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天穹の双月  作者: すだちなんてん
第一章
83/100

誰が為に月は満つ

 落ちていく。

 落ちていく。

 落ちていく。

 明るい水面みなもから、暗い水底へ。

 水面を照らすのは双子の月。

 青白い月光を反射して、水面は宝石箱の様に輝いている。

 そこから、何処か暗い場所へと落ちていく。

 ゆっくり、ゆっくりと。

 音も無く、ゆらりゆらりと揺れながら。

 最早、音を感じる器官は機能していない。

 アタシの肉体は沈んでいくうちに、徐々に透明な何かとなって水中に溶け出していく。

 いや、アタシの肉体を包むのは水などではない。

 水よりも粘性の高い物のようでいて、さらりとした何か。

 液体のようでいて液体ではない、物質のようでいて物質ではない何か。

 その何かの中にアタシの肉体は溶け出していき、次第に姿を失ってしまう。

 最後に残ったのは、アタシの根源の部分。

 アタシをアタシたらしめる、最小限の要素。

 誰もが概念を知りながら、誰もが触れることの出来ぬもの。

 ある時は実在を確信し、またある時は不在を確信するもの。

 肉体の檻に閉ざされた、不可知の存在。

 精神の器に満たされた、不可侵の存在。

 人はそれを魂と呼ぶ。

 その魂だけの存在となって、アタシはまだ沈んでいく。

 意識はそれを知覚しつつも、次第に朦朧となっていく。

 もはや、明確に自我の線引きをすることもできない。

 どこまでがアタシで、どこからがアタシではないか、自分自身でも分からなかった。

 そういった曖昧な存在でありながら、アタシは確かにそこに居た。

 そのアタシそのものともいえる存在が、深い、深い場所へと沈んでいく。

 その沈み続けるアタシへ、ついと近寄る者がいた。

 その何者かが何処から現れたのかは分からない。

 その何者かはまだ人としての形状を保っていた。

 だが輪郭以外ははっきりとは分からない。

 顔は見えないが、僅かに胸に膨らみがある女性のような輪郭をしている。

 彼女は深い場所へ落ちていくアタシの傍に泳ぐようにして近づいて来ると、すぐ上で背を明るい水面へ向けて沈んでいくアタシに正対する。

『君は誰?』

 アタシが発したその言葉は、泡となってブクブクと浮き上がっていく。

 その泡は確かに彼女に伝わったようだ。

 彼女は自分の唇にそっと人差し指を当てた。

 そうしてから、今度は耳をすませる様に耳の後ろへ手を当てがった。

 彼女は何かを聞こうとしているのだ。

 そして、それをアタシにも聞かせようとしているのだ。

 アタシの耳はもう形を残していなかったが、その代わりに朦朧とした意識を何とか集中させた。

 二人の傍を、暗い水底から沸き上がった無数の泡たちが通り過ぎていくのが分かった。

 今まで気づかなかったのが不思議なほどの、たくさんの泡たちが。

 それらが、一斉に暗い場所から明るい場所へ向けて沸き上がっていく。

 一つ一つの泡がアタシの傍を通り過ぎるたびに、アタシは確かに誰かの声を聴いた。

 無数の泡の一つ一つが言葉なのだ。

 それは、かつて誰かが発した言葉。

 それは、いまだ誰もが発しえぬ言葉。

 その二つは矛盾するようでいて、一つの泡の中で同時に成立している。

 ここには全ての言葉があった。

 宇宙の開闢から終焉までの間に、魂持つ者によって語られたすべての言葉が。

 アタシの傍を通り過ぎるのは、アタシの魂へ語りかけるのは、その言葉の中のほんの一握り。

 それでも、膨大な量であることには変わらない。

『あの子の事を信じておやり』

 ああ、この言葉は知っている。

 聞いたことがある。

 誰が言った言葉だっただろうか?

 肝心なことは曖昧模糊としてはっきりと思い出すことは出来ない。

『姫様、どうかそれがしにお命じくだされ』

 この言葉も知っている。

 いつもアタシの傍にいて、アタシを守ってくれる人の言葉。

『俺は、どうしようも無いガキだった』

 この言葉は知らない。

 いつかアタシが聞く事になる言葉なのだろうか?

 無数の知らない言葉がアタシの傍を通り過ぎていく。

『彼女を傷つけるのは許さない。たとえそれが誰であっても』

『こんな酷い仕打ちをする神様がいるのだとしたら、それは悪い神様に決まってる』

『大事なものだよ。だから君に預けるんだ』

『気づいてしまったのだ。本当の豊かさとは何かに』

『まさか、あんなものが宙に浮かぶとはね』

『俺はこの狂った世界を許すことなど出来ない』

『戦況は芳しくない。いざとなれば、この施設を稼働させるしかない』

『聖印とは何かを知っているか?』

『でも、あなたは歌を詠ってくれたじゃないですか』

『偽物とすり替えたんだ。誰も気づきはしない』

『友として、墓ぐらいは作ってやりたいじゃないか』

『こんなに誇らしいものかよ。どうして教えてくれなかったんだい?』

『あの人は一番大切なものを残してくれました』

『奪えば良いではないか。何故、我々が連中の顔色を窺わねばならないのだ?』

『屈辱だよ。こんなことに十六年も時間を費やすなんてね』

『思い出してごらん。君たちの歩んできた旅路は決して無駄じゃなかったんだ』

『こんな顔をアイツに見せるわけにはいかないからな』

『男の子が生まれたらオーマ、女の子ならサキと名付けよう』

 無数の泡が絶え間なく二人の傍を通り過ぎた。

 もはや一つ一つの言葉を判別することさえ難しい。

 だがその泡の中のただ一つが、アタシ達にこう伝えたのはハッキリと分かった。

『ごめんね。たくさん、たくさん待たせちゃったね』

 その言葉に彼女、正体の知れない何者かはハッとした様子で明るい水面へ振り向いた。

 再びアタシの方を向いた彼女は、ゆっくりとアタシへ向けて腕を伸ばした。

 そして、最早体を持たないアタシをそっと両手で掬いあげると、アタシを胸に抱いて上を目指して浮上し始めた。

 一体どういうつもりなのか?

 アタシの疑問をよそに、彼女はぐんぐんと浮上し続けていく。

 魂だけの存在となっていたアタシは、浮上するにしたがって少しずつ、少しずつ失ったものを取り戻していった。

 遂には明るい水面まで到達する。

 そのころには、アタシは元の姿に戻っていた。

 水面に浮かんで、月光の満ち満ちた世界の中で、アタシは改めて自分を運んだ何者かの姿を見た。

 輪郭だけの存在だった彼女は、アタシと同じように、今ははっきりと人としての姿を取り戻している。

 その顔には見覚えがあった。

 アタシはもう一度、彼女に声をかけようとした。

 今度はハッキリと自分自身の口で。声で。

 だが、彼女はもう一度人差し指を唇に当てた。

 今度はアタシの唇に。

 その時、光の中に聞き覚えのある声が響いた。 

「しっかりして! サキ‼」

次回は12/18(日)に更新します。

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