが、お上品とは言えないのでこれを胸の中で嚙み殺し、私は曖昧に頷いて見せた。
「では、僕はこれにて」
「ええ、我々も失礼いたします」
互いに礼を交わし合い、再び私たちは歩き出す。
「それにしても、先ほどあのお方、トレイソンと名乗っていましたね。トレイソンって、もしかして、あの……」
「さしあたりトレイソン男爵家の婚外子とでも言った所でしょうか」
確か雇っているメイドにお手付きして生まれたとか、そのような話を以前誰かから聞いた気がするが、それは私が今生では知り得ない情報であるため曖昧に答えて置く。
当の男爵が所謂成金である事については百歩譲っても、要するに本人はその成金ですらない、貴族のガワを被った平民と言う事になる。なるほど気品も無ければ尊さの欠片も無い訳だ。
「せめてもう少し貴族として最低限の教養を身につけて欲しい物ですね」
その様な魔の物が、あろうことか殿下を誑かすことなど、有ってはならない。だのに、なまじ私が慈悲など見せて手心などを加えるからあのような結末を迎えてしまったのだ。
故に。
「ええ。はっきり言って不快で目障りですわね」
容赦はしない。
更生し、まともになると考えた私が愚かであったと言わざるを得ない。
だから、消す。
それが私にとっての最良であると結論付けるに至った。




