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天穹の双月  作者: すだちなんてん
第一章
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旅立ち(7)

「さ、座りなさい」

 バドの後から彼の部屋に入ったマリーは、座るように促されて寝台の横の椅子を見た。彼女は知らなかったが、その椅子は、四日前にサキがこの部屋を訪れた時に、呪い師の老婆が座っていた椅子だった。その時は薄暗い部屋の中には獣油蝋燭の匂いが充満していたが、今はまだ日差しもあるため蝋燭の火は消されていて、羊皮紙を張ったサッシと窓枠の間の僅かな隙間からは眩しい光が一筋差し込んで部屋の中を照らしていた。窓の隙間からは外の空気も流れ込んできていて、それに微かに焦げたような臭いが混じるのは、噴火によって焼かれた山麓の木々の間を通った風が村にまで吹き寄せているためなのだろう。

 マリーはすぐには椅子に座ろうとしなかった。

「体の調子はもう良いの?」

 立ったまま明るい口調で話しかけるマリーに、バドは頷いて答える。

「ああ。今はどうってことない。お前の治療のおかげだ」

「そんなことないよ」

 マリーはそう言って首を振ると、悲し気な目で首から掛けた布に吊られたバドの左腕を見た。

「動かないものは仕方がないさ。婆さんもそう言っていただろう?」

 バドが言う婆さんとは呪い師の老婆の事である。バドはゴルデに左肩を刺された後、治療のために駆けつけた呪い師の老婆にマリーへの手紙を手渡し意識を失った。その手紙はサキの手を経て無事マリーに届けられている。

「さ、そんなことより座りなさい」

 バドにもう一度促されて、マリーは頷くと観念したように椅子に腰かけた。

「さっきガサキマ様と話をしてな。サキ様が目覚めても目覚めなくても、近いうちにお前をキリクに出発させようという話になった。折よくサキ様も目覚めたし、今のうちにお前にはいろいろ話をしておかないといけないと思ってな」

「うん……」

 バドの改まった様子にマリーは表情を引き締めた。

 遺跡から帰ってからの三日間、マリーはバドとまともに会話を交わせていなかった。三日前の朝、黎明の空が藤色に輝き出した頃に屋敷へ帰り着いたマリーを、意識が戻ったバドは屋外でヨナの肩を借りて立って出迎えた。マリーはバドの胸に飛び込んで彼の無事を泣いて喜んだ。

 だが、それで二人の間のわだかまりが完全に消えたわけではなかった。

 その日以降、顔を合わす機会はいくらでもあったのだが、バドが村長の務めに忙殺されていたため、落ち着いて話をする時間を取れていなかった。いや、親子の会話の時間を作ることすら不可能なほど忙しかったわけではない。マリー自身がそれを一番分かっていた。だが、問題を先送りにしたい気持ちが働いて、自分からは言い出せないでいた。

 バドはマリーの気持ちに気づいているのかも知れない。それでいて、ぎりぎりまでマリーから声をかけるのを待っていたのかもしれない。そう考えるとばつが悪いように感じられて、マリーはそっと視線を床に落とした。

「マリー……先に謝っておくが、本当はお前が塔から帰ってすぐにでも話をするつもりだったんだが、怪我と忙しさを言い訳にして今まで先延ばしにしてしまっていた。すまん」

 驚いてマリーが視線を上げると、バドは左腕を首から吊る布を右手でいじりながら決まりが悪そうにしていた。

「父さん……ううん、何も謝る事なんてないよ」

「そう言ってくれると助かる。……あの手紙は読んだな?」

 バドの質問にマリーは頷いた。サキを通じて渡されたバドの手紙は、今は呪い師の老婆からもらった秘伝書の間に封筒ごと挟んでマリーの寝室に置いてあった。彼女はこの三日間、眠り続けるサキの傍に腰かけて、その手紙を読み返そうと何度も書物を開いて封筒の中身を取り出そうとしては、途中でその手を止めて書物を閉じる事を繰り返していて、結局その手紙はサキから手渡された時に読んだきりで読み返すことが出来ずにいた。もっとも、読み返さずとも、内容を忘れることなどあり得なかった。ただ、自分の記憶している手紙の内容が何かの間違いではないかと、心の中のどこかで期待していて手紙を確認しようとするが、一方ではそれが紛れもない事実であることを知っている心の別の場所が再確認することを拒んでいた。

「読んだよ」

 消え入りそうな声で答えるマリーに、バドは「そうか」と頷く。

「あの手紙に書いたことはすべて本当だ。母さんの事。それに、お前の本当の父親の事。ゼルパに先立たれてから、男手一つでお前を育てて来た。私なりに、出来るだけ不自由をさせないようにしてきたつもりだ。だが、ずっとお前に本当のことを教えるのが怖かった。今まで何度もお前に伝えようとしてきたが、伝えられなかった。本当のことを教えて、幼いうちに母を亡くしたお前がもう一度傷つくのが怖かった。傷ついたお前の顔を見るのは、耐えられそうにも無かった」

 バドは小さく自嘲気味に笑った。

「……本当の父親だったらきっと違ったんだろうな。だから、手紙で伝えるという手段に頼ってしまった。弱い私を許して欲しい」

 バドはそう言うと、マリーに対して深々と頭を下げた。マリーは驚いて立ち上がるとバドの手を取った。

「父さん……私ね、あの塔の地下で死んじゃいそうになったの。サキが来るのが少しでも遅かったら危なかった。その時ね、思ったの。大事なことはちゃんと伝えておかないといけないって。いつでも伝えられると思ってると、ある日突然伝えられなくなってしまうんだって。それなのに私の方こそ、父さんとちゃんと話をするのを避けてしまってた。だから、おあいこって事にしようよ」

 マリーはそう言うと、頭を上げたバドの胸にそっと自分の額を埋める。

「私、ずっとずっと父さんに謝りたいと思ってたことがあるの。昔、父さんにひどいことを言ったよね。貰い子なんじゃないかって」

「マリー……お前、覚えていたのか?」

「忘れられるわけないよ。ううん、違う。忘れたふりをしていたの。父さんを傷つけてしまったこと、無かったことにしたかった。でも、もう逃げない。私、ちゃんと言うね。あの時は本当にごめんなさい。私は……私は父さんの娘として育てられて、本当に感謝してるわ。時には喧嘩することだってあるけれど……でもそれは私が父さんに甘えていたからだわ。いつも父さんに甘やかされていながら、そのことが分かっていなかったの。嫌になっちゃうくらい、子供だよね、私。でも、私にとっては……私の本当の父親って人が別にいるとしても、その人が偉い人だとしても、関係ないの。私の父さんは、父さんだけだよ。これまでも、そしてこれからも。ずっと」

 父は娘に対して語り掛ける言葉を持たなかった。ただ無言で娘の肩を抱いた。

「そうか……ただ、こうするだけで良かったんだな……」

 二人とも発する言葉もなく、そのまま立ち尽くしていた。部屋の中には時折マリーが鼻をすする音だけが響いた。

次回は1/14(土)に更新します。

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